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一大率・ 難升米の読み方と 白日別の意味 |
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「難升米」の「米」は「大目」のことである |
| 目次 |
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| 「難升米」は「奴国の・のぼる・こめ」である |
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| 「難升米」と「帥升」 |
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第
2章 難升米(なんしょうまい)
「巨目(こめ)」とはなんの事であろうか。「巨目(こめ)」とは「大きな目」のことである。
古代日本には「大きな目」に対する信仰があった。次の
鳥越憲三郎氏は、
「中国雲南省のワ族は倭(わ)人と共通の祖先を持ち、古代日本人の民俗と基本的なところ(高床式住居等)で共通点がある。」という考え方を著している。|
(中国雲南省少数民族ワ族の)村の門に〆縄(しめなわ)や鬼の目をつける習俗は、各戸の家にも及んでみられる。 門を設けるタイ族では、門のほか戸口にも鬼の目のついた〆縄がみられるが、ワ族には家に門がないので、どの家でも母屋に入る戸口の上に鬼の目をつけた〆縄を張っている。それは他の少数民族も同じである。 日本では正月に〆縄を戸口に張るが、(三重県)伊勢志摩地方では〆縄の中央に吊る「笑門(しょうもん)」と書いた木札、それは春がもたらされた家であることを意味するが、その木札の裏に鬼の目が墨書きされている。 椛蜿C館発行「弥生文化の源流考」より |
私の祖父は、明治
18年(1885)生まれで既に故人であるが、生前、節分には家の裏木戸に、柊(ひいらぎ)の小枝を縛った竹ざおを立てた。その竹ざおの上の方には竹で編んだ「荒目の篭」が付いていた。
日本書紀には、ニニギノ尊の御子(海幸彦・山幸彦)の物語がある
彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと、山幸彦のこと)は兄の釣り針を失くし、困ってしまい海神(わたつみ)の宮へ行くことになるのだが、その時乗る船は「無目篭(まなしかたま、堅く編んだ隙間の無い篭の意味)」である。堅く編んで水が入らない様にした乗り物である。これは「日本書紀神代下第
「米(こめ)」の呼称は、後世「久米(くめ)」に変化した。
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巨目(乙こ乙め)→米(乙こ乙め)―→久米(く乙め) |
日本書紀の中で、「大来目(古事記は大久米)」は、神武(じんむ)天皇東征において、和歌山県熊野灘より上陸してからの戦闘で、大活躍する将軍である。
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大久米命の黥(さ)ける利目(とめ) |
これは古事記における記述である。
神武天皇は東征で賊を全て平定し、橿原(かしはら)で即位してから皇后選定に入る。
皇后になる富登多多良伊須須岐比売命(ほとたたらいすすきひめのみこと、またの名を媛蹈鞴五十鈴媛命)は、大久米命が「目のまわりに刺青(いれずみ)をして目が裂けたようになっている」のを見て、不思議に思い歌を詠む。「大久米命の黥ける利目」はその場面で使われている語句である。
この記述により、将軍大久米命が目の縁に刺青をして、目を大きく見せていたことがわかる。
今のアイラインとは違って魔よけである。勇者としてのシンボルであろう。ここにも「大きな目」の信仰が現われている。
「難升米(なののぼるこめ)」が、目の周りに刺青をしていたかどうかは記述されていない。しかし、魏志倭人伝には次の記述がある。
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男子は大人も子供も、皆黥面(げいめん)文身(ぶんしん)している。 |
「黥面」は顔の刺青である。「文身」は体の刺青である。「皆」であるから男子全員である。
記紀には、活目入彦五十狹茅(いくめいりびこいさち、第
11代垂仁天皇のこと)や物部目大連(もののべのめのおおむらじ)などをはじめ、「活目(いくめ)・生目(いくめ)・深目(ふかめ)・長目(ながめ)」がつく人物は多い。
「米(こめ)」は「大きな目」の意味を持つ個人名である
私は「難升米」を「なののぼるこめ(奴の昇・巨目)」と読む。
外交での最大の功労者「難升米」は奴国の重臣だったのである。
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