鍵本文右衛門が何故瓢箪を巣箱として使用したのか暗示する物語がある・十三世紀前半鎌倉時代に書かれたと言われる中世日本の説話集『宇治拾遺物語』である。『宇治拾遺物語』は宇治大納言源隆国が編纂したと言われる天竺、唐、日本の物語197話を集めた説話集である。日本の物語については特に京を中心とした物語が多いので鍵本文右衛門が読んでいた可能性がある。特に雀と瓢箪をめぐる物語は不遇な立場にあった文右衛門には興味のあったテーマだったろう。参考文献として使用したのは明治28年(1895)萬笈閣椀屋書店発行、文学博士黒川真頼大人序、東宮鉄真呂校訂『教科適用・宇治拾遺物語抄』である。大正時代『雀のお宿』の尋常小学校教科書取り入れに当たっては、既に教科適用として使用されていたこの東宮鉄真呂校訂が参考に使われた可能性もある。
その中の「雀、恩に報ずる事」は、親切な老婆と恩を感じた一羽の雀の物語である。
一羽の雀が子供の投げた石で腰に怪我をする。老婆は雀を憐れみ餌を与え看病してやった。回復した雀はその恩返しに”ひさご(瓢箪)”の種を運んできた。老婆が其の種を播くと”ひさご”はみるみる成長をし、食べても、食べても食べつくす事が出来ないほどの沢山の美味しい”ひさご”そして残った大きな”ひさご”を開けてみるとその中には白米が一杯詰まっていた。 この話を聞いた隣の強欲な老婆は、わざと雀に石を投げ腰を負傷させ、親切ごかしに看病をした。回復した雀は御礼に”ひさご”の種を持ってきたが、大きくなった”ひさご”は不味く食べられるものではなかった。その上、七つ八つの”ひさご”より、「そこらの毒虫ども(虻、蜂、むかで、とかげ、くちはな
宇治拾遺物語の序に『天竺の事もあり、大唐の事もあり、日本の事もあり。それが内に尊き事もあり、きたなき事もあり、少々は空物語もあり、利口なる事もあり、様々やうやうなり。』と記されているが、「腰折雀」の物語を蒙古の民話の中に発見したのが、蒙古の研究者として著名な考古学者、人類学者、民族学者である鳥居龍蔵(1870~1953)の妻きみ子であった。
彼女は明治39年~明治41年(1906~1908)にかけて蒙古王府の家庭教師を勤め、また夫鳥居龍蔵の蒙古調査に随行し、自らも女性の立場から土族学の研究を行い、昭和2年(1927年『土族学より観たる蒙古』と題する1200ページの大冊子を著し女性民俗学者の草分けとしての地位を築いた。
『黄金の杯』第26章「童話の研究」の中で、鳥居きみ子は「7月10日、今日、女生徒より聞き得たる「腰折燕」の話は我が宇治拾遺物語の中に見ゆる「腰折雀」とまかうかたもなく、相似たる、さては舌切雀にも似通ひたるふしのいとおもしろく童話の別冊に書き入れぬ」と述べている。
或る日一人の娘が衣を縫っているとそこに一羽の腰の折れた燕が落ちてきた。娘は憐れみ赤、白、黄、青、黒の5色の糸で結んでやった。回復した燕は喜んで飛び去ったが、何処からか瓢箪の種を持ってきてくれた。種を播くと瓢箪が芽生え大きくなったので切ってみると中から米が出てきた。毎日、毎日米を食べる事が出来た。それまで貧しかった娘の家は豊かになった。それを見た隣の心の卑しい娘は軒に巣くっている燕を引っ張り出し、腰を折り5色の糸で結んでやると飛び去った燕は同じように瓢箪の種を持ってきた。大きくなった瓢箪を切ると其処から蛇が飛び出し、それを見た娘はそのまま息絶えた。
「腰折れ燕の話は我が国の『宇治拾遺物語』の中にある「すずめ報恩事」にそっくりであります。燕と雀の相違はありますがその話の筋道は全く同じものであります。只、『宇治拾



江戸時代、「舌切雀」の物語が『宇治拾遺物語』の「雀、報恩の事」から産まれたとの説を検証するため江戸時代の資料を読んでいる内に大変興味深い事に気がついた。
元朝日新聞論説委員で評論家の故荒垣秀雄は昭和52年帝国ホテルで開催された『中西悟堂文化功労者顕彰祝賀会』の祝辞の中で”野鳥”という言葉は大昔から日本にあった言葉ではなく、中西が一般用語として発明した言葉である。鳥類の科学と芸術の融合を目指して日本野鳥の会が結成された。それまでは小鳥とか鳥類と言って、野鳥と言う言葉は無かった。悟堂和尚は始め飼鳥と区別するために「山野の鳥」を考えたが中西悟堂は三カ月近くの苦慮呻吟の果て新発明「野鳥」という言葉を創作した”と述べている・
実は「野鳥」と言う言葉は江戸時代後期に歌人、文筆家として活躍した伴蒿蹊(1733~1806)は随筆『閉田耕筆』の中で「飼鳥」に対する言葉として「野鳥」を使用している。伴蒿蹊は当時の「飼鳥」の風潮を憂い、”さるはこれを野鳥といやしみ、飼鳥の音あしくなるとて竹棹などもて追いやらう人もありとなん。畢竟世の風に乗ると値の貴きにまどふならじゃは。あるは耳目の玩びにあらで、利を求めるがために、他の好みを射るも多しとか。士農工商のあるがうえに、かうようの小径によりて利を謀るは論ずるに足たらねど、また大息せらる。”と述べている。(May 10, 2010)
改定・増補 (July 10,2010)
江戸時代に使われていた『野鳥』という言葉
ところ、今日では五、六百羽の雀が泊まるようになった。”このお宿を狙って鳶や隼がやって来て雀を虐めるので愛犬「赤」を置いて雀たちを守らせた。「赤は主人の意を戴し常に『雀のお宿』を守り鷹、隼を追い払い近隣の人たちの称賛の的であった”
昭和初期に撮影されたと思われる城地家『雀のお宿』には見事な孟宗竹が使用されている。孟宗竹を切断し縦に利用するデザインは今日でも見れるが四間もの長い孟宗竹を一本横使いの長屋風、アパートスタイルの巣箱は私の知る限り世界でも類例が無い。同家の周囲には現在も竹林がありこの竹材を利用した見事なバードハウスである。
17,8世紀ヨーロッパからアメリカ大陸に渡った開拓者たちは先住民族インディアンたちがヒョウタンで作った巣箱を集落の設置し、パープルマーチンの集団生活・・コロニー化を図っているのを見て、彼らも高層建築様式のバードハウスを製作パープルマーチンのコロニー化を図った。城地家の巣箱は、雀を隣人として迎えるゲストハウスであり巣箱のアパート化は集団生活を常とする雀にとっては素晴らしい生活空間の提供だった。此処には城地六右衛門の雀に対する深い愛情が見られる。
昭和59年に発刊された『奥越前の昔はなし』(大野市文化協会)『とみたの民話』(富田公民館)は両書とも、古老大島定雄(大正4年生(1915))からの『雀のお宿』についての聞書きであるが次のように述べている。”城地家は「だんな格」の家であり、明治初期、茅葺の屋根裏が雀の為に穴を開けられたり、つつかれたりして痛められたので、屋根裏に穴を開けさせないために孟宗竹を長さ二間ほどに切って五本縄で上下につなぎ、節と節の間に穴を開けて一番を節の中で暮らさせ子雀を外敵から守りました。正月元旦には雀にも施しだと言って、玄米などを竹の穴にいれてやった”
これは北欧三ケ国で、クリスマスの時期になるとオオムギの穂を庭木などに日本の門松のように飾り、野鳥達に餌を与える習慣と酷似しており大変興味深い。
* 本稿の作成に際しては城地京示様、ご家族、大野市総務部情報広報課広報広聴係 松森浩之様の絶大なるご協力を戴きました。厚くお礼申しあげます。(May 10,2010)
『小学教育掛図解説』の著者馬淵冷佑は、『雀のお宿』解説の中で、福井県九頭竜川上流富田村蕨生の豪農城地六右衛門宅にも孟宗竹の巣箱があり数百羽の雀が宿っていると述べている。
『雀のお宿』城地家屋敷は嘉永5年(1852)、当時名字帯刀を許されていた初代城地六右衛門によって建てられた。この建物は野中村の棟梁大久保源次郎が建築にあたったもので、福井県嶺北地方中央部に分布する形式であり、土間が中柱から奥まで入り込んだ奥越地方独特の様式を持っている。
福井県はこの建築後百三十五年の屋敷を文化財として後世に残すべく、昭和62年(1987)当主城地京示氏より譲り受け現在福井市「おさごえ民家園」に移築復元されている。
馬淵冷佑は『小学教育掛図解説』の中で「藁屋根の庇の下に直径三,四寸、長さ約四間の孟宗竹を4本、刀掛に架けた刀の様に針金で吊るし、その竹の1節ごとに一つづつマッチ箱ぐらいの穴をあけ、各部屋の壁で仕切った、一見アパート風のものである。此処は文化の逃避境であるだけに、今も数百羽の雀が宿って城地氏の愛護を受け、楽しい生活を続けているそうだ。』と述べている。
昭和14年(1939)朝日新聞福井通信部は当時66歳だった城地家2代目故城地六右衛門氏に「雀のお宿』解説の由来について取材し次の様な同氏の談話を載せている。(11月19日付)
”『雀のお宿』は私が16歳だった明治22年(1889)ごろ、今から50年前、「雀が田畑を食い荒らすので餌をやるから田畑を荒らすな」と餌を与えたところ、不思議に田畑を荒らさなくなったので、雀が可愛くなり軒に竹竿で二百個の雀のお宿を拵えた




(蛇)出でて子どもをも刺し、食い、女をば刺し殺してけり。雀の腰を打ち折られて、妬と思いて、万の虫ども語らい入れたるけるなり。隣の雀は、もと腰折れて鳥の命鳥ぬベかりしを、養い生けたれば、うれしと思いけるなり。されば、物羨みはすまじき事なり。」
新潮日本古典集成『宇治拾遺物語』校註者大島建彦氏によると、この話と同じような、腰折雀(”腰折れたる雀”)の瓢箪と雀の物語は山形県西置賜郡白鷹町、福井県遠敷郡名田庄村、京都府竹野郡弥生町等々日本各地45市町村の民話の中にあると言う。これだけ一般的に流布されていた民話でありながら、『雀のお宿』として瓢箪を使用した人物は鍵本文右衛門を除いては見当たらない。また舌切雀の源流を、滝沢馬琴、喜多村信節は「捜神記」としているのに対して、「日本お伽集」は「宇治拾遺物語」源流説をとっている。(July
3,2010)
然しし現状のままではその十数個の瓢箪も風雨にさらされ、破損消滅は時間の問題となってきている。「野鳥は金銭には換える事の出来ない遺産である」と言われるが、鍵本家の瓢箪の『雀のお宿』は日本人の精神史を物語る上で,我々が次の世代に引き継がなければならない貴重な遺産である。
鍵本家の『雀のお宿』は閉鎖されてしまったが、鍵本家の雀に対する愛情は今なお語り継がれ、『雀のお宿』を偲ばせる伏見人形、菓子、暖簾等が今でも旅行者の旅情を慰めている。鍵本文右衛門に始まり、歴代の鍵本家一族によって二百数十年間伝承された鍵本家の『雀のお宿』の思想は、二十一世紀の野鳥保護、ひいては環境保護運動の礎石となるだろう。




はじめに
大正6年(1917)ドイツ・ベルレプシュ男爵の影響を受けた農商務省鳥獣調査室長内田清之介(1884~1975)、葛精一(1894~1984)は日本で最初の巣箱を盛岡高等農林学校(現岩手大学)演習林に懸け野鳥の害虫駆除能力の調査を行った。その結果野鳥が高い害虫駆除能力を持つ事が証明され、農商務省は森林を蚕食、林業に大きな被害を与える害虫を駆除する野鳥を繁殖させるため全国的に巣箱懸架運動を推進、大正9年~12年の4年間にわたり31府県に合計7831個、更に大正14年(1924)に22600個の巣箱を懸架した。こうしたことから、日本では巣箱の祖は内田清之介博士と言われてきた。
これに対して、野鳥を友として迎え、慈しむための野鳥の宿りの場所としての機能を持つ巣箱は、中西悟堂が京都伏見深草の鍵本家『雀のお宿』を「ひところは日本全国で行われた鳥の巣箱はドイツベルレプシュ男爵が広大な邸内と所有地に試みて効を奏したのが元祖であるが、それよりも遥かに古く、この瓢箪の巣箱が日本にもあったわけである。」と指摘したように江戸時代から日本にも存在していた。
「害虫を駆除する野鳥を繁殖させる巣箱」ではなくアメリカ文化に見られるバードハウス思想~野鳥を「Bird Neighbor(隣人)、Wild Bird Guest(賓客)、Citizen Bird(市民としての野鳥)、Feathered Friend(羽のある友人-柳田國男は野鳥を羽客と呼んでいる。)」で雀を迎える愛鳥思想を持っていたのが鍵本文右衛門とその一族であった。
1.京都伏見深草 鍵本家『雀のお宿』誕生
元禄14年3月14日、江戸城本丸大廊下(通称松の廊下)で起きた赤穂藩主浅野内匠頭長矩の吉良上野介義央に対する所謂「殿中刃傷」事件は天皇家に対して忠誠心の篤かった徳川綱吉を激怒させ、綱吉はその日のうちに「浅野内匠頭長矩の即日切腹」、「赤穂浅野家五万石の取り潰し」を決定、告知した。
赤穂藩士であった鍵本文右衛門は野に下り、竹林に囲まれ伏見街道に面した京都伏見深草に居を構え隠遁の生活を送っていた。
口伝によると、「浪々の身で、前途を儚んでいた鍵本文右衛門の庭に、或る日1羽の傷ついた雀が迷い込んで来た。文右衛門はその雀の傷を癒し、餌を与え手厚い看護をしてやった。やがて回復した雀は同家を頻繁に訪れるようになり、文右衛門は可愛さから、巣箱として穴を開けた瓢箪を吊るしてやった。雀はやがて仲間の雀を連れて同家を訪れるようになったので、文右衛門は雀の宿りの場所として座敷、台所等至る所に大少三百ばかりの瓢箪を吊るしてやったところ常時数百羽の雀が住みつくようになった。」それ以来、鍵本家では代々にわたり、二百数十年間連綿として雀に餌を与え、瓢箪を巣箱として吊るし続けてきた。
◆『小学国語読本巻六』に掲載された「雀のお宿』
『この「雀のお宿」の話を動物愛護の精神を培う意味で重要だと考えた大正時代の文部省は、尋常小学校三年の読方の教科書(巻六第十七課)に『雀のお宿』として掲載した。この教科書は通称”ハナ、ハト読本”と呼ばれた教科書で大正7年(1918)から昭和7年(1932)まで15年間使用された。』・・・・この巷間の伝聞は誤りであることが、大正9年発行の文部省発行尋常小学国語読本巻六を入手して判明した。
実は『雀のお宿』の物語は昭和8年から昭和15年にかけて使用された”サイタ サイタ サクラガサイタ”に始まる「小学国語読本 巻六 尋常科用」(通称 サクラ読本)に掲載されていたのである。
そして大変興味深いのは、明治・大正の文豪森鴎外(森林太郎)(1862~1922)、雑誌「赤い鳥」発行者鈴木三重吉(1882~1936)、神話学者松村武雄(1883~1969)らと共に「日本お伽集」の執筆、編纂に当たった馬淵冷佑((1875~1941))が文部省国定教科書編集員として、初めての色刷、文学的教材を多用し、五大童話取り入れた画期的な”サクラ読本”編纂に参加していたのである。
そもそも、「日本お伽集」の発案は馬淵冷佑の発案だった。当時東京高師の訓導だった馬淵は”児童読物として、我が国の神話、伝説・童話の代表的なものを整理しておきたい”と考え、同僚の音楽教師山崎光子*1の義弟だった松村武雄を通して森鴎外、鈴木三重吉に働きかけた。そして、材料選択・松村武雄、文章作成・馬淵冷佑、推敲・森鴎外、鈴木三重吉,松村武雄と各自が作業を分担し「日本お伽集」が大正九~十年(1920~21)に倍風館から出版された。
明治5年(1872)の学制発布で全国に小学校が出来たが当時は子供一人ひとりに教科書が行き渡らなかったので教師は児童達に一度に教材を見せるために掛図を使用していた。この教育手法は大正、昭和と受け継がれた。
馬淵冷佑はサクラ読本『小学教育掛図解説』の「小学国語読本 巻六 尋常科用」の中で「教材は黒光茂樹画伯の画いたもので、京都市伏見区深草一本松下ル鍵本敬雄氏の『雀のお宿』をモデルにしたものである。」、「巣の数は一時は五百にも達し、江戸時代参勤交代の諸大名は伏見街道通過の際には行列を止めて見物、明治時代には兵隊が行進を止め入口に小銃を組んで、見物をした。」と述べている。
挿絵を描いた黒光茂樹(1909-1993)は若干25歳で帝展に入選した新進気鋭の画家であったが、鍵本家を訪問、具に瓢箪の「雀のお宿」を観察し、馬淵が解説の中で”本図は、鍵本家の中庭にある「雀のお宿」の冬を土蔵の方から座敷に向かって写生したもので、幾分想像を交えている”と述べているが、現存する江戸時代のつりどうろう(金燈籠)、庭の雀を眺める昭和初期の女子生徒の制服だったセーラー服を着用した、おかっぱ頭の少女の後姿を描いている。
この教材の作者は不明だが、解説から判断すると、馬淵が何らかの形でかかわっていたのではと考えられる。
第16課は「雪の夜」と題する文章であり、次いで第17課「雀の宿」では、昨夜らいの降雪に悩む雀の姿を”きのふから降積った雪に朝日がさしてどこを見ても、きらきらと銀色にかがやいています。じつと空を見て居ると、小鳥が、幾群も幾群も、悲しそうな声で鳴きながら飛んで行きます。あれは雪のためにたべものが見つからないので遠くへさがしに行くのでしょう。早く、うちの雀の宿に来ればよいのにと思つて、裏庭へ行ってみると、もう数へきれないほど雀が集まって、ちゅうちゅう鳴きながら、うれしそうに朝御飯を食べて居ます”、”けさやった餌も、もう、なくなったものと見えて、集まって居る雀は、皆さびしそうにして居ます。私は、なるたけ、此のかはいらしいお客様をおどろかさないように気をつけて、お米を入れてやりました。”と述べ、馬淵は”一少女の家では、集まって来る多くの雀を伝統的に愛護するので、雀も家人に親しみ、楽しそうに餌をついばんだり、仲良く遊んだりすることを序し、之を感読させることによつて、動物愛護の精神を養ふことを指導の目的としている”と解説している。
◆ハナ・ハト読本とサクラ読本には大きな違いがある。
ハナ・ハト読本は大正デモクラシーの中で誕生した自由主義、児童中心主義に基づいて製作された。教材は”アメリカだより サンフランシスコから シカゴから ニューヨークから”、”コロンブスのタマゴ”、”ホノルルの一日”、”トラック島便り”、”ナイヤガラの瀧”、”パナマ運河”、”アレクサンドル大王と医師フィリップ”、”リンカーンの苦学”、”リア王物語”、”チャールスダーウイン”、”トマス・エジソン”等々自由闊達に選択されている。
これに対して、20世紀初頭日本の帝国主義、軍国主義、国粋主義の台頭はファシズムを産みだし教科書の作成に多大の影響を与えた。
サクラ読本の編集責任者、井上赳(1889~1965)は東京帝国大学文科大学国文学科卒業、旧七高(現鹿児島大学 文理学部)の教授となったが、大学の先輩である高木市之助に誘われ文部省図書監修官となり、以後20年間にわたって国定教科書の編集に関わった。
昭和17年「井上赳国語読本編修20年」を祝う会が神田一橋教育会館で開催された。この祝賀会では島津久基東京帝国大学教授、西尾実東京女子大学教授等々から賛辞の言葉があったが、ある国民学校の校長は、”サクラ読本には「日本精神の高揚」が通っていない。我が国の国語読本は徹頭徹尾「皇民の練成」という一点に集中、「日本精神の高揚」一本で編集されるべきである。内容的に言えば、建国精神の高揚、勤労精神の顕彰の資料を満載すべきである”と辛らつな手厳しい批評をしている。これが、この時代の風潮であった。
明治5年(1872)の学制公布以来、教科書は自由採択性であったが、教科書出版社の競争が激しく、明治35年1902)には全
◆現存する約100年前の鍵本家『雀のお宿』瓢箪
住居の取り壊し、その後の新築の時には80数個あった『雀のお宿』瓢箪も現在は10数個残すのみとなった。残された瓢箪の汚破損、消失によって、嘗て、日本文化の中にも存在した野鳥愛護の思想『バードハウス』の証左が消滅して行くことは大きな文化遺産の喪失である。鍵本家に現存する『雀のお宿』瓢箪は同家の金銭には換え難い遺産であるばかりか、日本の野鳥愛護思想の象徴でもある。
江戸時代の日本にもあったバードハウス
孟宗竹を使ったコロニー様式の『雀のお宿』
福井・九頭龍川 豪農 城地家屋敷
あとがき

遺物語の方は面白く書き延ばしたるのみにてさしたる違いはありませぬ。」「蒙古にはこの様な童話などでも別に書いたものではなく、只、口伝えに聞き覚えているものをまた聞かしてもらったものでありますから、長い年月の間にどんなに変化して来て居るかわかりません」と鳥居きみ子は述べている。



約一万三千年前、氷結したベーリング海峡を渡り米大陸に移住したアメリカ先住民族アメリカインディアンは、モンゴルの遊牧民たちが使用しているような饅頭方パオ様式のテントで生活、トウモロコシ等を栽培、集落を形成していた。彼らがヒョウタンをバードハウスとして何時ごろから使用していたかは詳らかではない。彼らの周囲で生活していたパープル・マーチンは非常に怜悧な野鳥でトウモロコシを盗み食いするカラスの群れ、インディアン達が飼育をしていた子犬、鶏、子羊など家畜を殺戮する鷹、鷲等が頭上にやってくると警戒音を発し、インディアン達にその襲来を教えた。また春になると避寒地メキシコからインディアン達の集落に戻り家を作り雛を育てる・・・・・こうしたパープルマーチンの生活様式はインディアン達のカレンダーであり、時計の役割を果たしたとも言われている。本来パープルマーチンは森林の中の樹洞、キツツキの作った巣穴あと、崖の洞窟等に巣を作る習性を持つ野鳥だった。インディアン達はヒョウタンを酒、飲料水等を運ぶ水筒として使用していた。たまたま乾燥させるため樹木に掛けていたヒョウタンにパープルマーチンが巣を作ったのを見たインディアンは自分たちの生活に必要不可欠の情報を教えてくれるパープルマーチンを身近に住まわせる為に作ったのがヒョウタンのバードハウスだった。
アメリカインディアンはベーリング海峡を渡ったアジア人と言う説がある。カナダの画家が描いた「パープルマーチンとヒョウタンの巣箱」の中の住居は『土族学上より観た蒙古』に掲載されている鳥居龍蔵夫妻の写真の背景にある蒙古のパオに非常に類似点が見られる。またアメリカインディアンの幼児のお尻には、日本人と同様の「蒙古斑点」があると言われている。
蒙古の『腰折燕』の物語、アメリカインディアンの『ムラサキツバメとヒョウタン』、鍵本家の「雀のお宿」の瓢箪』、そして蒙古人、アメリカインディアン、日本人それぞれお尻に持つ「蒙古斑点」・・・・広いと考えがちな世界もこうして見ると思いのほか狭い世界である。
*Artwork by Canadian artist Gerard Frisheteau :Purple Martin Conservation Association :Founder and Executive Director James R. Hill Ⅲ 『Thanks To Native Americans,Purple Martins Underwent a Complete Tradition Shift』
4.アメリカインディアンの「ムラサキツバメと瓢箪」

この蒙古の民話と大変似ているのが、アメリカのバードハウスの起源と言われるアメリカ先住民族インディアンが使用していたパープルマーチン(ムラサキツバメ)の瓢箪の巣箱である。
アメリカ鳥類学の創始者と言われるアレキサンダー ウィルソン(1766~1813)は『孤独な生活をしていたインディアン達はパープルマーチンに対して”特別の尊敬心”を持ち”自分たちの村落の周辺に多数のヒョウタンを使ってバードハウスを作り、野生のパープルマーチンをSemi domesticated(飼いならし)共生を図っていた。”と述べている。*
* Alexander Wilson : American Ornithology The Natural History of the birds of United States Philadelphia Poter & Costes
Smithonian Institution Librarys pp.216 ~218pp)

3. 鳥居きみ子の発見した蒙古の『腰折燕と瓢箪』

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