卑弥呼の在位年代

目次

金印の謎が解けた


付録11-7-2 卑弥呼の在位年代

 卑弥呼は邪馬台国の女王であったが、その在位期間はいつからいつまでだったのだろうか。
 このページでは、卑弥呼がいつ即位し、いつ退位したのかを調べるのが目的である。

1. 卑弥呼の即位年

 卑弥呼がいつ即位したかは、中国の古文献によりある程度知る事ができる。
 それらの古文献は、魏志倭人伝、後漢書、梁書、隋書、晋書、北史などである。
 次は、卑弥呼即位前後の記事訳文である。文献の成立年代順に示す。〈青色の記号
()等の記事は本Webページで既出である。〉

三国志」<魏志倭人伝>3世紀後半成立

()その国は、元は男子が王となっていたが、780年してから倭国が乱れ、何
 年も戦い合うことが続いたので、
1人の女子を共立(きょうりつ)して王とし
 た。
卑弥呼という。
 
鬼道(きどう)に通じていた為、人々をよく信服させることが出来た。

()年令は既に長大だが未婚であった。弟がいて国政を助けていた。

            ()の部分は 11章冒頭の【卑弥呼の謎】>で既出

 「魏志倭人伝」では、卑弥呼が共立された経緯はわかるが、即位年代がはっきりしない。

後漢書」<倭伝>5世紀前半成立

()(後漢の)桓・霊の両帝在位中のことである。倭国は大変に乱れて何年も戦
 い合い、主(あるじ)不在の状態が続いた。
 
1人の女子がいた、名を
卑弥呼という。年令長じていたが未婚であった。鬼神
 道に通じていた為に人々をよく信服させることが出来た。それで共立して王と
 した。

(注)桓帝在位は147167年、霊帝在位は168188年である。

 「後漢書」では、桓帝と霊帝の在位中(147188年)に倭国が乱れた後、卑弥呼が即位したことがわかる。「魏志倭人伝」よりも具体的である。

梁書」<倭伝>7世紀前半成立

()後漢の霊帝在位中の(年号で)光和年間のことである。倭国は乱れ、何年も
 戦い合うことが続いたので、
1人の女子・
卑弥呼を共立して王とした。
 
卑弥呼は未婚で、鬼道に通じていた為、人々をよく信服させることが出来た。
 それで国中の人々が擁立したのだった。
 弟がいて国政を助けていた。

(注)年号の光和は178183年である。

 「梁書」では、光和年間(178183年)に倭国が乱れた後、卑弥呼が即位したことがわかる。即位年の推定巾は更に縮まった。

隋書」<倭国伝>7世紀前半成立

() (後漢の)桓・霊の両帝在位中のことである。その国(倭国)は大変に乱
 れ、何年もの間つぎつぎと戦い合って、主(あるじ)不在の状態が続いた。
 名を
卑弥呼という女子がいた。鬼道に通じていて人々をよく信服させること
 が出来たので、国中の人々は共立して王とした。
 弟がいて
卑弥呼の国政を助けていた。

 「隋書」では「後漢書」と同様に、桓帝と霊帝の在位中(147188年)に倭国が乱れた後、卑弥呼が即位したとしている。

晋書」<倭人伝>7世紀中頃成立

()(倭人は)古くは男子を主(あるじ)としていたが、後漢末に国が乱れ、戦
 いはいつ果てるとも知れなかった。
 それで女子を擁立し王とした。名を
卑弥呼という。

(注)後漢は25220年である。

 「晋書」では、倭国が乱れたのは後漢末であるとしている。

北史」<倭国伝>7世紀中頃成立

()(後漢の)霊帝在位中の(年号で)光和年間のことである。その国(倭国)
 
は乱れ、何年もの間つぎつぎと戦い合って、王不在の状態が続いた。
 
卑弥呼という名の女子がいた。鬼道に通じていて人々をよく信服させること
 が出来たので、国中の人々は共立して王とした。
 女王は未婚で、二人の男子が食事を運び命令や報告を伝えていた。

 「北史」では「梁書」と同様に、光和年間(178183年)に倭国が乱れた後、卑弥呼が即位したとしている。

 これらの史料から、卑弥呼の即位は西暦180190年頃と推測できる。

2. 卑弥呼の退位

 卑弥呼の退位は彼女が亡くなった時である。
 それを記す中国古文献は、魏志倭人伝、梁書、北史などである。
 次は、卑弥呼死亡前後の記事訳文である。文献の成立年代順に示す。〈青色の記号
()等の記事は本Webページで既出である。〉

三国志」<魏志倭人伝>3世紀後半成立

()【女王国と魏との外交経過の一場面】
 正始
8年(247)、以下は帯方郡太守・王(おうき)の報告である。
 倭の女王・
卑弥呼は、狗奴国の男王・卑弥弓呼(ひみきゅうこ)に対して以
 前から戦時体制にあったが、倭の載斯烏越(さしうえつ)達を帯方郡に派遣
 して、互いに攻撃しあっている状況を説明させた。
 帯方郡の太守は配下の張政(ちょうせい)達を派遣した。
 張政は詔(みことのり)と黄幢(こうどう=旗)を難升米に授け、檄文(げ
 きぶん=ふれぶみ)をつくっておしえ諭した。

                   9章 1の@、2ヶ所目は…>で既出

 上記「魏志倭人伝」の卑弥呼の記事は、正始8年(247)となっているので、その頃までは、卑弥呼は生きていたことがわかる。少なくとも前年の246年までは生きていたと思われる。
 この記事のすぐ後に続いて次の記事が載っている。

三国志」<魏志倭人伝>3世紀後半成立

()卑弥呼が死んだ。直径100歩余りの墓を造り、奴隷100人以上を共に葬って
 殉死させた。

                     7章第1 1(5)日食>で既出

 この記事は、「卑弥呼が死んだ。」だけで年代が記されていない。その前の記事から類推して247年以降であろう、としかわからない。

梁書」<倭伝>7世紀前半成立

()(魏の年号で)正始年間のことである。卑弥呼が死んだ。

(注)魏の年号の正始は240248年である。

 「梁書」では、卑弥呼が死んだのは240248年のことであるとしている。

北史」<倭国伝>7世紀中頃成立

()(魏の年号で)正始年間のことである。卑弥呼が死んだ。

 「北史」でも「梁書」と同様に、卑弥呼が死んだのは240248年のことであるとしている。
 ところが、先の「魏志倭人伝」の記事では
247年以降とおもわれるので、これらの記事を重ね合わせれば、卑弥呼が死んだのは247248であることがわかる。これは、「7章第1 1(5)日食」で述べたように、日食の年代と一致している。

3. 卑弥呼の在位期間

 これまでの記述を図にして示したのが、次の付録図表11-5・卑弥呼の在位期間である。

付録図表11-5・卑弥呼の在位期間

【結論】
 卑弥呼の在位期間は、西暦
180190年頃から247248年頃までであり、後漢滅亡の220年には、既に在位していたことになる。


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