一大率・難升米の読み方

白日別の意味

金印の謎が解けた


目次

金印と綿津見神

解明された卑弥呼の謎


11章 卑弥呼の出自

 

7節 磯良崎

 前ページまでで「卑弥呼の出自」は明らかにされた。
 ここでは次の事柄について、もう一度詳しく見てみる。

 金印綿津見神として、志賀島古戸の「海に注ぐ小川のほとり」に埋納された
                             
前ページ)より

 

4.金印の謎が解けた

@、金印埋納の理由
(1)、「磯良崎と綿津見神(磯良神)の伝説」は、金印綿津見神信仰に基づいて埋納されたことを示している。
 特に、伝説の「神が湧き出る清水をお飲みになった」という情景と、発掘時の「
金印が水路の縁に造られた石囲いの中から発見された」という状況が不思議なほど一致する事は、伝説が金印埋納の史実に基づいて生まれたものであることを物語っている。
 金印は綿津見神であった。
 伝説が示すように、金印が埋納当初から綿津見神そのものであったことは明白である。
 金印は神の御神体を祀るという目的だけのために埋納されたのである。
(2)、金印が志賀島に埋納された理由には、これまで諸説があった。
 しかし、
(1)の理由により、金印は副葬品ではないことがわかる。王墓の副葬品と言う墳墓説は除外されるだろう。
 また、綿津見神として埋納されたことが伝説となり、永く語り継がれ畏敬されてきたことは、隠したのではないことを示している。倭国大乱や国の滅亡による遺棄・隠匿などという説は、さらさら成立しない。
 金印埋納は祭祀遺構説に限られることになる。(航海安全祈願に限定するのではなく、もっと広い意味の祭祀遺構)
(3)、金印は何故に埋納されたのであろうか。
 この「何故に」というのは、金印が御神体として崇められていても、後漢より下賜されてからすぐに埋納されたとは考えられないからである。
 金印は、後漢皇帝が倭王の地位を認定した証であり、王の身辺にあってこそ最も威力を発揮する。諸国を威圧するために、皇居の祭壇に、あるいは玉座よりも更に上座に、最上格の御神体として祀られていた筈である。
(4)祭祀遺構説に基づけば、金印が埋納された理由には次の2つが考えられる。
 A、後漢滅亡(
220年)で金印の神威が低下した。(後漢滅亡は「図表11-12・中国古代王朝」を御覧ください。)
 B、新しい「倭王印」が中国皇帝から下賜されたため、古い「漢委奴国王」印は現役引退となった。
(5)、Aの年代は、既に卑弥呼の時代に入っている(詳しくはこちらをご覧下さい)。
 Bの新しい「倭王印」は、
景初3年難升米を遣わした時239年)に魏皇帝から下賜された親魏倭王」の金印紫綬であり、これも卑弥呼の時代である。
(6)、このことは、1つには、金印が1世紀から3世紀まで受け継がれ続けてきたことを意味する。
 途中乱世を経過したとしても、それが金印埋納の契機になったわけではない。遺棄説・隠匿説は既に排除したとおりである。
 また、
金印「邪馬台国説」では、倭奴国は後漢時代の邪馬台国である。2つめに意味することは、金印が1世紀の邪馬台国から3世紀の卑弥呼の時代まで、王の権威の象徴として受け継がれてきたということである。
(7)、つまり、ABどちらの場合であっても、金印を綿津見神の御神体として埋納したのは卑弥呼ということになる。
 卑弥呼は、金印が最上格の御神体であるとして、志賀島という綿津見神の聖地へ返納したわけである
(8)、このように見てくると、金印と埋納者の関係で新しい問題が生じたことに気付く。
 
(a)(1)で『「磯良崎と綿津見神の伝説」は、金印綿津見神信仰に基づいて埋納されたことを示している。』と述べた。
 
(b)、次に『金印が埋納当初から綿津見神そのものであったことは明白である。』と述べた。
 
(c)、他方、前ページ末尾では『「金印の所有者の部族神も綿津見神であった」ことは、可能性ではなく確信である』と述べた。
 ところが、金印埋納者は卑弥呼であるから、その時の金印所有者も卑弥呼となる。
 すると、
(a)「金印が綿津見神信仰に基づいて埋納されたこと」は確かであるにしても、志賀島が選ばれたのは(b)「金印が埋納当初から綿津見神そのものであった」ためなのか、それとも(c)「金印の所有者(卑弥呼)の部族神も綿津見神であった」ためなのか、という問題が出てくる。
 これについては、諸国を統治するために金印が最上格の御神体とされていたことを考えると、明確な結論がでる。
 何故なら、最上格の御神体が別系統の神のもとへ返納されることはありえないからである。
 つまり、
(b)「金印が埋納当初から綿津見神そのものであった」からこそ志賀島に埋納されたのであり、そのことは「卑弥呼以前の所有者(倭奴国王)の部族神も綿津見神であった」ことを意味しているのである。
 実体のある金印が綿津見神という属性を持っていたことが、既に明らかになったのである。「記紀」の綿津見神・住吉大神の誕生記述とそれに続く天照大神の誕生記述も、歴史的に重要な意味を持っているということになる。
 やはり、前ページ末尾に述べたとおり、卑弥呼(初代天照大神)は、部族神が綿津見神であり、同じ部族神を持つ倭奴国の出自ということになる。
(9)、もう一度言い換えると、「倭奴国は1世紀から継続して綿津見神を部族神としていたために、金印は同神の最上格の御神体とされ」、かつ「卑弥呼はその王族の出自であったために同一の部族神を崇め」、「金印は聖地・志賀島に埋納(返納)された。」

A、金印埋納の時期
 @で、金印埋納の理由をA後漢滅亡(
220年)の為、またはB新倭王印を下賜された為としたが、一体その内のどちらだろうか。
 どちらも有り得るわけだが、私は、Bの可能性の方が圧倒的に高いと考える。その理由はいくつかある。
(1)、先に述べたように、卑弥呼は景初3年に難升米を遣わした239年)のであるが、その前年まで公孫氏が帯方郡を支配していため、魏まで行くことは出来なかったのである。
 逆の見方をすれば、帯方郡が魏によって平定されるや否や、卑弥呼は間髪をいれずに朝貢していることになる。それほど中国王朝の権威が欲しかったということである。
 その卑弥呼が、後漢王朝が滅亡したからといって、永らく王権の象徴であった金印を、時を置かずして祭壇から下げ埋納してしまうものだろうか。
(2)、後漢王朝は一時滅亡したと思われた前漢王朝の復活であった。再々復活という事も有り得る。また、王朝が滅亡しても後の王朝がその裔を名乗ることはよくあることだ。後漢王朝が滅亡したからといって、早々と金印を埋納するのは早計であろう。
(3)、金印は、西暦57年に下賜された時点では、後漢王朝が倭王を認定した証であった。それから後漢滅亡までに160年以上の年数を経過した。倭奴国(邪馬台国)では、その間に、金印は綿津見神になりきってしまっていたであろう。
 時代を今に置きかえてみよう。私達は氏神として崇める神社から毎年新しい御札(御神体)をいただき古い御札を返納する。この古い御札は金印の場合と違って殆ど焼納される。
 しかし、何らかの事情があって新しい御札が届かなかった場合には、古い御札は返納しないであろう。古い御札を返納するのは新しい御札をいただいた時か、またはその神社への信仰を止めた時であろう。
 邪馬台国の場合も似たような状況下にあり、新しい金印を受け取るまでは古い方の金印を埋納しなかったと考えるのが自然である。
(4)(1)で述べたように、卑弥呼は中国王朝の権威を非常に欲していた。つまり、金印信仰の空白期間(220240年)を、自ら作ったとは考えられないのである。(注、卑弥呼が新しい金印を受け取ったのは難升米派遣の翌240年である)

 これらの理由により、金印埋納は「親魏倭王」の新しい金印を下賜された為であった、と考えるのである。

B、結論
 (金印が志賀島に埋納された理由)

 金印「返納説」

 倭奴国(邪馬台国)の王は、西暦57年に後漢皇帝より金印を下賜されて以来、代々にわたり綿津見神の御神体として信仰してきた。
 後継者である卑弥呼は、西暦
239年に魏皇帝より「親魏倭王」の新しい金印を下賜された為、古い方の「漢委奴国王」の金印綿津見神のもとに返納することとし、聖地である志賀島古戸の「海に注ぐ小川のほとり」に埋納したのである。

 私は、金印「漢委奴国王」の印文については「邪馬台国説」をとり、埋納理由については「返納説」をとる。


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