スカラベ・ブックレビュー

上海帰りのリルを語るみたいに
いろいろな本のことを書きつらねてみたいと思います。


8.『子どものための若松郷土誌 港・まつり・五平太ものがたり』(あらき書店、2000.3、税込定価2000円)

 若松に行った折に書店で、こんな本を買った。編集・執筆は「北九州市小学校社会科研究協議会 若松区小学校社会科同好会」によるもの。小学校の先生たちが授業の副読本として使う本なんだろうが、この本を貫く一本の筋は、火野葦平である。若松のなりたち、古い地図、石炭積出し港としての歴史、豊富な昔の写真など、たいへんよく出来ている。B5判160ページで表紙だけカラー印刷。発行元の「あらき書店」は北九州市小倉北区吉野町1−14、電話は093−952−6635、ファックスは093−952−6638。
 こんな本が全国の地域で出たら楽しいだろう。各自治体はパンフレットを高い金を出して有名専門業者に依頼するよりも、学校の先生をタダ(に近い報酬・経費)で使ってこんな本を書かせたほうが、はるかに有効なのになあ…。そして、こんな本をまるまる一冊、ホームページにアップしてくれたら、もっといいのになあ。
 火野葦平に関心のある方のみならず、八幡製鉄とか石炭産業史とか港湾史などに興味のある方にもおススメの一冊だ。課題はこんな本を並べてくれる書店がどれくらいあるかどうか。こんな本を買う客がどれくらいいるかどうか。
 鞍手郡鞍手町も、がんばれ。上野英信を中心に!
 青森県金木町も、がんばれ。太宰治を中心に!
 この道の先学は、もちろん沖縄だ。このエリアは、だから情報をいっぱい持っている。
 わたしの好きな古書店さん、こんな本が出たら、せめて5冊ほど並べておく棚を提供してやってくれませんか。新刊書店は、もうあきらめています。もはや彼らはただの銭ゲバです。



7.上野朱(あかし)『蕨の家―上野英信と晴子』(海鳥社、2000.6、定価1700+税)

 ひろい読みしているうち、彼が最初の子どもの名前を父親に告げる場面で(不覚にも)落涙した。「私が黒板に向かって『民記』と書き、読みは原爆詩人の原民喜さんに、字は民衆を記録し続けたこの子の祖父に因み、と言って振り返ると父が泣いていた」。この「父」は戦争末期、広島原爆の救護活動に軍隊出動して被爆し、後遺症に苦しんだ。戦後は炭鉱者たちの記録に身命を捧げたが、自分は八月六日に一度死んだとか、八月六日と八月十五日との間を行きつ戻りつ、この十日間の地獄から抜けられないと語っていた。なるほど上野英信とは、いわば戦争でも原爆でも死ねなかったお父さんだったのか。
 じっくり再読すると、この本のタイトルに「家」とあるのがよくわかる。これは、よく見かける偉い父親と糟糠の妻のエピソード本のたぐいとは、まったく違う。「酒闘・武闘・文闘」を生きた父親と、「最良の戦友だった」母親(彼女には『キジバトの記』という、凛とした鈴の音のするエッセイ集がある)と、そして「私はそもそも非常に危ない環境で育ってきた」と自覚している一人息子。小学一年生の教室で好きな歌といわれて「民族独立行動隊」を歌った五歳の姿をいうのではない。おまえは「先生の坊ちゃん」なんかじゃない、「ただのガキ」だ、としつけられた息子が、どうして父親の文業を誇ったり、母親の労をひけらかしたりしよう。「あなたの名前は利用しません」というのが父と筑豊に対する「仁義」だと彼は書きつけている。この意味ではサブタイトルは不要だが、これはまあ、読者に親切な書肆のインデックスなのだろう。この本は、「近所のおいちゃん」にはついにはなれなかった(と息子が言い渡す)父=男と、どこにも寄る辺のない(と息子が見つめる)母=女と、ただのガキ(と両親が宣告する)息子=著者とが、ひととき一緒に身を寄せあって暮らした〈家〉の記録=物語なのだ。
  タイトルは魯迅の掌篇「采薇」(竹内好訳では「わらびを採る話」)によるが、内容はきちんと紹介されていない。不親切の理由は「采薇」を読めばわかる。そうか、「筑豊文庫」は〈蕨の家〉であったか、と、この本のやさしい顔つきが、たちまち凄みと、どこか切なさをおびてくる仕掛けである。 

(2000.9)


6.『ヒロシマの記録 年表・資料篇』(未来社、1966.8.6)

 過日、古本屋で見つけたのだったが、こんな本があるとは知らなかった。恥ずかしい。A6判、約250ページ。
 昭和20年から40年までの広島原爆関係の出来事が編年体で詳細に書いてある。こんなに詳しい記述は、一般書のたぐいでは見たことないし、専門書にもあるかどうか知らない。昭和20年8月7日の記事中には「トルーマン大統領が声明発表」の項目があり、彼がこんなことを語っている。
 「いまから十六時間前、アメリカ空軍機は日本の最重要軍事基地広島に爆弾一発を投下した。爆弾の威力は…(略)。日本軍は開戦にあたりパールハーバーを空襲したが、いまや何十倍もの報復を受けたのである。しかも、まだ戦争は終わったのではない。これは原子爆弾である。それは宇宙にひそむ根源の力を利用するものである。太陽の熱源が極東を戦禍のちまたとした者を絶滅するために解放されたのである。」
 広島は「最重要軍事基地」であると同時に一般市民が日々の生活を営む都市でもあったはずだし、やはり日本国は「絶滅」を狙われていたのだった。月にかわってお仕置きどころか、太陽の「報復」というのだ。聖書はこわい。
 この本に写真版を加えて文庫本にして欲しい。統計資料もいくつかは欲しい。
 これが文庫本にならないのは、1つに編集者の識見の低さだと思う。読者をナメてるのだと思う。そして2つめは、わたしたち読者の責任だと思う。編集者にナメられてる責任である。

(2000.10.5)


5.一夜、美しい銃声の下に―各務章詩集『地上』

 先日、わが同志の「すからべ・ひろし」君から、各務章(かがみ・あきら)の第一詩集『地上』(現代社、昭32・5、400部限定)をもらった。缶コーヒー1本くらいの値段で片田舎の古本屋の塵にまみれていたのだという。各務章という人はたしかいまは福岡県詩人会の会長さんじゃなかつたかと思うが、そんな肩書きのことなんか、ま、どうでもいい。

 古本買いの妙味は、まあ、高い相場の本を安く買うってのも楽しいけれど、「100円」相場の雑本を自分の眼力でもって「1000円」とか「5000」円相場に輝かせてみせるというのが、やっぱり醍醐味だろう。そこでついでにオホン、若き貧乏な学徒に告ぐ、――高い古本は買うな、安けりゃ何でも買っておけ、高い本ってのは既に世間に価値を認められた本なり、そんな既成の価値体系に迎合して何になる、すべからく批評とはクリエイティブな営為であることを思えば、新しい時代を開拓創造する世代の貧乏人は安い本を買うべし。徹底的に安い本を買って、それを自分の力で高く評価し、世間が迎合して相場が高くなったところで悠然とそれを売り飛ばし、またまた安い本を買う道に精進すべし。これが「スカラベ道」なり。古書道の奥義なり。

 さて各務章に戻ろう。この詩集には、こんな詩がある。「校庭にて」と題する一篇。

座れば やせた尻の骨が痛む
粗い地肌に
ながい間 涙はしめらない

誰が ここを 耕やしたのか
教えることも出来まい

労働者でなく 過去の鍬であることを
私も生徒も ようやくに知る

だが 今は もう
人間はいないのだ
石炭を掘ることは 生きる為の
徒労であつた

どこに運ばれ いくらになるかを
考えるには
手と足は 愚鈍にすぎ
いつも 汗の滴りに比例して 米が買えた

炭坑(やま)では
耕すのではなく
盗むだけである
なくなれば
親方は 他所に移つた

草は 一本づつ 枯れて行つた

夕暮
この校庭を区切る 断層の山肌に
数匹の虫が 頭を打ちつけて死んだ

黒く 粗い石の層が斜めに 走り
むざんに えぐられた大地の起伏

虫は くらい匂いにやられ
死骸は見当らない

私は新しい教科書を捨て
かわりに さびた釘をひろう

握れば 釘はもろい

愛のために 耐えることは
むづかしくなつた

青い空はありながら
夢を そこへ 描けないのだ

生徒達が 帰つてしまつた
木造の校舎と
そこからひろがる 暗い校庭に

私は 一本のやせた樹木になり
この冷えた大地を
いきどおりながら

いつまでも 突つ立つている

 詩集巻末の「著者略歴」欄には、こう書いてある。「一九二五年福岡市出生。九大法科卒後、昭和二十七年より、直方市鞍手高校勤務。昭和三十一年より、福岡県高等学校教職員組合、教育文化情宣部長として執行委員に専従。この間、第二期『九州文学』同人、『母音』同人を経て、『詩科』同人として現在に至る。」

 彼の最初の赴任校の鞍手高校は筑豊の炭坑地帯の一割にあり、すなわちこの詩が書かれた昭和二〇年代後半には、かの谷川雁や上野英信や森崎和江らが「サークル村」を結成し、労働者の声を集結し、胎動しつつある時期に相当している。いわゆる筑豊問題は炭坑夫らと連帯したサークル村の系譜で語られることが多いが、学校教育の現場で若き各務章のような詩精神が息づいていた光景も見過ごすべきではなかろう。彼は詩集の「後記」にこう書きしるしている。「生きる限り、僕の内部と外部で、僕を入れるカメがこわれた。破片を見つめて泣いていたのでは、溢れ出る出血多量のため、息がなくなる。/こわれガメの一かけらを刃物にして、僕は前に積み重なる時間を切りひらかねばならない。/高校教師と云う職業が、僕を成算のない坂道へ、追い立てる。そして同時に、日本資本主義の歪んだ政治の中で、目に見えない圧力が、教師の手錠となつて、僕を取りまいてくる。/一夜、美しい銃声の下に、銃殺される事が教師になりたての夢であつた。/しかし、僕は獄死したくなかつた。(略)」 

(1999.2.1)

4.ワレ姜魏堂ヲ発見セリ―姜魏堂『生きている虜囚』 1998.11.20

 先日、このコーナーに「姜魏堂って誰だ?」って書いたら、うーむ、我ながら恐れるべき念力! 彼の創作集『生きている虜囚』(新興書房、1966.12.20)を古本屋の片隅から発見したのだ。たぶん函入り本のようだが、残念ながらこれには函が無い。ま、500円だもんな。
 表紙と背には「薩摩焼ゆらい記」と小さく書いてある。収録作品は、「生きている虜囚」「不肖の子たち」「古里の会」「壷屋の高麗人(つぼやンこれじん)」「古里に花は咲けども」の五篇。著者「あとがき」によると、「最後にある二篇の戯曲――壷屋の高麗人」は一九三四年、現存する「テアトロ」がその創刊誌上で募集したのに対し「壷屋盛衰記」と題して応募、推薦作として同誌第四号に掲載されたが、史実からは全く離れている。これはその序曲と終曲に加筆して、日本の敗戦後『文化朝鮮』(『民主朝鮮』が、なぜかその号だけ改題されていたように記憶する)に改題・再録して貰ったもの。次の「古里に花は咲けども」は、敗戦直後の体験を基にして、同じく『テアトロ』の第十巻第三号に発表したものだ。」とある。本書巻頭にはその「テアトロ」の村山知義が序文「紹介のために」を寄せ、そのなかでこう書いている。

「私が彼の名を知ったのは、亡くなられた秋田雨雀さんと一緒に演劇雑誌「テアトロ」を創刊した時(一九三四年五月)応募してきた作品によってであった。更に戦後、私は朝鮮から帰って来たころ、同誌の編集長だった、染谷格君を通じて戯曲「神を畏れぬ人々」を読んだ。その内容は忘れてしまったが、戦争中の上海を舞台にして、日本の軍部や、それに関係する人々の横暴な姿を描いたものだったと思う。私はそれを推奨した。(略)われわれは本書を通じて、この陶芸品生産者の一群が、長い長い人種的差別(それはつまりは階級的差別にほかならないのだが)に耐えながら、その文化を持ち伝えた姿を知ることができる。/われわれ日本人はアメリカの黒人差別を笑う資格はない。われわれはこの事実の前に頭を垂れねばならない。そして、この差別の問題は、階級的差別をなくす闘いを通じてのみ解決されることを知らなければならない。/姜魏堂君の健筆を祈る。/一九六六年十一月」。

 巻末の作者紹介欄には、「明治34(1901)年、薩摩焼原産部落(鹿児島県)に生まる。慶応義塾大学経済学部を卒業後、朝日・時事等の記者生活を経て、戦時中中国に渡る。戦後、各種の機関誌編集に従事。」とある。この「薩摩焼原産部落」とは(本書の扉に掲載された彼の父親の除籍謄本の写真によると)鹿児島県日置郡下伊集院村(現・伊集院町)のこと。扉裏の説明文には彼の父親の在日問題に関する複雑な事情があって「姜家」は「廃絶」したため、自分が「せめてもの筆名として使っているのだ」という。また、「あとがき」には、「私は元来、作家でも学者でもないので」とあるので、もしかすると著書はこれ一冊か、そう多くはないのかも知れない。「姜魏堂」は、「きよう・ぎどう」とルビがふってある。姜魏堂に関する情報、なんでもかんでも、ご一報ください。願わくばどなたか世界で唯一人の姜魏堂研究家になられんことを。(1998.11.20)



3.寂しさの果無山に花咲いて―眞鍋呉夫『夢見る力』ふらんす堂

 小説家で俳人の眞鍋呉夫がエッセイ集『夢見る力』を上梓している。文庫本型の「ふらんす堂文庫」の一冊、全102頁、定価は1200円(ふらんす堂=182-0002調布市仙川町1−9−61−102 TEL03-3326-9061 FAX03-3326-6919)。眞鍋呉夫は大正9年、福岡県生まれ。戦前、矢山哲治・島尾敏雄らと同人誌「こをろ」を発行し、戦後は上京して壇一雄らと交遊。小説集『サフォ追慕』『二十歳の周囲』などや、壇一雄の評伝「天馬漂泊」があり、近年(平成4年)は俳句集『雪女』で歴程賞・読売文学賞を受賞した。今回の『夢見る力』には、新聞等に発表した矢山哲治の思い出や俳句に関するエッセイなどが収録されているが、これがなかなか面白く、一気に読ませてくれる。
 集中の一篇「牛奥雁ケ腹摺山考」は、和泉香津子という俳人を通じて、「牛奥雁ケ腹摺山(うしおくがんがはらすりやま)」という名前の山がじっさいに大菩薩峠の南側にあることを教えられたと語り、また自作の句「寂しさの果無山に花咲いて」を披露している。この「果無山(はてなしやま)」というのも、現実に存在する、「紀州の熊野山脈の南に平行して走っている山系の名である」んだそうな。うーむ、寂しさな果てなむ山に花が咲いているってか。そんな山が、じっさい熊野の山奥にはあるってか。こちとらの寂しさも、いっそ果ててくれりゃいいものを、うーんナマ殺しだもんなあ。うじうじ。
 あと一つ、巻末の小文「空を飛ぶ板」は『今昔物語』の巻二十六と二十七に、「鬼」が「板ト現ジテ」、あるいは「油瓶ト現ジテ」、「人ヲ殺セル語」があることを紹介し、こう述べている。「この二つの『イト怪シキ』小宇宙を生んだ契機は一体なんであったのか。それはおそらく、雪女や座敷童子(わらし)やノッペラボウなどという秀抜な形象を創出したのと同じ先人の、われわれとは比較にならぬほど鋭敏であった『夢見る力』の所産であったろう。」とするなら、では「なぜほかならぬ『板ト現ジ』たのか」、……ここからさきはこの本を手にとって読んでみたほうがいい。この人生、どうせ金なんか、いくら余裕が無い無いと愚痴っても、しかし何かにはその無いはずの金を使ってんだから、本に使ってもいいだろう。本は身銭を切って買うべし。この本はけっして損はしない。ところで真鍋呉夫の両親は天門・織女と号した戦前からの俳人。この二人の作品の掲載された雑誌をさがしている。

(1998.11.1)


2.脇山真一『吾が一生』

 古本屋の300円均一棚で、脇山真一著『吾が一生』を買った。昭和24年3月10日発行の「非売品」。著者は熊本県天草郡上津浦村の元地方政治家だそうで、おそらく郷土史家とか熊本県政史家には有名かも知れないが、それ以外は誰も知らない人物だろう(わたしも知らない)。巻頭に「自叙」、および「真一の自叙伝を強るの会同人」による「発刊の言葉」があり、「道義地を払い、報恩の語彙辞書より没したるのころ。われわれはその償ひに足るとは思わないが郷土の先輩が歩ゆんだ道ととつた行ひを摘録して遺すこともあながち無益ではないものとして氏の自叙伝の起草を強ることにした」とある。この自叙伝が、どうして、なかなかおもしろい。

「真一は、明治十七年七月五日、熊本県天草郡上津浦村の、脇山家の長男として生れた。父は安次郎、母ナミ、父の二十歳の子だから随分の早生児である。其の為か知らぬが、体格もあまり丈夫でなく、性分も弱い方の子であつた。/弟が二人あつたが、何れも早死で、一人は一歳一人は二歳で亡くなつたから、真一は一人息子として、我儘一杯に育つた。然し根が弱い方の子供だから、腕白な餓鬼大将式ではなく、家で母に甘える位のものであつた。子供の時分、母親の乳が少なくて、隣村下津浦から乳母が来ていた。其の乳母が自分の実家に抱いて行つて、遊んでいるうちに、真一は這い廻つて、裏の椽側をすべり落ち、下の石垣でメケンを割つた。乳母は非常に心配して、真一の家には知らせず、当座の手当をしたが、いつまでも隠す訳には行かず、遂に上津浦に連れ戻つて治療をしてもらつたそうな。真一が額の正面に、今も傷があるのは其為で、戦国時代なら、敵と切り合いの功名手柄の印と、能く言われたものだ。然し実は幼児の横這いの怪我にしか過ぎぬ。」

 うまい。座布団一枚! まるで作家の自伝的小説を読みはじめるようだ。このあと、脇山家の祖先のこと。また、「当時は学齢の事などあまりやかましくなく」、六歳にして村の尋常小学校に入学したことなどが語られていく。「学校は十町位離れた横浜部落の村社境内に、わら葺の粗末な建物があつた。先生は村出身の赤城増太郎先生唯一人で、四学年の全部を教へて居られたが、ドンな風にして教へられたか、又何を習つたか、殆ど記憶に残らぬ。遊ぶ事や、喧嘩が非常に多かつたこと、長さ五六尺もある大きなソロバンを教壇に掛けて珠算を教はつた事などを思い出す位である。学校の教育が非常に簡素で、粗放であつた事は、止むを得ぬ所であろう。」

明治十七年生まれの真一少年は、当時は修業年限が四年の尋常小学校を十歳で卒業し、日清戦争の前年、「笈を負うて、五里隔つた町山口村(今の本渡町)の」天草高等小学校に入学し、寄宿舎生活を送る。「先生達の給料が、若先生が月七円神様の様に崇拝した校長先生が十三円、寄宿生の学資二円五十銭位、米価が一升十銭であつた。時の俗謡/米が十銭スリヤサツコラサノサー/唐米ヤー九銭ナー 千代サン」

 さらに真一君は中学に進学する。由緒正しい村長の一人息子だから、どうして贅沢なもんだ。「真一は、明治二十九年四月、新に開校された尋常中学済々黌(せいせいこう)天草分校第一回生として入学した。校舎は仮校舎で、本渡町南の円覚寺境内、旧苓洋教校(僧侶学校)跡を充てられて運動場も何も無い、ホンの間に合せの学校であつた。当時は日清戦争後の日本膨張の時代で、教育も積極方針を執る事になり、県内唯一の中学校であつた済々黌が俄かに、鹿本、八代、天草の三分校を設くる事になつたのである。(略)一年生の間、此の校舎で習つたが、翌年第二回生が入学してから、現在の天草中学の処に新築校舎が出来上り、三十年の五月に、之に移つた。新校舎に移つて間もなく、学校にストライキ事件が持ち上つた。」

 その後、明治35年4月、済々黌の本校に転入(「済々黌は、佐々友房氏が創立した私立中学で、明治33年12月県立に引き直されて熊本県中学済々黌となつた。(略)校舎は現在の処で、真一等が入学したのは、新築落成直後の事である」)。

ついで明治35年4月、真一君19歳、憧れの東京に上り、早稲田大学に入学する。「早稲田は従来専門学校であつたのが、今年から大学に改められ、政治、法律、経済、文学科の四科を置き、予科に中学卒業生を入れる事になつた。真一は政治科の予科に入学したのである。高田博士や坪内博士や天野博士やが居られて校運勃々たるものであつた。予科学長としては、当時米国から新帰朝の安部磯雄先生が居られた。真一は初め神田連雀町の下宿に居た従兄の高雄興邦の処に合宿して、早稲田迄通学した。当時はまだ東京にも電車がなく新橋から浅草まで鉄道馬車が一本通つて居た時代であるので、神田から早稲田迄徒歩通学であつた。(略)演説は能く聞きに行つたもので、海老名弾正、島田三郎、中江兆民、堺枯川、片山潜氏などが多かつた。学校では鉄扇を持つて卓を叩き乍ら、口角を飛ばして縦横無尽な講義をなさる坪内逍遥先生が一番面白かつた。高田先生や安部先生なども、特殊な風格があつた。大隈伯は稀に見受けた。安部先生は、新帰朝の社会主義で且つ、欧米式運動競技の鼓吹者で寧ろ創始者である。其れにカブれたのか、真一なども、当時は非常に社会主義に興味を有つて研究したものであつた。」

 しかし真一君は同年12月、胸を悪くして残念ながら帰郷し、やがて結婚して代用教員となり、さらに32歳で政界に進出する。熊本県議会の議長まで努めたあと、戦後、引退。この政界の履歴は省略するが、この回想録が面白いのは、天草の生地にして現住所でもある自分の場所を、いわば同心円の中心点として、自己の人生の履歴が語りつむがれているからである。このスタンスをもって、彼をスカラベの会の名誉会員の一人に推薦したいくらいだ。



1.姜魏堂「古里に花は咲けども」

 古書展で100円均一の演劇雑誌「テアトロ」83号(第10巻第3号、1948.3)を買った。例によって粗悪な仙花紙の雑誌で、全64頁(これもお決まり通り)、そこに姜魏堂の戯曲「古里に花は咲けども」が発表されている。はじめて読んだ。「時」は一九四七年五月、「処」は鹿児島県下の山里、主人公の石井良平という四十歳くらいの洋画家の男が敗戦後の東京から戻り、出来たら生まれ故郷に腰を据えて暮らしたいと願ったが、村は農地改革でさまざまな権謀術数が渦巻き、とても心やすらかに生きていけそうもないと思い知らされて、やがて東京に戻る意思を固めるという筋である。良平は在日朝鮮(中国?)人らしく、「僕のは只、李という名字を捨てるため養子になった」とあるが、それはしかし、この作品では大きな意味を持っているわけではない。彼は敗戦によって、すこしでもいい世の中がくることを信じている。それはそれとして、この作品の魅力は、農地改革に際の人々のさまが具体的に描かれていることと、土地の人々の方言が生かされていることである。以下の引用は、良平の帰郷に際して、養祖母のタネと、タネの姪の時子とが、こっそり案じる場面である(ルビは( )内に表記、傍点は省略、[ ]部分は原文のまま)。

時子 何事(ないごと)戻ッ来たとぢやろないち。

タネ 知らん。……墓詣(めい)ばし[でゞも]ぢやろで。兄殿(あに●どん)がけ死んだ時、骨を持つて来たぎい戻なンぢやッでヲ。

時子 ……まさか、こゝで暮す積(つもい)ぢや御座(ごあ)はんめな?[御座いますまいね、ないでせうね](釜を少し廻す)

タネ 何(ない)がヲ。[否定的――なあに、そんなことはないだらう]

時子 一向銭(ぜん)でン持ッちよろ相(そ)な風(ふ)もなかし……こゝで暮すち言(ゆ)こて[ことに]なればこら……

タネ 何(ない)がお前(まい)も、良平(へ)は養子ち言(ゆ)てンから、本当ン養子ぢやなかとぢやッでヲ。今迄(まッ)、此家(ここ)から一銭持ッ出たこッもなか代イ、一銭送ッくれた事(こつ)もなか。

時子 如何な事(こて)な[真逆ねえ]、我が家(え)ばしの如(ごッ)……あたや[私は]また、一緒に暮すち言(ゆ)こてなれば騒動事(そどごッ)ぢやがと思(も)ッなあ。

 巻末の「編集後記」には、「この号には「神を畏れぬ人々」の作者姜魏堂の「古里に花は咲けども」を載せた」とある。この姜魏堂という作者名は、どこかで見たことがある程度にしか知らない。「神を畏れぬ人々」も読んだことがないし、この作者が鹿児島とどのような関わりがあるのかも知らない。誰か教えてください。

(1998.10.18)