中高野街道

中高野街道
平安時代末期になって熊野詣がすたると共に高野詣でが京都の天皇公家を中心に盛んになり、この風習は後武士、庶民にまで広がった、京都方面より大阪を通り高野山に行くには、淀川を舟で下って大阪で上陸、その後四つのルートの高野道が伝わっている、その内、四天王寺に参りそのまま、南下する路、下高野街道と南東の平野郷を通り南下する路、上高野街道の総称を、西、東高野街道に対して中高野街道と地元では呼ばれた。しかし、一般にはこの上高野街道の路を中高野街道という。
近世の街道は一般庶民にとっては寺院の参詣道として認知されていたので、それにちなんだ名称となって伝えられている。近世には中高野街道も高野山や大峯山、金剛山の参詣道として賑わい、昭和年代自動車が一般化するまで、河内(松原)の南北の集落を結ぶ重要な道であった、旧道がかなり曲がりくねっているので、長尾街道と異なり、河内の集落を行き来する生活路が発展し長距離の街道になったと推察できる
中高野街道のルート(一般には起点を平野郷とし終点を四鉤樟=楠町とする)
中高野街道は、摂津平野郷の流口(十三箇所あったと言われる木戸の一つ)から喜連、をへて東瓜破で河内に入り、大和川に架かる高野大橋(昭和戦後のジエーン台風により流失、その当時街道の西側に新道が建設されつつあったたので、その道の橋として200m西に建設、旧橋は再建されなかった)を渡り(300年あまり前は大和川はなかったので橋も無い、また橋が架かるまでは、渡し船があった時期もあるという)、三宅、西阿保、ここで長尾街道に交差し上田、新堂、岡、ここで竹内街道と交差し丹南(高木藩在所)、黒山、と進み狭山で下高野街道に合流する、東除川を渡り半田へ、伏山、須賀と進み、長野の四鉤樟(楠町)にて、堺からの西高野街道と合流、更に先(現、河内長野駅前付近)で八幡からの生駒山麓の道、東高野街道に合流、北村、上田、三日市、新田、石仏、流谷、天見、紀見峠を越え、紀州伊都郡橋本、高野口、慈尊院が登山口の町石登山道ルートで高野山大門に至る。
 
平野から北の部分(明治の大阪府の道路制で鶴橋村大字東小橋まで、大正13年の大阪府統計書で国道二号線守口まで)にもこの街道に入る道筋があり、ここも中高野街道と呼ばれることもあるが、歴史的に新しく京街道筋の守口から放出を通って平野に通ずるので放出街道と呼ばれることの方が多く、また、四天王寺から平野郷までは奈良街道(亀瀬越)と同じルートであるので、出発地を平野とする。
終点は明治、大正期の道路制では、茱?木(くみのき)としているが、古い道標の存在などから四鉤樟(楠町)とするのが合理的である。 
現在の街道の風景--06'6.21から開始し、06'12.19平野から河内長野市楠町の西高野街道合流点まで全線踏破
(2)松原市域風景へ----- ルート図へ松原市三宅から丹南まで、約5.5km--全域完成、最終確認日06'10.29
(1)大阪市域編風景へ--- ルート図へ街道の起点平野から瓜破まで、全域完成、最終確認日06'11.3
(3)堺市美原域風景へ--- ルート図へ美原区真福寺から美原区菅生まで全域完成、最終確認日06'12.11
(4)大阪狭山市域風景へ  ルート図へ東野から半田まで全域完成、最終確認日06'12.19
(5)河内長野市域風景へ  ルート図へ富田林市伏山から河内長野市楠町の西高野街道合流点まで最終確認日06'12.19→09'1.17
07'8.22.文字コードをUnicodeからANSIに変更   
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09.1.18