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| 金印の謎が解けた |
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卑弥呼は邪馬台国の女王であったが、その在位期間はいつからいつまでだったのだろうか。
このページでは、卑弥呼がいつ即位し、いつ退位したのかを調べるのが目的である。
卑弥呼がいつ即位したかは、中国の古文献によりある程度知る事ができる。
それらの古文献は、魏志倭人伝、後漢書、梁書、隋書、晋書、北史などである。
次は、卑弥呼即位前後の記事訳文である。文献の成立年代順に示す。〈青色の記号
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「 三国志」<魏志倭人伝>3世紀後半成立( ハ)その国は、元は男子が王となっていたが、7〜80年してから倭国が乱れ、何年も戦い合うことが続いたので、1人の女子を共立(きょうりつ)して王とし た。卑弥呼という。 鬼道(きどう)に通じていた為、人々をよく信服させることが出来た。 (ヒ)年令は既に長大だが未婚であった。弟がいて国政を助けていた。 (ハ)の部分は <第11章冒頭の【卑弥呼の謎】>で既出 |
「魏志倭人伝」では、卑弥呼が共立された経緯はわかるが、即位年代がはっきりしない。
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「 後漢書」<倭伝>5世紀前半成立( フ)(後漢の)桓・霊の両帝在位中のことである。倭国は大変に乱れて何年も戦い合い、主(あるじ)不在の状態が続いた。 1人の女子がいた、名を卑弥呼という。年令長じていたが未婚であった。鬼神 道に通じていた為に人々をよく信服させることが出来た。それで共立して王と した。 |
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(注)桓帝在位は 147〜167年、霊帝在位は168〜188年である。 |
「後漢書」では、桓帝と霊帝の在位中(
147〜188年)に倭国が乱れた後、卑弥呼が即位したことがわかる。「魏志倭人伝」よりも具体的である。|
「 梁書」<倭伝>7世紀前半成立( ヘ)後漢の霊帝在位中の(年号で)光和年間のことである。倭国は乱れ、何年も戦い合うことが続いたので、1人の女子・卑弥呼を共立して王とした。 卑弥呼は未婚で、鬼道に通じていた為、人々をよく信服させることが出来た。 それで国中の人々が擁立したのだった。 弟がいて国政を助けていた。 |
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(注)年号の光和は 178〜183年である。 |
「梁書」では、光和年間(
178〜183年)に倭国が乱れた後、卑弥呼が即位したことがわかる。即位年の推定巾は更に縮まった。|
「 隋書」<倭国伝>7世紀前半成立( ホ) (後漢の)桓・霊の両帝在位中のことである。その国(倭国)は大変に乱れ、何年もの間つぎつぎと戦い合って、主(あるじ)不在の状態が続いた。 名を卑弥呼という女子がいた。鬼道に通じていて人々をよく信服させること が出来たので、国中の人々は共立して王とした。 弟がいて卑弥呼の国政を助けていた。 |
「隋書」では「後漢書」と同様に、桓帝と霊帝の在位中(
147〜188年)に倭国が乱れた後、卑弥呼が即位したとしている。|
「 晋書」<倭人伝>7世紀中頃成立( マ)(倭人は)古くは男子を主(あるじ)としていたが、後漢末に国が乱れ、戦いはいつ果てるとも知れなかった。 それで女子を擁立し王とした。名を卑弥呼という。 |
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(注)後漢は 25〜220年である。 |
「晋書」では、倭国が乱れたのは後漢末であるとしている。
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「 北史」<倭国伝>7世紀中頃成立( ミ)(後漢の)霊帝在位中の(年号で)光和年間のことである。その国(倭国)は乱れ、何年もの間つぎつぎと戦い合って、王不在の状態が続いた。 卑弥呼という名の女子がいた。鬼道に通じていて人々をよく信服させること が出来たので、国中の人々は共立して王とした。 女王は未婚で、二人の男子が食事を運び命令や報告を伝えていた。 |
「北史」では「梁書」と同様に、光和年間(
178〜183年)に倭国が乱れた後、卑弥呼が即位したとしている。これらの史料から、卑弥呼の即位は西暦
180〜190年頃と推測できる。 卑弥呼の退位は彼女が亡くなった時である。
それを記す中国古文献は、魏志倭人伝、梁書、北史などである。
次は、卑弥呼死亡前後の記事訳文である。文献の成立年代順に示す。〈青色の記号
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「 三国志」<魏志倭人伝>3世紀後半成立( ム)【女王国と魏との外交経過の一場面】正始8年(247)、以下は帯方郡太守・王 倭の女王・卑弥呼は、狗奴国の男王・卑弥弓呼(ひみきゅうこ)に対して以 前から戦時体制にあったが、倭の載斯烏越(さしうえつ)達を帯方郡に派遣 して、互いに攻撃しあっている状況を説明させた。 帯方郡の太守は配下の張政(ちょうせい)達を派遣した。 張政は詔(みことのり)と黄幢(こうどう=旗)を難升米に授け、檄文(げ きぶん=ふれぶみ)をつくっておしえ諭した。 <第9章 1の@、2ヶ所目は…>で既出 |
上記「魏志倭人伝」の卑弥呼の記事は、正始
8年(247)となっているので、その頃までは、卑弥呼は生きていたことがわかる。少なくとも前年の246年までは生きていたと思われる。|
「 三国志」<魏志倭人伝>3世紀後半成立( メ)卑弥呼が死んだ。直径100歩余りの墓を造り、奴隷100人以上を共に葬って殉死させた。 <第7章第1節 1の(5)日食>で既出 |
この記事は、「卑弥呼が死んだ。」だけで年代が記されていない。その前の記事から類推して
247年以降であろう、としかわからない。|
「 梁書」<倭伝>7世紀前半成立( モ)(魏の年号で)正始年間のことである。卑弥呼が死んだ。 |
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(注)魏の年号の正始は 240〜248年である。 |
「梁書」では、卑弥呼が死んだのは
240〜248年のことであるとしている。|
「 北史」<倭国伝>7世紀中頃成立( ヤ)(魏の年号で)正始年間のことである。卑弥呼が死んだ。 |
「北史」でも「梁書」と同様に、卑弥呼が死んだのは
240〜248年のことであるとしている。これまでの記述を図にして示したのが、次の
「付録図表11-5・卑弥呼の在位期間」である。|
「 付録図表11-5・卑弥呼の在位期間」 |
【結論】
卑弥呼の在位期間は、西暦
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