1905年、ドイツのゼーバッハ地方で、ハマキムシが大発生、数マイル四方に及ぶ森林が蚕食される大惨事が起こりました。しかし、自然を愛し、野鳥の保護に努めていたベルレプシュ男爵家の森林、果樹園だけは野鳥が害虫を捕食したので被害は皆無でした。男爵は邸内、所領地の樹木、家屋壁面などに巣箱をかけ、また庭園数箇所に餌場、水のみ場を設けていました。ここで生まれ育った野鳥たちが、森林、果樹園をハマキムシの蚕食による被害から救ったのでした。

1916年、ベルレプシュ男爵に影響を受けた、農林省の内田清之助、葛精一は、日本で最初の巣箱を盛岡高等農林学校(現岩手大学)演習林にかけました。この実験で野鳥の害虫駆除能力が証明され、農林省は野鳥を繁殖させるため、全国各府県に巣箱懸架運動を推進、1927年には、皇居内吹上御苑にもかけられました。

アメリカで最初にバードハウスを作ったのは農民たちでした。広漠たる大平原に生活する、開拓時代の農民たちにとって、野鳥は家族の一員でした。農民たちは、厳しい冬の農閑期にバードハウスを作り、春を待ちました。農民たちは、わが子の成長を見守るようにバードハウスで産まれた雛鳥に、熱い眼差しを注ぎました。フェザード・フレンド(翼のある友人)は農民たちに心の安らぎを与え、そして畑の害虫を駆除してくれたのでした。

バードハウスづくりは、農民たちの間で、祖父から父へ、父から子へと伝えられていきました。最初は古びた木材で作られた単純、素朴なものでしたが、やがて自分の家や町の教会、開拓を象徴する幌馬車を模したバードハウスなど、人間の生活に密着したデザインに進化、やがて農民芸術となり、都会で生活する人たちにも、インテリアデザインとして愛されるようになりました。

ドイツ、日本の巣箱が害虫駆除の野鳥の繁殖を目的としてかけられたのに対して、アメリカでは、野鳥を繁殖させる巣箱ではなく、フェザード・フレンドのゲストハウスとしてのバードハウスでした。

この本の出版に先立ち、1922年、内田清之助は葛精一と共著で『巣箱給与に依る鳥類保護』を農務省・農務局から出版していますが、この本は、ベルレプシュ博士が1899年出版した『Der Gesamte Vogelschutz,sein Berundung Ausfunhrung auf weissenschaftlicher,naturlichier Grundlage』第2版を参考に書いたものですが、大岩は『この本は、巣箱のことよりも一般鳥類保護のことが詳しく書いてありまして、巣箱のことはほんの一部分に過ぎませんが、鳥類の保護の実行に当っては欠くべからざる好参考書であります』と末尾の参考書の中で述べています。

内田清之助の『鳥類保護事業の発祥地 ゼーバッハ訪問記』は、内田の予約無しの突然の訪問にもかかわらず、ベルレプシュ男爵夫妻が彼を昼食に招待、食後ベルレプシュ男爵が、居城と施設を5時間にわたり懇切丁寧に案内してくれたことが述べられています。そして内田が特に興味を持ったこととして、ベルレプシュ男爵考案のセメント製巣箱について詳細に報告しています。このセメント製巣箱が連綿と受け継がれ、現在、ドイツの巣箱の主流となっているのは興味深いことです。

内田清之助は序文の中で『小鳥に巣箱を供給して、かれ等に安全な住居と、産所とを与へることは、誰にも容易に出来る、最も有効な施設で、併も非常に興味のあることである。・・・・・・此の意味で私は前から、巣箱の造り方を、わかり易く書いた書物の出版を希望してゐた所、たまたま、農林省や日本鳥学会の巣箱の事業に関して、多年実地の経験をつまれた、大岩紀鹿氏が、此の種の著述の意あるを聞き、之を大日本山林会当局に謀り、その好意によって、本書が上梓されるに至ったのは、誠に喜ばしき次第である』と述べている通り、著者は両名となっていますが、表題に関しては、すべて大岩の著述であり、内田清之助は最後の20頁に『ゼーバッハ訪問記』を書いています。

『私の生家は銀座の今の松坂屋の向かい合い、現在銀座の第一銀行になっているところであつたが、そこで煙草屋をやつていたのである。煙草屋といつても通りに面したところは普通の煙草店であるが、裏の方には工場があつて、そこで刻み煙草を製造していた。その頃は刻み煙草の需要が多く方々の煙草店へ売り捌いていたのである。煙草が専売になつたのは私が一高の学生の時代で、二〇歳のときである。』

『銀座のような繁華街で育つた私が何故にまた動物学などという妙なものに志すようになつたかと人によく聴かれるが、動機は色々あつたろう。銀座のような自然に遠い土地柄で生活したために、かえつて自然にあこがれたというようなこともあるであろうし、府立一中に在学中、帰山先生という有名な博物学の良師の感化で動植物、鉱物など博物好きの生徒が輩出し、自分もそのきびについて採集熱をあおられたことも原因の一つにかぞえて間違いあるまい。
 

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ベルレプシュ男爵※1

壁には巣箱の出入り口

内田清之助博士※2

日本の巣箱運動の元祖
     
 ・・・・・・中西悟堂

巣箱とバードハウス

※1 内田清之助著「鳥学講話」1949暁書房から
※2 内田清之助著「渡り鳥」1983築地書館から

農学博士 内田清之助著 『鳥学講話』 1925年刊

内田清之助『鳥類学五十年』
  1958年 宝文館版

     日本で初めて出版された巣箱の造り方の本
              『小鳥巣箱の造り方と其応用』
             

1951年刊 共立出版

理学博士 山階芳麿編『日本鳥類の生態と保護』

内田清之助・大岩紀鹿共著
    『小鳥の巣箱の造り方と其応用』
      1929年 大日本山林会版

動物をやるものは誰でも手始めに昆虫をやるが、私も昆虫好きで熱心に昆虫をいじくりまわしていた。中学時代から仲間があつて銃猟をやつた故も大いにある。根が動物好きであるから、銃猟といつても、ただ捕るばかりではなく、標本をつくるのを楽しみにしていたが、大学院にはいつてから有名な飯島魁博士の指導を受けるようになつた。飯島先生は日本の鳥を研究した最初の学者で、猟も大好きであるところから、自然その感化で鳥をやることになつたのである。

 中学時代の帰山先生、大学時代の飯島先生は私に大きな影響を与えた師であるが、いま一人、私にとつて忘れ得ない教壇の人がいる。私の高等学校時代は、ちょうど夏目漱石先生が英国留学から帰って英語を教えた頃で、ゆくりなくも私は文豪のけいがいに接することを得た』(1953年6月 「半生の記」より抜粋)

農学博士内田清之助著『鳥学講話』は大正11年(1922)書肆中文館から出版されましたが、翌大正12年(1923)の関東大震災により絶版となりました。大正15年(1926)第1章、第2章、第5章を増補刊行されました。この版ではベルレプシュプ男爵の写真は掲載されず、”小鳥の保護を行へるベルレプシュ男爵邸”の写真が掲載されています。その後普及版が刊行され、壁に巣箱のある住宅を背景に撮影したベルレプシュ男爵の写真に取り替えられています。ベルレプシュ家によるとこの本が世界で最初に男爵の業績を紹介した本であるとのことです。

この本の初版本ともいえる『鳥類講話』は、
大正6年8月に裳華房より刊行されました。5年後の大正11年に増補、『鳥学講話』と改題されました。この間の経緯について内田博士は、『鳥類講話』自序の中で次のように述べています。

山階芳麿編『日本鳥類の生態と保護』

内田清之助著『鳥学講話』と

内田博士の『鳥類講話』はベルレプシュ男爵の業績を日本で最初(世界でも最初?)に紹介した本ですが、図版等は、”既刊鳥学の書籍・雑誌から転載”したものであり、ベルレプシュ男爵のものはなく、Bridges,Hornaday,Forbush,Job各氏の原図です。前述の大正11年版で始めてベルレプシュ男爵の原図が紹介されています。(この調査には東京都立中央図書館のご協力を戴きました。)

理学博士山階芳麿編『日本鳥類の生態と保護』は昭和26年(1951)共立出版株式会社から出版されました。山階芳麿博士が「第1章 日本鳥類相の特徴・第2章 鳥類の研究法・第3章 日本鳥類の生態 (第一節 食物について・第2節 繁殖に就いて・第3節 鳥の鳴声 中西悟堂・ 第4節 鳥の渡り 葛精一)、葛精一が第4章鳥類の保護、中西悟堂が第5章 探鳥会を執筆しています。

内田博士と協同で野鳥保護運動を行った葛精一は『鳥類の保護』の中でベルレプシュ男爵を紹介、日本で最初に懸架した盛岡高等農林学校の巣箱を自分が撮影した写真で紹介しています。なお葛精一は1961年、『鳥類の保護』(英文)で農学博士号を取得しました。

            自序   

本書の標題『鳥類講話』と云うのは、正しくは『鳥学講話』とすべきであろう。実際又執筆当初はさうするつもりであった。ところが、原稿が出来上がるに及んで考へて見ると、どうも鳥学講話では学の字が耳障りのやうな気がしてきた。・・・・・いづれ其内には著者も勉強して本書を、もそっと詳しく、組織的なものに書き改め、『鳥学講話』といふ標題を復活することが出来る様にしたいといふ希望をもっている。

農学博士 内田清之助著 『鳥類講話』  1917年刊

東京都立中央図書館所蔵

内田清之助の鳥類研究のきっかけは?