古代の松原を通る官道 大津道

大津道の定説
長尾街道の前身の大津道は、難波と大和飛鳥を結ぶ国家によって飛鳥時代に作られた大道で、堺市(難波から南下する難波大道が堺市と松原市の境界で接続)から河内平野を丹比道の北2kmを平行して東進、二上山の北麓の峠越えで、大和に入り長尾神社(磐城駅北200m)に至る、ここより横大路の大道で飛鳥に通じていた。
都と海外の海の玄関口を繋ぐ大動脈として、にぎわう、都が平城、移った奈良時代にても河内の国分で大和川沿いに斑鳩に達する竜田道に連絡し難波等の和泉、河内、摂津の湊と都を結ぶメインルートとなっていたと考えられている。
大津道は、堺市北三国ケ丘町の方違神社と奈良県北葛城郡当麻町長尾の長尾神社とを結ぶ道であると一般的に考えられています。
府道堺、大和高田線のひとつ北側の道で、方違神社、新堀、船堂、花田、天美我堂で松原市に入り、新町〜高見の里〜田井城〜阿保〜上田〜西野々〜一津屋、と東に進み、羽曳野市恵我之荘、島泉、藤井寺市小山、岡、沢田を経て国分で、今の国道165号線か、沿いで、関屋峠を越え、関屋、穴虫、二上山駅の北側を通り磯壁で、168号線か、沿いで南下、磐城駅南にある長尾神社で、竹内街道と交わる。
現在は、国道165号線(国分から大和高田)、大阪府道堺大和高田線(堺から国分)が、ほぼ平行して建設され堺市から奈良県葛城市方面への主要道路となっている 
文献にでてくる大津道
日本書紀の天武天皇元年条に「飛鳥古都を占拠していた大伴連吹負は近江大友軍を迎え撃つため部下の坂本臣財らを河内の国境まで進出させ、近江軍の手中にあった高安山中の高安城を攻略した、次の日の明け方、西の方を見ると大津、丹比両道から近江軍の壱岐史韓国の大部隊が旗をなびかせつつ、大和の国境へ向かっているのが見えたのであった。
壬申の乱が起こった7世紀後半に河内に東西に通じる2本の道があったことが判る
遺跡と大津道
1982年に松原市上田2丁目の、長尾街道(幅6m)の中心から約10m南側に幅1.7m、深さ0.3m、長さ10mの溝と、溝の肩より20cm高くなった路面構造が検出され、溝の中から6世紀末から7世紀初めの須恵器や、墨書土器の破片が見つかっている、
 平城京の朱雀大路にみられるように、当時の幹線道路は幅20mでその中心の6mが現存したともいえる。
壬申の乱の記事にあるように7世紀後半までに大津道が設置されていたことは文献では知られていたが遺構や遺物の検出が、この時期に一致する。  
異説、大津道は丹比道
  
定説、大津道のルートの道は丹比道と呼ばれていたとの説がある
現在、道の風景
長尾街道の風景へ大津道の現風景は堺から国分までは長尾街道と同じ
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