おじいさん
 
 
 
 
 若い頃、両親と弟に放蕩を尽くし、殺人のうわさまであるおじいさんが故郷ドムレシュクに戻って来たとき、村人は冷たかったのです。おじいさんとて帰って来るには相当の覚悟があったでしょうが、とても住めなかったおじいさんは、マイエンフェルトの小さな集落デルフリにやって来て、牧師館の隣に住みました。おじいさんが求めていたのは、温かく迎えられることだったのでは? ところがここの村人や牧師さんも、やっぱりわだかまりを持っています。息子夫婦が亡くなったときという、おじいさんにとって最も大変なときに、これまでの懺悔を迫ります。
 
 スピリは、この物語の冒頭に、freundlichen Dorfe Maienfeld (親切な村マイエンフェルト)と書いています。村人は、気持ちよくおじいさんを迎え入れたくて、親切から懺悔を勧めたのだと思います。牧師さんも。むしろ、後にハイジが学ぶ、信仰の厳しさにつながっていると思います。おじいさんは、ハイジの母親アーデルハイトの舅であり、みんなが親戚のような村では、習慣的に助言し合うこともあったのでしょう。おじいさんも自分が過去にしたことをいいことだとは思っていなかったはず。
 
 でも、息子夫婦の不幸は、おじいさんのせいではないと思います。信仰は、個人的なもの。息子夫婦を亡くしたおじいさんの痛みに気づき、そっと見守るのも、Freund (友人)だと思うのです。おじいさんは、怒って村を捨て、山小屋に引きこもってしまいました。
 
 とは言うものの、おじいさんはときどきは山を降り、自家製のチーズを売ってパンや肉を買うなど、生活は成り立っていました。4年経って、ハイジが叔母のデーテに連れられてやって来ました。初めは、戸惑うおじいさんでしたが、すぐに、ハイジはかけがえのない存在になりました。おじいさんはどんどん優しい心を取り戻したことでしょう。しかし、やがてデーテは、ハイジをフランクフルトに連れて行きます。「自分が学校にやるから、連れて行かないでくれ。」と言いさえすれば、よかったのでは? 大事な大事なハイジが奪われようとしていても、おじいさんは村に降りる決心がつかなかったのです。
 
 
 ハイジがフランクフルトから帰って来ました。おじいさんは、何年ぶりかに、喜びに涙を流しました。
 
 ペーターのおばあさんの家からの帰り、おばあさんに喜んでもらえることが次々にできてうれしいハイジは、クララのおばあさまが言っていた通り、やっぱり、帰る時期には神さまの計画があったのだと気づき、おじいさんに話しました。苦しかった頃、すぐに帰って来ることができたとすれば、おばあさんに毎日白パンを買えるほどのお金はいただけなかったかも知れません。また、ハイジがお祈りを始めた頃には、まだ字が読めなかったのです。その頃、帰って来ることができたとしても、賛美歌を読んであげることはできなかったでしょう。自分では考えつかなかったいいことを知っておられた神さま。神さまのもとにいるのがいいと思ったハイジは、お祈りは忘れないと言い、おじいさんにも、お祈りしましょうよ、と言うのでした。
 
 ところが、おじいさんは、気のない返事でした…。
 
 ハイジはおじいさんに、クララのおばあさまにもらった絵本の話をしました。神さまのもとへはいつでも帰れるということが言いたくて。それは、聖書の放蕩息子のたとえ。ハイジがいちばん好きなお話でした。フランクフルトでは何度も何度も読んでいました。ハイジの絵本では、息子は羊飼い。緑の牧場でお父さんの家畜の群れといました。ホームシックのハイジは、この本をもらったとき、おじいさんや故郷のことを思い出して涙したのでした。
 
 その夜、おじいさんに、方向転換のときが訪れました。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」 涙が、おじいさんの頬を流れました。
 
 故郷に戻って来たとき、おじいさんは、心のどこかで、放蕩息子のたとえのような迎えられ方を期待していたのかも知れません。ところが、おじいさんを待っていたのは、過去を赦さない村人でした。しかも、デルフリにやって来ても…。
 
 おじいさんは、村人が言うような変わり者ではないと思います。むしろ、真面目に信仰に心の拠りどころを求めようとしていた人なのだろうと思います。ただ、おじいさんの人生は、窮地に陥ったとき、逃げる傾向があったのではないでしょうか。デーテの話は、どこまでほんとうのことか? といった感じですが、たくさんあった財産を自分の責任で無くし、両親が亡くなり、弟がどこかに行ってしまったとき、おじいさんも悪い評判を残してどこかに行ってしまったのでした。その後、傭兵として入った軍隊から、けんかで人を殺めて脱走し、戻って来た故郷からも逃げ、デルフリからも逃げました。
 
 ハイジがフランクフルトに連れて行かれるときも、現実と向き合おうとはしませんでした。
 
 神に忘れられた人間は忘れられたままだ、と言い訳ばかりして来たおじいさんは、傷つき、癒されるべき人でもあったのでしょう。おじいさんを救ったのは、愛するハイジが帰って来てくれたこと、そして、他の誰よりもハイジによる聖書の言葉でした。
 
 翌朝、デルフリの教会の礼拝に出席して、牧師館を訪れます。牧師さんと村人の反応は、いかにも、freundlich (親切な)ものでした。
 
 牧師館からの帰り、朗らかな笑顔のおじいさんは、神さまは、ずっとずっと、どんなときも自分にまなざしを注いでくださっていたこと、そして、ハイジを自分のところに来させてくださったことに、しみじみと感謝するのでした。
 
 
 
<聖書の言葉> 
 
放蕩息子のたとえ ルカによる福音書15章11−32節
父からもらった財産を持って家を出て、放蕩を尽くした息子。
反省して帰った息子を父は温かく迎える。(レンブラント「放蕩息子の帰還」
 
「お父さん、わたしは天に対しても… 」は、同章18〜19節
スピリによる引用のあった箇所の新共同訳聖書からの引用です。
 
 
写真 1990年撮影 長崎県五島市 水の浦教会 MIDI Adagio