古代の松原を通る官道 丹比道 更新08.3.19

丹比道
竹内街道の前身の丹比道は、難波と大和飛鳥を結ぶ国家によって飛鳥時代前後に作られた大道で、堺市(難波から堺市までの南下する道は難波大道)から河内平野を大津道の南約2kmのところを東進、二上山の南麓の峠(竹内峠)越えで、大和に入り長尾神社(磐城駅北200m)に至る、ここより横大路の大道で飛鳥に通じていた。
都と海外の海の玄関口を繋ぐ大動脈として、にぎわい、都が平城、平安に移り、国道一号線としての地位を譲るものの、竹内街道と名を変え、河内、摂津の湊と大和を結ぶ道、あるいは、寺院の参詣道として、長い間、鉄道ができるまで、にぎわう。
現在、この街道に平行(一部分では拡張)して、国道166号線(古市から長尾)、中央環状線(堺から松原市)建設され、更に南阪奈高速道も開通した。 
丹比道のルート
竹内街道と同じルートと考えられるが、古市、以西については、今の竹内街道より少し南を走っていたのではないかと考えられている。
その根拠は、「埴生坂」で、これは埴生岡(今の羽曳ヶ丘)の上の坂でならぬことは、仁賢天皇の埴生坂本陵(仁賢紀十一年八月の条)、来目皇子を葬った「河内埴生山岡上」(推古十一年二月の条)の記事からも明らかであり、孝徳紀大化五年(649年)三月己巳の条の「丹比坂」もこれである。
ところで、今の竹内街道は石川を渡って羽曳ヶ丘に突き当たる軽里から丘の麓を北に迂回し野々上3丁目から真っ直ぐ西へ走っているのであるが、履中天皇の物語からすれば、丹比道はこの丘の上の「埴生坂を越えていたはずであり、現在もその址は、ほぼ確認できる。今、近鉄古市駅の南の竹内街道を西へ進むと、軽里で丘に突き当たるが、そのまま丘の上に登る路がある、その両側は住宅街になっており、路は羽曳野1丁目と2丁目境界になっている。この路を坂の上まで登って丘の西斜面を下ると田んぼになってしまうが、その延長線上約1200mの地点にある郡戸からは、真っ直ぐ西に伸びた道が真福寺、今井を経て、金岡神社の南に至る、一方、難波宮からの難波大道の南延長線はここで交わる。これがこれが、丹比道の古道でないかと思われる。

この項、参考文献、探訪古代の道、第1巻南都をめぐる道の第3部記紀、万葉と古道、著者:土橋寛。

異説----竹内街道と大津道
現在竹内街道は丹比道の後身であるとの説が定説であるが、異説として同時期の大津道という名称で定説大津道ルートは丹比道と呼ばれていたとの説があり、加えて、難波大道との接続は斜めに走る丹比斜行道(松原市天美我堂から環状線美原ロータリー付近、松原市立部の間)でこれが古い丹比道であるとの説がある、 なおこの斜行道は住吉大社と大阪市平野区喜連を結ぶ磯歯津路(後の八尾街道)とも接続していたので近世では住吉道と呼ばれている
文献にでてくる丹比
古道伝承が最も早くみえるのは日本書紀の仁徳天皇十四条に「この歳大道を京の中につくる南の門より直ちに指して、丹比邑に至る」とある
現在の道の風景
風景は竹内街道と同じであるので 竹内街道へを参照してください
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