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岐阜県大垣は、日本列島のほぼ中央,濃尾平野北西端の、伊吹山地・養老山地と揖斐川に挟まれた平野部に位置している(図1・2)。 |
| 図1 岐阜県の位置 | |
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| 図2-1 西美濃・大垣の位置 |
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カシミールで作成。国土地理院数値地図標高データ50mメッシュを使用。 |
2,大垣の歴史
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大垣を含む西美濃地方は大和文化の発祥地である京畿地方に近く、岐阜県では最も古くから栄えた地域である。東海道・東山道の重要な回廊でもあり、東西文化の接触地帯となっていた。特に関ケ原付近は古くから東西交通の要衝として、軍事上からも重要な位置を占めていた。東山道方面に対する京畿の守りとして不破関が設けられたこと(646年)や、東西分け目の戦いとなった壬申の乱(672年)や関ケ原の役(1600年)がここで戦われたことはよく知られている。 |
3,大垣の範囲の変遷
| 大垣の範囲は,江戸期以降,表1のように拡大してきた。
@ 藩政期 大垣城下町の基礎が完成したのは、大垣藩十万石の初代藩主戸田氏鉄が摂津尼崎より入場して14年後の慶安2年とされている。城郭の南(京口)から東(名古屋口)にかけては美濃路が貫通し、これに添って町屋が,西から北には城郭を囲むように侍町が並んでいた(図3)。人口は江戸期を通じて一定していて,武家が6,000人,下級雑兵が500人,町屋が5,500人の計16,000人であった。 A 明治の大合併 明治22年,市町村制が施行され,国による強制的な合併が行われた。施行時には隣接14村を吸収合併し、「安八郡大垣町」となった(図4)。大正7年(1918)の市制施行後は「大垣市」となったが,この区域は昭和初期の合併まで続いた。 B 昭和初期の合併 昭和に入ると,市制施行後,初めての合併が行われた。昭和3年の北杭瀬村合併に続き,昭和15年までさらに5ケ村を合併した(図5)。 C 戦後の合併 戦後の地方財政の困窮,大垣市による大垣輪中全体の市域化構想により,昭和22〜29年(1947-1954)に9ケ村を合併,さらに昭和42年(1967)の赤坂町の合併で現在の市域が出来上がった(図6)。 当サイトでは,@を「旧大垣城下」,Aを「旧大垣市街」,Cを「大垣」とする。また,西美濃地域から揖斐郡(池田町を除く)と海津郡を除いた西美濃平野部の北・中域を便宜上,「大垣地方」(図2)と呼ぶことにする。 |
| 図3 大垣城下町(江戸期) | 図4 大垣町(1889〜1928) |
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図5 昭和初期合併後の大垣市(1940〜1947) |
図6 戦後合併後の大垣市(1967〜2005) |
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