酒転童子の思い出話1
「酒転童子の生い立ちと周りの出来事」 の続編です。
(下に行くほど、古い話(前後しているのもあります)なので、下から読むといいかもしれません)
*
*団塊の世代
「団塊の世代」 って最近よく耳にします。
これって何なんだべ? と思っていました。(恥ずかしい事ですが)
インターネットで調べました。
「俺の世代の事か・・・」
1947年(昭和22年)〜1949年(昭和24年)に生まれた世代なんだそうだ。
俺達、団子の塊って言われてるんだ。
うまそうには、感じられないよなぁ。
バカにされている、と感じるのは俺だけだべか?
ほかに言い方なかったんかい。
*
*ノストラダムス
「ノストラダムスの大予言」 がどうのこうのと言っていたバカ者共 、よく生きていると思う。
こいつらに、「恥」 という文字も気持ちも無いのだろう。
お前ら、次はどんなデマを流そうとしてるんだ???
こんなデマを流して、何の罪にもならんのが不思議だよな。
*
*変
日差しのやわらかな、ある日曜日の朝の事である。
長男が小学5年生、次男が小学1年生だった。
家族そろって、少し遅めの朝食をとっていた。
テレビのホームドラマのように。
「お父さんって、変だよね」 と突然下の子がご飯をほおばりながら、言った。
「俺もそう思う」 とすかさず上の子が、漬物にのばした箸を止めて言った。
カミさんは茶碗をテーブルに置きながらうつむき、肩をふるわせていた。
俺は、カミさんが泣いていると思った。
・・・笑いをかみ殺していた。
そして、「子供にもわかるんだァ」 と嬉しそうに笑った。
星一徹ならここでテーブルをひっくり返すところである。
俺は常識ある夫であり父親であるので、そんな事はしない。
しかしこの日、俺の家族全員が俺の事を 「変」 だと思っているのがわかり、ガクゼンとした。
俺は下の子にたずねた。
「お父さんの何処が変なんだ?」
下の子はご飯を食べるのを止め、何かを考えているようだった。
だが再びごはんを食べ始め、答えは返ってこなかった。
奴なりに父親を傷つけたくなかったのかもしれない。
だとしたら、ものすごく 「変」 だと思っている事になる。
奴のたった6年と数ヶ月の人生で、いったい誰と比べて 「俺のお父さんは変だ・・・」 と思うのか?
あれから十数年、「俺のどこが変なんだ?」
奴は笑うだけで、何も答えてくれない。
*
*レーノーシャ
テレビのマユツバ番組だった。
俺、こういった番組をバカにこきながら、ウヰスキーを飲むのが好きなんだ。
ある女性霊能者が、霊の出るスポットをレポートする、といった番組だった。
その霊能者が突然走り出した。
息を切らしながらTVカメラに向かい 「あそこに殺された人の霊が・・・」 だと。
お前なぁ、広島、長崎、東京に行けないだろうが。
広島、長崎は原爆で、東京は大空襲でそれぞれ何万人も殺されているんだぞ、ったく。
よく東京のテレビ局に行けるものだと思う。
霊だらけだべ、違うか?
うそつきメ!!!
このウソを物語にして書いたら、「ホラー小説」 というエンターテイメントになるのに。
文章力、無かったんだべなぁ、このオババ。
*
*ジョーイ
幕末だ。
勤皇の志士達が 「尊皇、攘夷」 「攘夷、攘夷」と叫んでいた。
明治政府は、こいつらが作ったハズだ。
なして、「開国」 しちゃったんだべ???
日本史が赤点だった俺に、分かりやすく教えてくれないべか・・・。
*
*ウマヤドノオージ
日本史が「赤点」だった俺が言うのも何なんだけど・・・。
聖徳太子ってさ、天照大神(アマテラスオオミカミ)のチスジだよね?
と言う事はさ、日本神道の中心的な人物のハズでしょ?
これが何だって、仏教なんて異教を輸入しちゃったんだべ?
聖徳太子は実在しなかった方に、1000点。
*
*ねずみ
その頃、先輩と休日前夜はよく夜釣りに出かけた。
釣り道具一式、練り餌用のポリバケツ、夜食の海苔巻き、そしてウヰスキーを抱いて。
場所は独身寮から歩いて行ける多摩川(ガス橋の上流側)で、ねらうのは野鯉だ。
鯉は釣れればよし、釣れなかったらウヰスキーがある。
夜中、海苔巻きをつまみにウヰスキーを飲んでいたら、後ろに置いてあるポリバケツから音がした。
何だべ、と懐中電灯を向けた。
ビックリ仰天、思わず 「うわ!!!」 と叫んでしまった。
練り餌を狙って野鼠が群がっていたからである。
叫んだのは、野鼠の大きさに対してだ。
猫よりでかい鼠だった。
あんなにデカイ鼠、昼間は何処に隠れているんだべ???
*
*チョーノーリョク
1974年頃だったか?・・・会社の仲間と武蔵小杉駅近くの屋上ビアガーデンに行った。
飲み終わって帰る時、エレベーターが混んでいたので階段を使った。
最上階(屋上のすぐ下の階)まで降りた時、ある看板(看板でいいのかな?)が目に入ってきた。
それには、「超能力者 ○○・○○ー ショウ」 とあった。
ドアが開いていたので、のぞいてみた。
薄暗いステージで、自称超能力者が超能力者を演じていた。
俺は鼻で笑った。
この頃、スプーン曲げ少年、少女がやたらと出現した。
ある週刊誌が、スプーン曲げ少年のトリックを暴露した。
この子供達の父親の一人が怒って、「子供達を集めて、東京タワーを曲げてやる」と言った。
東京タワーは、まだ曲がってはいない。
あっ、そうか、曲げる方向がバラバラだったので曲がらなかったのかも・・・ハハハ。
そんな事よりこのガキ共、どんな大人になったんだべ?
気になるよなァ。
時は移り21世紀、この手の番組がいまだに、あるもんなぁ。
わざわざアメリカから日本に来て、行方不明者を捜す、といった番組だ。
お前らにそんな超能力があるんなら、日本に出稼ぎに来ている場合じゃねぇだろう。
お国のために働かんかい、あの方が喜ぶと思うよぉ。
*
*かんべんして
「バッテラ食いに行かないか」 と先輩が言った。
「いいですよ、行きますか」
たしか、土曜日の午後7時半ごろだった。
「じゃ、カメラとか準備して」
「カメラって?」
「これから新宿に行って、高速バスに乗る」
「えっ、高速バス・・・?」
「明日の朝、京都に着く」
「キョォ〜トォ〜???」
川崎の、ある会社の独身寮での話だ。
翌朝、俺達は京都にいた。
アチコチ見学し、写真を撮影し、ビールを飲みながらバッテラも食い、新幹線で帰ってきた。
それ以来、この先輩の、「食いに行かないか」 におびえる事になる。
「ラーメン食いに行かないか」
「・・・」
「すぐ羽田に行く」
「・・・」
「2時間後には、札幌だ」
いつ言われるのか、ドキドキものだった。
鰻を食べるのに、葛飾柴又まで行く人だったもんなぁ。
*
*占い
それぞれの占いが主張する。
「この占いはよく当たる」とか、「的中率が高い」とかだ。
この事は、他の占いは当たらない、的中率が低い、と言っているのと同じだ。
この、他の占いは当たらない、と言うのを信じると、当たる占いは存在しない事になる。
「目糞鼻糞を笑う」 と同じ事になるからだ。
この事に気付いたのは、百数十冊もの占いの本を読んだ後だった。
(読んだ理由は、恥ずかしくて言えない)
クソッ、こんな事10冊ぐらい読んで、気付くべきだった。
すべての占いの本を破り捨てた。
俺が二十歳を一つ二つ過ぎた頃だった。
今思い出しても、自分自身に腹が立つ。
占い師の言う事なんか、信じるな!
自分の事は、自分で決めろ!!!
それにしても、ラジオやテレビが、「本日の運勢は・・・」 などと放送してるのだから、ガッカリさせる。
で、「近頃の若者は、なぜオカルトにはまるのでしょう?」 などと平気で言うのだから信じられない。
笑い飛ばせない有害な番組、あると思いませんか?
イカサマ師をのさばらせているだけだもんなぁ・・・あんなクソ番組。
*
*分度器
世の中で最初に分度器を作った人、どんな方法で 「 1°」 を作図したんだべ???
コンパスと定規では、作図できないしなぁ・・・。
*
*弓
弓道部に入部した。
俺にとって 「弓」 は、パチンコ、吹き矢、の延長線上にあった。
スポーツでも武道でもなかったのである。
ただの飛び道具でしかなかった。
その事を、あからさまに言った事はないけどね。
部活は楽しかった。
人類が最初に作った機械で遊べるのだから、面白くないはずがないのである。
矢が的に当たると楽しいもんなぁ。
だから練習はきちんと行った。
俺が「弓道部だった」 と言うと、ビックリされる事がある。
何か勘違いをしているのだと思う。
人類が弓を使用した目的は何だったのかを、考えて欲しい。
*
*馬鹿文集
高校を卒業する時の話だ。
卒業文集に載せるから、「このクラスの事を書いてくれないか」 と頼まれた。
原稿を書いて渡した。
卒業の時、文集をもらった。
帰宅して、文集を開いた。
ビックリこいた。
名前は俺のものだったが、中身は大幅に改ざんされていた。
俺に一言も無くである。
この高校の事を、大嫌いになった。
人の原稿、勝手に改ざんしていいのかよ、バァタレイ!!!
頼まれたから書いたんだぞ、ったく。
俺は、高校を卒業してから、同窓会に出席した事がない。
ま、行く気にはならんわな。
そういえば、馬鹿文集、どうしたべ?
破り捨てたんだっけ?
卒業アルバムも、どこに行ったんだか・・・有るべか?
もしここに有っても、ゼッタイ開かんけどな。
*
*クソ先公
高校2年生の時だった。
日本史が赤点だった。
この時、日本史のクソ先公が、「お前、学校やめろ」 と言った。
俺、犯罪を犯した訳ではない、ただ日本史の出来が悪かっただけである。
先公の言葉じゃねぇだろ、バッカヤロウ!!!
この瞬間、このクソ先公と共に、この高校が嫌いになった。
おい先公共、勉強ができないだけで、生徒に 「学校やめろ」 なんて言うな。
勉強ができない生徒を教えるのが、お前らの仕事だろ、ったく。
和上ものが、ふざけるな!!!
和上もの : さて、どんな意味なんでしょうねぇ??? 広辞苑にはないですね。
日本史のセンセぇなら、わかりますよね。
こんな事、赤点の生徒に言われたくない、ってか?・・・ハハハ。
*
*母さんの歌
あれはいつ頃だっただろう?
中学の頃だったか高校の頃だったか・・・。
日本人の歌手(坂本九だったべか?)が、アメリカのTVに出演した。
歌ったのが 「母さんの歌」 だった。
♪My mother was ・・・ と英語で歌い始めた。
一番の歌詞が終わる頃、スタジオに来ていたアメリカの市民達が全員泣いた。
感動的なシーンではある。
この歌に、どうしても納得行かない歌詞がある。
それは三番の歌詞だ。
♪かあさんの あかぎれ痛い 生みそをすりこむ・・・
あかぎれに、生みそをすりこんだら、ものすごく痛いと思うんだけど・・・。
これって本当に 「あかぎれ」 にいいの???
*
*みんなありがとう
中学3年になった。
俺のクラスは、旭川市立H門中学校3年1組だ。
ごく普通のクラスだった・・・5月までは。
5月に修学旅行があった。
旅行先は青森だった。
旭川の中学で、海を渡ったのは我がH門中学が最初だったと思う。
十和田湖までは普通のクラスだった。
浅虫温泉に泊まる予定だった。
ところが、天皇の行幸とぶつかったのである。
浅虫温泉に泊まれなくなったため、青森市に戻った。
クラスは8組まであったが、全クラスが泊まれる旅館は無かった。
我が3年1組だけが、別の旅館をあてがわれたのである。
3年1組だけで夕食をとり、一泊したのだった。
もちろん、翌朝の朝食も3年1組だけだった。
人数が少ないので、夕食も朝食も、味噌汁が温かかった。
そして、このクラスがたった一晩で大変貌を遂げた。
クラス全員が仲良しになったのである。
絆が生まれた、と言っても過言ではないと思う。
なにしろ、男子、女子の垣根もなくなったのだから。
仲間はずれのいないクラスになった。
帰りの汽車の中、他のクラスは、グッタリしているのに、3年1組は元気ハツラツだった。
この状態は、修学旅行が終わっても続いた。
昼休みは体育館でクラス全員で遊ぶ。
よそのクラスが遠慮するほどだった。
遠足に行っても、クラス全員で遊ぶ。
夏休み、冬休みもスケジュールを合わせ全員が集まり、遊んだ。
一致団結するクラスだった。
運動会、優勝。
次のソフトボール大会は不本意な成績だった。
みんなくやしがった。
そして記録会、再び優勝。
(俺は運動音痴なので、まったく役に立ってはいない、すまん)
あれは何だったのか、忘れてしまったが・・・。
3年生全員が体育館で歌の練習をした。
卒業式の歌の練習だったのかもしれない。
練習が終り、音楽の先生が 「2組から8組までは教室に帰るように」 と言った。
「1組は残るように」
俺達は、「ええっ???」 と言った。
2組から8組までが体育館を出て行ってから音楽の先生が、言った。
「1組が一番うまかった、もう一度聴かせてくれ」
俺達は、「うおぉ〜!!!」 と叫んだ。
ずっと修学旅行のようなクラスだった1年間、あれはいったい何だったのだろう。
「夢のような」 とよく言うが、この3年1組は、正に夢のようなクラスだった。
俺の一番の宝物に違いない。
みんなありがとう。
そして、俺達を見守ってくれた瀧田先生、ありがとうございました。
*
*このままだと・・・
中学2年の春休みの時だった。
ある事に気付き、愕然としたのである。
それはおどろくべき事実だった。
こんな事、気付かなければよかった、と思った。
「俺、このままだと大人になっちゃうんだ」
「どうしよう???」
この時のあせりの気持ちは、筆舌につくし難い。
悩んでもどうしようもない事を、悩んでしまったのである。
「大人になりたくない!!!」 という気持ちは、今も引きずっていて、
「お前、相変わらずハンカクサイ奴だな」 と友達は言う。
みんな、大人になりたかったかい?
はんかくさい : 北海道弁で、 バカみたいな、変な、おかしな、の意味。
*
*ハサミ
俺は中学1年になったが、どこの家にもあるもので、まだ研いだ事のない刃物があった。
それは 「ハサミ」 だ。
ハサミを研いでいる、といった場面に出くわした事がなかった。
この頃、研ぎたいハサミがあったのだが、どう研ぐのか見当もつかなかった。
NHKのTV番組で、ハサミを作る町工場のドキュメントを放映した。
ハサミを作る工程が順に映し出され、いよいよ研ぎの工程である。
今なら、ビデオやDVDに録画しておくだろう。
「ハサミはこう研ぐのか」
ハサミをよく見れば、わかりそうな事だった。
こんな事がわからないのである。
さっそく、切れ味の悪くなったハサミを研いだ。
濡らしたちり紙をハサミの先で切った。
見事な切れ味だった・・・プロジェクトエックス・・・♪カゼノナカノスバル・・・。
俺が大人になったある日、ハサミを研いでいた。
「お前なにしてんだ?」 と先輩が言った。
「え? 見ての通りですけど・・・」
「どうして、ハサミをダメにしてるんだ?」 だと。
ガッカリさせるぜ、ったく・・・。
*
*技
俺が子供の頃、大工さんは様々な仕事を子供達に見せた。
現場に着いたら、ノミを研ぎ、カンナの刃先の出方を調整し、必要ならノコの目立てもした。
砥石の面直しもしたし、砥石台を直したりもした。
そして、墨を打ち、ノコを挽き、ノミで開け、カンナで削った。
全て見ていて面白いのだが、一番興味を持ったのは、刃物の手入れだ。
つまり、砥石で刃物を研ぐ事だ。
俺が子供の頃から刃物を研いだのは、大工さんの 「技」 を目の当たりにしてきたからだ。
見よう見真似だけどね。
今の大工さんは、出来上がった材料をクレーンで吊って組み立てるだけだ。
だから、子供どころか大人が見てもつまらない。
*
*肥後の守
俺が小学生の頃、肥後の守がないと、勉強も遊びもできなかった。
鉛筆を削ったり、チャンバラごっこの刀を作ったりする事ができないからだ。
使えば当然、切れなくなる。
「切れない刃物ほど、危ないものはない」 と大人は子供に教えた。
で、砥石を取り出し、研ぐ事になる。
この時、子供だって真剣にならざるを得ない。
集中しないと、怪我をするからだ。
俺が研ぎ終わった肥後の守を使って、「新品より切れる」 と従兄弟が言った。
五寸釘で刀鍛冶は断念したので、研師になろう・・・。
俺が子供の頃、大人は子供に刃物の使い方を教えた。
小学校に入学するまでに、鉛筆をナイフで削れるようにするためだ。
何があったのか忘れてしまったが、いつのまにか子供に刃物を持たせないようにしてしまった。
大人も子供に刃物の使い方を教えなくなった。
今の子供は、鉛筆も削れないらしいけど、 これって、いい事なんだべか?
*
*五寸釘
パインの空き缶に釘でたくさんを穴をあけ、炭で火をおこす。
このままだと火力が弱いので、自転車用の空気入れをフイゴとして使う。
五寸釘を火の中に入れ、真っ赤に焼く。
五寸釘をプライヤーで取り出し、金床の上でハンマーを打ち下ろす。
「お前、何してんだ?」 と親父が言った。
「五寸釘でナイフ作ってるんだ」
「釘なんて、なんぼ打っても鋼(ハガネ)にはならん・・・」 と笑った。
超ガッカリしたのを、今でもおぼえている。
俺が小学5年生の時の話だ。
*
*運動会
俺は、運動会が大嫌いだ。
運動音痴のせいもあるが、それだけが理由ではない。
何が嫌いかって、あの昼飯の時間ぐらいウンザリするものはなかった。
親が来てくれる子供は、いいさ。
事情で、親が来れない子供達も大勢いた。
その子達は、先生と食事をしていた。
子供心に、その子達に対して後ろめたいような、すまないような、落ち着かない気持ちだった。
昼飯の時間なんて早く過ぎればいいのにと思った。
運動会なんて、学校と生徒だけで行って欲しい、とつくづく思う。
親を巻き添えにするな、と言いたい。
我が家の豚児共の運動会にも行きたくなかった。
行かない訳にもいかないし、地獄の十数年間だった。
イヤイヤ行って、ごめん。
次男坊が小学校最後の運動会の時、来年から運動会に来なくてもいいんだ、と 「ホッ」 としたものだった。
あ・・・将来、孫の運動会に 「来い」 って事になるのか???
かんべんしてほしい・・・。
*
*初詣
小学校4年生の元旦だった。
家族で初詣に行った。
毎年の行事だったので、仕方なく行った。
サイセン箱にカネを投げ入れる時に、疑問がフツフツと沸き起こった。
「カミサマって、カネで動くんだ」
翌年の元旦、俺はダハンこいた。
「初詣に行きたくない!」 と。
その年から、我が家の初詣はなくなった。
大人になって、宮本武蔵の [独行道」 を読んだ。
その中に、「仏神は貴し、仏神をたのまず」 というのがある。
武蔵が本当に 「仏神は貴し」 と思っていたのか、疑問だ。
だはんこく : 北海道弁で、だだをこねる、ぐずる、の意味。
*
*何なんだべ???その2
親父が台所で何かゴソゴソやっていた。
ボウルの中にタマゴを割り入れ、泡たて器でかき混ぜていた。
十分混ざったところで、酢と油を少し入れ、さらにかき混ぜた。
また酢と油を少し入れ、かき混ぜる。
そんな事を何回か繰り返した。
そのたびに味見をした。
俺は、「何なんだべ???」 と思った。
親父の顔と、ボウルの中を交互に見た。
それは、この日の夕食に出てきた。
畑でとれたトマトにかけてあったのである。
マヨネーズだった。
塩で食べるトマトとは違っていた。
マヨネーズの作り方は、進駐軍時代に、教わったらしい。
俺のマヨネーズ初体験だった。
俺が小学4年生頃だったべか?
*
*野球
俺は、スポーツ音痴だ。
走ったり、飛んだりするのが大嫌いだった。
近所の子供達が野球をしていても、まったく興味が無かった。
もちろん、キャッチボールなんて、やった事がない。
俺が小学4年生の頃だった。
「お前バットとかグローブとか、欲しくないのかい?」 とお袋が言った。
その顔は、心配そうな顔だった。
「そんなもの欲しくないから、顕微鏡を買って」 と俺は答えた。
もちろん買ってはもらえなかったけどね。
バットとグローブだったら買ってもらえたんだべか? と今になって思う。
俺は、我が家の豚児共に謝った事がある。
「お父さん、お前たちとキャッチボールとかサッカーをしてやれなくてごめんな」 と。
豚児共は、こんな父親をどう思っているんだべ?
すっごく気になる。
*
*ホッピング
あれは何年頃だろう?
1957年、58年頃だと思う。
ホッピングが流行った事があった。
もちろん我が家には無かったし、買ってもらえるとも思っていなかった。
ところが、である。
親父がホッピングをぶらさげて帰ってきたのである。
「ほら、作ってきたぞ」 と親父が言った。
子供の目で見ても、スバラシイ出来だった。
近所のホッピングを持っている子が、「僕にも乗らせて」 と言ったぐらいである。
色々なものを作る親父だった。
酒さえ飲まなければ、本当にいい親父だった。
酒・・・か、俺にも言える事だな???。
*
*何なんだべ???
親父が、金切りバサミで鉄板を丸く切っていた。
直径は、30cmちょいぐらいだと思う。
俺は 「何を作っているんだべ???」 と思った。
次に、丸く切った鉄板の端をプライヤーでつかみ、土の上でハンマーでたたき始めた。
時間をかけてたたいて行くと、浅めの中華鍋のようになった。
今度はそれの縁をペンチで曲げ始めたのである。
曲げる方向は、たたいて丸くした方とは逆向きだった。
帽子のツバよりもっと深く曲げた。
そしてクレンザーできれいに洗った。
親父は満足そうな顔をした。
俺は 「何なんだべ・・・」 と考えたが、分からなかった。
その日の夕食の時、それは七輪の上に乗っかって出てきた。
お袋がその上で肉を焼き始めた。
親父が作ったのは、成吉思汗鍋だったのだ。
我が家は、成吉思汗の羊肉は買えるが、鍋は買えなかったのだろう。
俺が小学3年生の時で、初めて成吉思汗を食べた日だった。
成吉思汗はもちろん旨かったけど、親父が作った鍋に感動した。
今東京では、成吉思汗がブームだそうだが、いつまで続くのやら?
俺、S県で成吉思汗を食った事あるけど、旨いと思わなかった。
成吉思汗は、北海道旭川市から送ってもらったものである。
その時思ったのは、空気の違いなのかな? という事だ。
*
*松
1955年12月の中頃、親父が山から松の木を切ってきた。
2トントラックで運んできたのである。
当時はうるさくなかったのか、今こんな事したら手が後ろにまわるだろう。
「なるべく小さな松を選んで切ってきた」 と親父がうれしそうに言った。
ところが家に運んでくると、小さくはないのである。
山では大きな木がたくさんあるから、小さく見えるものは、本当に小さく感じるらしい。
毎年同じ事をしているのに、「性懲りも無く」 という事なのか。
玄関から入れようとするのだが、入らない。
高さを切り詰め、枝をはらい、ようやく家に入れる。
やっとの思いで中に入れたら、こんどは天井につかえた。
再び高さを切り詰め、あらかじめ作っておいた台に立てる。
毎年恒例の、我が家のクリスマス騒動だ。
子供にとってはうれしかったのだが、お袋にとっては 「うんざり」 だったに違いない。
貧乏だったけど、親父が進駐軍に勤めていたおかげで、ツリーの飾り物や電球はたくさんあった。
一歳と数ヶ月の妹が点滅する電球をみてニコニコ顔になった。
*
*ラーメン
冬のシバレル時、お袋は夕食にラーメンを作った。
薬味のネギしか入っていないいラーメンだったけどね。
お袋は、ラーメンの汁(つゆ)を作るのが上手だったので、違和感は無かった。
俺、今でもラーメン屋で 「かけラーメン」 を食べるもんなぁ。
お袋は、親父が夕食を食べるために帰ると、すぐ作った。
そして、次のラーメンをすぐ茹で始める。
親父は、「あっ」 と言う間に食べ終わるので、すぐ茹でるのだ。
親父は、3杯から4杯は食べた。
そしてまた仕事に行った。
1954年頃の上川町の 「シバレル」 って、どんな温度かわかるかい?
マイナス20℃はごく普通、マイナス25℃、マイナス30℃の事もあった。
当時の自動車修理工場の暖房は、石炭ストーブだった。
広い工場にたった一つのストーブだ。
俺は、酷寒の自動車修理工場で働いていた親父と、それを支えていたお袋に育てられた。
今思うと、「ありがたい」 と思わずにいられない・・・。
親父、お袋、ありがとう。
*
*ドーナツ
進駐軍が帰ってしまって、我が家の経済状態が最悪になった。
3度の食事がやっとで、「おやつ」なんてトンデモナイ事だった。
お袋は、ナス、キュウリ、ハクサイ、ダイコン、キャベツなどで、漬物を作った。
イカで塩辛も作った。 一年間食いつなぐ量である。
たまぁ〜に夕食がカレーのことがあったが、肉は入っていなかった。
肉の代わりに、サツマアゲが入っていたのである。
ま、これはこれで、旨かったけどね。
年に1回か2回、お袋は小麦粉をねってドーナツを作った。
油であげる時の香りで、胸がワクワクしたのを、今でもおぼえている。
お袋、あれ旨かったな。
俺が小学校に上がる前の事で、本当に貧しい時代だった。
*
*上海帰りのリル
「進駐軍」が旭川市からアメリカに帰国した頃の話だ。
俺は、お袋と出かける用意をしていた。
行き先はお袋の妹のところだ。
つまり、俺の叔母さんのところ。
その時ラジオから流れていた歌が 「上海帰りのリル」 だった。
うれしい事に道は雨上がりで、水たまりがアチコチにあった。
俺は水たまりに入りたくてお袋の手を引き、お袋は俺が水たまりに入らないよう俺の手を引いた。
この時なぜか、この「上海帰りのリル」が耳から離れなかったのである。
なぜなんだべ???
今でも酔っ払うと歌いたくなる歌の一つだ。
*
shutendohji
CAD