住吉大神と住吉大社

目次

住吉大神


付録11-3 住吉大神と住吉大社 

 

1節 住吉大社の概要

【住所】
 
大阪市住吉区住吉
2丁目に鎮座
【社格】
 延喜式の名神大社(延喜式<
10世紀>に定められた社格。名神祭にあずかり年代も古く由緒も正しく、崇敬の顕著な神社。)
 平安時代の
22社(国家の重大事に、朝廷から遣使を派遣する神社)では第15番目。
 明治
4年に官幣大社。(宮内省による戦前までの制度。)
【祭神】
 第一本宮に底筒男命(そこつつのをのみこと)、第二本宮に中筒男命(なかつつのをのみこと)、第三本宮に表筒男命(うわつつのをのみこと)、第四本宮に息長足姫命(おきながたらしひめのみこと=神功皇后)を祭る。
【縁起】
 底筒男命・中筒男命・表筒男命の三柱の大神は、神功皇后が三韓征討の時に、その和魂(にぎみたま)は皇后の身辺を守り、その荒魂(あらみたま)は軍船の先鋒となって神功をたてられた。
 また、神功皇后が海路で都(大和)へ帰る途中啓示があり、大神は
大津(おおつ)の渟中倉(ぬなくら)の長峡(ながを)に鎮座せられた。これが本社である。

 

2節 日本書紀の記述

 上記の住吉大社の創祀を示す縁起は、日本書紀に記述されている。
 「仲哀紀〜神功紀」は、第
14代仲哀(ちゅうあい)天皇とその正室・神功(じんぐう)皇后の時代の記述である。この内、第11章に関係する部分の概略を次に述べる。

 古事記の日本書紀と異なる重要な部分はで囲んで示した。

 

1. 仲哀天皇の2

 仲哀天皇は、紀伊国(きのくに、和歌山県)を行幸されていたが、熊襲(くまそ)が叛いたと聞き、熊襲国を討つ為に、穴門(あなと、山口県豊浦郡付近)に向けて出発された。
 神功皇后を角鹿(つぬが、福井県敦賀市)から呼び寄せ、穴門に豊浦宮(とゆらのみや)を建てた。
 

2. 仲哀天皇の8

 仲哀天皇と神功皇后は、儺縣(なのあがた、福岡市)の橿日宮(かしひのみや、香椎)に遷(うつ)られた。
 仲哀天皇が熊襲征伐を群臣に図ろうとすると、神が皇后に憑依(ひょうい)しておっしゃられた。
 「天皇よ、どうして熊襲が服従しないことを憂いなさるのだ。熊襲は不毛の地であるぞ。軍隊をもってして征伐する価値などあろうか。
 この国よりも金銀宝がある新羅(しらき)の国を討ちなさい。
 私を丁重に祭るならば、その国はたやすく手に入るぞよ。仲哀天皇の船と穴門直(あなとのあたい)践立(ほむたち)が献上する田を私に捧げなさい。」
 仲哀天皇はお答えになった。
 「自分の周囲を見渡しても、海ばかりで国はない。自分を騙すのはどの神であろう。
 自分は皇室の御先祖様や多くの神々全てを祭っている。他に神があろう筈がない。」

      …(中略)…
 天皇は無理やり熊襲を討ったが勝てなかった。

【古事記では神が怒って、次のように仲哀天皇に宣告する。】

 「だいたい、この国土は、汝(なんじ)の統治すべき国ではない。汝(いまし)は一道(ひとみち=死の国への道)に向いたまえ。」と…

 しばらくすると、仲哀天皇はお亡くなりになった。

 

3. 仲哀天皇の9

 仲哀天皇は急病にて亡くなられた。神の啓示を信じなかった為とも、また、熊襲の矢に当たった為ともいわれる。
 亡骸(なきがら)は、橿日宮(福岡市香椎)から、穴門の豊浦宮(山口県)に遷して殯(もがり)の儀式を行った。
 

4. 神功皇后の摂政前紀(仲哀天皇の9年)

 神功皇后は、先日の仲哀天皇が信じなかった神の正体を知り、宝の国(新羅の国)を手に入れようとして、自ら神主となり、神の名をお尋ねになった。
 すると
4柱(よはしら)の神がお答えになった。

 1番目の神の名は次のとおりであった。
 「神風(かむかぜ)の伊勢国の百伝(ももづた)う度逢県(わたらいのあがた)の拆鈴(さくすず)五十鈴宮(いすずのみや)に所居(ま)す神、名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)」

 2番目の神の名は次のとおりであった。
 「幡荻(はだすすき)穂に出し吾(われ)や、尾田(おだ)の吾田節(あがたふし)の淡郡(あわのこおり)に所居(お)る神」

 3番目の神の名は次のとおりであった。
 「天事代虚事代(あめにことしろそらにことしろ)玉籤入彦厳之事代神(たまくしいりびこいつのことしろのかみ)」

 4番目の神の名は次のとおりであった。
 「日向国(ひむかのくに)の橘小門(たちばなのをど)の水底(みなそこ)に所居(い)て、水葉(みなは)も稚(わかやか)に出(い)で居(い)る神、名(みな)は表筒男(うわつつのを)・中筒男(なかつつのを)・底筒男(そこつつのを)の神」

【古事記では次の様に神が名乗っている。】

 「これは、天照大神の御心(みこころ)でもあるが、又、底筒男・中筒男・表筒男の三柱(みはしら)の大神の名を持つ御心でもあるぞ。
 新羅の国を求めるならば、あらゆる神々を拝んだ上で、私の御魂(みたま)を船に乗せて航海しなさい。」

    …(この後、神功皇后の九州各地での故事があるが省略する)…

 この年、軍船を整えて新羅に進攻する。
 航海の途中、次の様に神のお告げがあった。
 「私の和魂(にぎみたま)は、神功皇后の身辺を守りましょう。私の荒魂(あらみたま)は、軍船の先鋒となりましょう。」

 新羅の王は降伏し毎年朝貢することを誓った。王を人質にし、金銀財宝を沢山の船に積んだ。
 これを聞いて高句麗(こうくり)・百済(くだら)もおそれ、朝貢することを誓った。
 神功皇后は新羅から筑紫にお還りになり、応神(おうじん)天皇をお生みになった。

 

【一(ある)に云はく】

 (仲哀天皇の8年の条からこれまでの間のことは、日本書紀の別伝承である「一(ある)に云はく」として、次の様にも記述されている。)

 仲哀天皇が橿日宮(福岡市香椎)にいらっしゃる時に、神が神功皇后に憑依しておっしゃられた。
 「御孫尊(みまのみこと、仲哀天皇のこと)の所望(ねがい)の国(熊襲国のこと)は、譬えば鹿(しし)の角(つの)の如し。無実(うつけ)たる国なり(実のないこと、つまり不毛の地のこと)。
 仲哀天皇の船と穴門直(あなとのあたい)践立(ほむたち)が献上する田を私に捧げなさい。
 私を丁重に祭るならば、金銀財宝の豊かな新羅の国を天皇に授けましょう。」
 仲哀天皇はお答えになった。
 「神といって私を騙すのか。何処に金銀財宝の豊かな国があるというのだ。
 私が乗るべき船を献上して、私はどの船に乗ればよいのだ。
 なんと言う名の神なのだ」
 神はお答えになった。
 「表筒雄(うわつつのを)・中筒雄(なかつつのを)・底筒雄(そこつつのを)。」
 また、神は重ねてお答えになった。
 「私の別名は、向匱男聞襲大歴五御魂速狭騰尊(むかひつをもそのおほふいつのみたまはやさのぼるのみこと)である。」
 この夜、仲哀天皇は急病にて亡くなられた。
 この後、神功皇后は神の啓示に従い、新羅をお討ちになられた。
  …(次に続く新羅での出来事は省略する)…

 

5. 同じ年(神功皇后の摂政前紀)

 神功皇后は、新羅討伐に従った表筒男・中筒男・底筒男の三柱の神々を、穴門直(あなとのあたい)の祖・践立(ほむたち)を神主として、穴門の山田邑(下関市)に祭った。

【古事記では次の様に記述されている。】

 神功皇后は、住吉大神(すみのえのおおみかみ)の荒御魂(あらみたま)を、新羅の国の守り神としてお祭りし鎮座させてお帰りになった。

 

6. 神功皇后の摂政元年(仲哀天皇の9年の翌年)

 神功皇后は仲哀天皇の遺骸を納めて、海路を都(大和)に向った。
 仲哀天皇の庶子(正室の子ではない)坂王(かごさかのみこ)と忍熊王(おしくまのみこ)が反乱を起こした。
 神功皇后の船は難波(大阪)を目指したが、海上で動かなくなってしまったので占った。すると、

 天照大神の啓示があった。
 「私の荒魂(あらみたま)を、神功皇后に近づけてはいけない。広田国(ひろたのくに)に居るようにさせなさい。」

 稚日女尊(わかひるめのみこと)の啓示もあった。
 「私は活田長峡国(いくたながおのくに)に居ようと思う。」

 事代主尊(ことしろぬしのみこと)の啓示もあった。
 「私を長田国(ながたのくに)に祭りなさい。」

 表筒男・中筒男・底筒男の啓示もあった。
 「私の和魂(にぎみたま)を、
大津(おおつ)の渟中倉(ぬなくら)の長峡(ながを)<大阪市住吉区>に居るようにさせなさい。」

 そのとおりに神々を祭ると、無事海を渡る事ができた。

 反乱軍との戦場は、菟道(うぢ、京都府宇治市)となったが、神功皇后の命を受けた武内宿禰(たけしうちのすくね)は、計略をもって反乱軍を打ち破った。

 

7. 神功皇后の摂政2

 仲哀天皇を河内国の長野陵(ながののみさざき)に葬った。
 …(後は省略する。)…

 


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