ふくおか風土記―文化・芸術篇 (改訂版)

[概説]

文学・思想・言論
 福岡県の文学的土壌は豊饒である。古代の大陸文化圏に近い利点があり、奈良時代、大和朝廷によって筑紫の地に「遠朝廷(とおのみかど)」大宰府が置かれて以来、いっそう中国大陸からの文物がさかんに流入し、内外の文化人も多く往来する文化交流の場となった。この地に大宰権帥として左遷され、失意のうちに当地に没した菅原道真(すがわら・みちざね)は、学問の家系に育った政治家であると同時に、有名な漢詩人でもあった。江戸時代から明治時代にかけては、開港地・長崎をへて西洋の文化が伝播し、また、関東・関西地方との交通の便もよかったため、北部九州の文化の拠点となった。幕末の歌人の大隈言道(おおくま・ことみち)とその弟子の野村望東尼(のむら・ぼうとうに)、漢詩人の原古処(はら・こしょ)とその娘の原采蘋(はら・さいひん)らがいる。明治以後は、近代日本を代表する詩人で歌人の北原白秋(きたはら・はくしゅう)、怪奇小説作家の夢野久作(ゆめの・きゅうさく)、小説家の火野葦平(ひの・あしへい)、無頼作家の檀一雄(だん・かずお)、ミステリー作家の松本清張(まつもと・せいちょう)らが福岡県出身の代表的な文学者として知られている。
 思想・言論の分野では、江戸時代に黒田藩士で儒学者の貝原益軒(かいばら・えきけん)や、医者で儒学者の亀井南冥(かめい・なんめい)とその子の亀井昭陽(かめい・しょうよう)らがいる。南冥の門下に学んだ逸材に、日田の広瀬淡窓(ひろせ・たんそう)、秋月の原古処(はら・こしょ)らがいる。明治以降の思想家としては、右翼系の政治結社「玄洋社」の頭山満(とうやま・みつる)、内田良平(うちだりょうへい)、杉山茂丸(すぎやま・しげまる)らがいる。いずれも大陸志向の雄大なスケールと壮烈な気概をそなえた九州人らしい剛胆の人たちであった。大陸に近い地理的条件と、南国の開放的な気候と、玄界灘の荒波に鍛えられた気骨が、大陸的な気宇壮大な思想の土壌をもたらしたのであろう。一方、浅原健三(あさはら・けんぞう)は八幡製鉄ストライキの指導者として有名になり、また史論家でジャーナリストの福本日南、(ふくもと・にちなん)や、反骨の新聞人として知られる菊竹六皷(きくたけ・ろっこ)らも活躍した。


美術・工芸
 福岡県出身の近代絵画の第一人者といえば、まずは久留米の青木繁(あおき・しげる)と、その同級生の坂本繁二郎(さかもと・はんじろう)であろう。前衛美術で有名な古賀春江(こが・はるえ)も、同じく久留米の出身。そのほか、洋画壇の逸材に福岡市出身の児島善三郎(こじま・ぜんざぶろう)、宗像市出身の中村研一・琢二(なかむら・けんいち、たくじ)の兄弟、嘉穂町出身の織田廣喜(おだ・ひろき)らがいるし、日本画の世界にも福岡市出身の冨田渓仙(とみた・けいせん)らがいる。また、炭鉱労働者として長く働いたあと晩年にユニークな炭鉱記録画を残した山本作兵衛(やまもと・さくべえ)、同じく坑夫経験のある千田梅二(せんだ・うめじ)らの炭坑板画の世界も、石炭エネルギー時代に筑豊炭田地帯で栄えた福岡県ならではの文化遺産として特筆しておきたい。
 彫刻界では、福岡市東公園内の「亀山上皇像」の木彫原型「元寇記念像」を制作した日本木彫界の第一人者の山崎朝雲(やまさき・ちょううん)、帝展系の作家として著名な冨永朝堂(とみなが・ちょうどう)、イタリアのミラノに定住して国際的な舞台で活躍しいるしている豊福知徳(とよふく・とものり)らを輩出している。
 漫画界にも福岡県出身者は多い。いまや国民漫画となった観のある「サザエさん」の作者の長谷川町子(はせがわ・まちこ)は福岡市の出身。「サザエさん」は戦後、福岡の新聞「夕刊フクニチ」に連載され始めたのだった。その他、少女漫画の第一人者である萩尾望都(はぎお・もと)、「男おいどん」や「銀河鉄道999」の松本零士(まつもと・れいじ)、「博多っ子純情」の長谷川法世(はせがわ・ほうせい)、「おぼっちゃまくん」や「ゴーマニズム宣言」で有名な小林よしのり(こばやし・よしのり)など、いずれも福岡県の出身者であり、それぞれ個性的なマンガ世界を創造している。


芸能・音楽
 福岡県は芸能人の宝庫の観がある。明治時代、「オッペケペ節」で一躍有名になり、日本全国だけでなくヨーロッパにまで一座を率いて活躍した川上音二郎(かわかみ・おとじろう)は、芸どころ博多の異才といってよい。多才多芸なTVタレントとして有名なタモリ、あるいは歌手で俳優の武田鉄矢(たけだ・てつや)などは、さしづめその末裔(まつえい)といえる。福岡県出身の映画俳優、演劇人、流行歌手、TVタレントの数はきわめて多く、俳優では大河内伝次郎(おおこうち・でんじろう)、杉狂児(すぎ・きょうじ)、高倉健(たかくら・けん)、米倉斉加年(よねくら・まさかね)、黒木瞳(くろき・ひとみ)らがおり、歌手では中尾ミエ(なかお・みえ)、小柳ルミ子(こやなぎ・るみこ)、井上陽水(いのうえ・ようすい)、松田聖子(まつだ・せいこ)、また作曲家には演歌の古賀政男(こが・まさお)、幅広いジャンルを手がける中村八大(なかむら・はちだい)、時代はさかのぼるが、童謡「かもめの水兵さん」の河村光陽(かわむら・こうよう)らがいる。


[文学・思想・言論]

●学問の神様―菅原道真
●万葉人―大伴旅人、山上憶良
●戦国の武将文化人―今川了俊
●博多の三傑―嶋井宗室、神屋宗湛、大賀宗九
●農業全書―宮崎安貞
●養生訓―貝原益軒
●茶人―立花実山
●柳河藩の儒者―安東省菴、安東節菴
●金印を鑑定―亀井南冥、亀井昭陽
●実地踏査の人―奥村玉蘭、青柳種信、伊藤常足
●女性俳人―諸九尼
●幕末の歌人―二川相近、大隈言道、野村望東尼
●秋月の吟遊詩人―原古処、原采蘋
●豊前の詩人教育者―村上仏山
●人参畑の女傑―高場乱
●玄洋社の三傑―頭山満、箱田六輔、平岡浩太郎、内田良平
●近代詩歌への胎動―井上哲次郎
●立身出世と故郷―宮崎湖処子
●多才なリベラリスト―豊島与志雄
●「舞姫」論争の二人―石橋忍月、森鴎外
●豊津中学の俊才―小宮豊隆、堺利彦、葉山嘉樹、鶴田知也、富島健夫
●若きプロレタリア作家の像―橋本英吉
●「虞美人草」のモデル―菅虎雄
●水郷柳川―北原白秋と田中善徳
●夫婦で文芸サロン―久保猪之吉、久保より江
●筑紫の女王―柳原白蓮
●「九州日報」の逸材―福本日南、加藤介春
●反骨のジャーナリスト―菊竹六皷
●被差別部落解放の父―松本治一郎
●怪物親子―杉山茂丸、夢野久作
●熔鉱炉の火は消えたり―浅原健三
●「天の川」系の俳人―吉岡禅寺洞、富安風生、横山白虹
●「木犀」と「木賊」―清原拐童、田中紫紅、河野静雲
●女性俳人の輝き―杉田久女、橋本多佳子、竹下しづの女
●雀の俳人―木村緑平
●短歌の水脈―鹿児島寿蔵、大坪草二郎、花田比露志、持田勝穂
●花の命は短くて―林芙美子
●わらべごころ―阿南哲朗
●麦と兵隊―火野葦平、玉井政雄
●「九州文学」の作家―岩下俊作、劉寒吉、矢野朗、長谷健、林逸馬、原田種夫、山田牙城、東潤
●「こをろ」とその周辺―矢山哲治、真鍋呉夫、島尾敏雄、庄野潤三、松原一枝
●旧制福高出身の詩人―那珂太郎、伊達得夫
●「文化展望」と「午前」―大西巨人、北川晃二、檀一雄
●久留米抒情派―丸山豊、野田宇太郎、安西均、川崎洋、松永伍一
●サークル村―谷川雁、上野英信、森崎和江
●戦後文学の旗手―梅崎春生、福永武彦、花田清輝
●海峡 ―後藤明生、小島直記、藤原新也
●戦後俳句と現代短歌―野見山朱鳥、石田比呂志、山埜井喜美枝、阿木津英
●童心―与田凖一、畑正憲
●現代詩人―宗左近、一丸章、高橋睦郎、平出隆
●芥川賞・直木賞作家(1)―松本清張、江崎誠致、多岐川恭、五木寛之
●芥川賞・直木賞作家(2)―佐木隆三、岡松和夫、重兼芳子、森禮子、高樹のぶ子、杉本章子、村田喜代子
●芥川賞・直木賞作家(3)―白石一郎、藤原智美、辻仁成
●ミステリーの世界―中薗英助、夏樹静子、赤川次郎、石沢英太郎


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学問の神様―菅原道真
 太宰府天満宮の祭神は菅原道真(すがわら・みちざね)である。天満宮の境内にかかっている三つの反橋(そりばし)を、過去―現在―未来へと渡ると、正面に宏壮な本殿があり、その右わきに遠い都から主人の菅原道真を慕って飛来したと伝えられる飛梅(とびうめ)がある。
 菅原道真(845−903)は平安時代の前期、学問の家系に生まれ、文章博士(もんじょうはかせ)などを務めたあと右大臣の位についた。道真は『類聚国史(るいじゅうこくし)』『三代実録(さんだいじつろく)』などの編集に携わり、また詩歌に才能を発揮したが、901年正月、従二位に叙せられた直後、政争から大宰権帥に左遷され、幼子二人を連れて遠い九州筑紫の大宰府に下った。権帥(ごんのそち)は名ばかりの閑職で、都監府の南にある粗末な南館(現・榎社)で幼子とひっそり暮らしたという。配所(はいしょ)の月をうらめしく眺めながら、2年後の延喜三年(903年)2月、失意のうちに59歳で亡くなった。遺言により京都には戻らず、当地に埋葬することとなり、道真の遺骸を載せた牛車が動かなくなった場所に埋葬された。この地が墓所となり、現在の太宰府天満宮となった。彼の漢詩文は、11歳から右大臣になるまでの時期の文章を収録した『菅家文草』と、大宰府時代の文章を集めた『菅家後草』があり、なかでも後者に収録された和歌―「こち(東風)吹かば匂いおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな」が有名である。後年の伝承によると、道真の死後、京の都にはたてつづけに異変が起こり、御所の清涼殿に落雷があったりしたので、人びとはこれらを道真の祟りとして怖れ、10世紀中頃、彼の怨霊を弔うべく京都に北野天神(北野天満宮)が造営されて、道真を祭神とした。この天神信仰がしだいに普及し、江戸時代には寺子屋教育で道真が学問精進の象徴とされるようになった。わらべ唄「通りゃんせ」の歌詞にある「天神さま」とは、この菅原道真のことである。

>文章博士
 律令制度下に置かれた大学で詩文や歴史を指導した教官のこと。728年に定員一人を置き、その後二人に増員。平安中期以降は菅原家と大江家とが独占した。
>大宰府 ★都府楼跡の写真
 令制により筑前国筑紫郡に置かれた役所の名。前身は536年に置かれた「那津官家(なのつのみやけ)」で、白村江(はくすきのえ)の敗戦(663年)頃、福岡市から太宰府市に移されたらしい。大宰府政庁は、九州一円の行政を管轄し、外交および外敵の防御にあたった。正庁舎は現在の都府楼跡(とふろうあと)にあった。都府楼とは都監府の楼閣の意。大宰府の都域は中国の都を模倣して、碁盤の目のような条坊制が敷かれた広大な区域だったといわれる。なお、政庁名は「大宰府」、現在の地名及び神社名は「太宰府」と表記する。
>大宰権帥
 大宰府政庁の最高長官を帥(そち・そつ)と言い、その下に権帥(ごんのそち・ごんのそつ)・大弐(だいに)・少弐(しょうに)などが置かれた。また、祭祀を担当する主神(かんづかさ)などの役職もあった。

万葉人―大伴旅人、山上憶良
 大伴旅人(おおとも・たびと、665−731)は大宰府の長官(帥)として赴任した。約三年間在任し、京都に戻った。万葉集の代表的歌人の一人として有名であり、在任中は、後年万葉集最後の歌人として知られ、また編者とも目されている子息の大伴家持(おおとも・やかもち)を同行していたと伝えられる。大伴旅人は風流の人であり、しばしば歌会を開催している。730年、天平二年正月の梅見の宴がとくに有名で、管内の国司や折から滞在中の小野老・沙弥満誓ら当代一流の歌人が勢揃いしている。大伴旅人はまた、大宰府在任中に最愛の妻を病気で亡くし、「世の中はむなしきものと知るときしいよよますます悲しかりけり」の一首を詠んだ。万葉の女性歌人、坂上郎女(さかのうえのいらつめ、生没年不詳)は彼の異母妹。旅人が妻を亡くしたときに大宰府を訪れて歌を残している。
 山上憶良(やまのうえ・おくら、660−773)は726年頃に筑前守として大宰府に赴任し、約6年間ほど在任している。上司に大伴旅人を迎え、彼の作歌意欲も増したといわれる。彼の代表作「銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむにまされる宝子に如(し)かめやも」、「天ざかる鄙(ひな)に五年(いつとせ)住ひつつ都の手ぶり忘らえにけり」などはいずれも大宰府時代の作品である。

戦国の武将文化人―今川了俊
 今川了俊(いまがわ・りょうしゅん、1326−?)は、室町幕府が九州統括を目的として福岡に置いた九州探題(きゅうしゅうたんだい)の第4代目として着任し、以後25年の歳月をついやして、九州一円を足利氏の支配下におさめることに成功した。いわば南北朝時代の武将としての名声があるが、一方、当代随一の文化人としても定評があった。
 和歌・連歌の道に優れ、また政治・儀礼の慣例に関する故実の学問にも造詣が深かった。彼のもとには、おのずから文化サロンが形成され、そこに集まる人びととともに、当時の都の自由清新な文化を九州にもたらした。異なった場所に住み、異なった風俗習慣をもつ人びとが、互いに交通し、混ざり合うところに、健康な開かれた文化は誕生する。今川了俊には著書も数多く、『難太平記』『落書露見』『了俊大草子』などがある。

博多の三傑―嶋井宗室、神屋宗湛、大賀宗九
 戦国時代から江戸時代初期にかけての博多の豪商、嶋井宗室(しまい・そうしつ、?−1615)と神屋宗湛(かみや・そうたん、1553−1635)と大賀宗九(おおが・そうく、1561−1630)の三人を、いわゆる〈博多の三傑〉と称する。嶋井宗室と神屋宗湛は豊臣秀吉ら中央政界の要人と結びついて博多津の交易の実権を握り、海外貿易で活躍。また、茶人としても有名で、豊富な資金力をバックに豪勢な茶会を催した。この時代の豪商は剃髪得度して僧籍に入り、茶の湯の世界に遊んだ。剃髪得度したのは、形式的にしろ世俗を脱することで同時代社会の複雑な権力抗争とは無関係に商売ができるためであり、、茶の湯に遊んだのは、茶会が権力者の社交の場となっていたからである。嶋井宗室の墓所は福岡市内の崇福寺、神屋宗湛のそれは博多妙楽寺にある。
 この二人よりすこし遅れて、大賀宗九が黒田藩の御用商人として活躍した。大賀宗九の三男は大賀宗室(?−1665)。父親と同様、藩の御用商人として交易の実権を握った。同時代の博多の豪商、伊藤小左衛門(?−1667)は黒田藩の長崎出島の貿易商。いずれも黒田藩の手厚い庇護を受けて莫大な利益を得たが、伊藤小左衛門は後年、朝鮮半島への武器密輸が発覚し、死刑に処された。

農業全書―宮崎安貞
 宮崎安貞(みやざき・やすさだ、1623−1697)は農学者。安芸国(広島県)に生まれた。1647年、25歳のとき黒田藩に200石で迎えられたが、5年後、福岡の地を去って、諸国を遊歴。農業関係の資料を収集し、貞享年間(1684−1987)頃、福岡藩に戻り、農業に従事。女原村(福岡市西区周船寺)に住んで農民に農業技術を指導するかたわら、ながい歳月を費やして、江戸時代の農業技術の集大成『農業全書』全10巻(1697年完成)を著した。現在、福岡市西区周船寺には宮崎安貞の書斎・墓があり、整備公開されている。

>宮崎安貞の書斎・墓 ★写真

養生訓―貝原益軒
 貝原益軒(かいばら・えきけん、1630−1714)は福岡藩士で、江戸時代前期に活躍した儒学者・博物学者・庶民教育者であった。父祖の地は藩主黒田家と同じ岡山県だが、益軒自身は、さきに藩主とともに福岡入りした父親の五男として福岡の地に生まれた。机上の学問でなく、実地体験の知識を重んじ、生涯にわたって旅を愛した人だった。
 藩命により『黒田家譜』の編纂に従事し、また『筑前国続風土記』の編纂にもたずさわった。その他、代表的な著作に、『益軒十訓』『大和本草』『和俗童子訓』などがあり、有名な『養生訓』はこの『益軒十訓』の一つ。また、江戸時代にひろく普及し、明治以降も女子教育の啓蒙書とされた『女大学』は、益軒の『和俗童子訓』の一節を圧縮し、一般庶民にわかりやすい形に後代の人が書き改めたものとされる。

>『養生訓』 ★原本の写真
 江戸中期の教訓書。心と体の衛生を保つために守るべき事項が儒学の立場から平易に説かれている。
>『女大学』
 女子の教訓書。女性は、幼い時は父母に、結婚したら夫に、老いたら子に従えと諭(さと)す内容。著者については後人のものとする説のほか、益軒自身、あるいは彼の妻・東軒(とうけん)とする説もある。

茶人―立花実山
 立花実山(たちばな・じつざん、1655−1708)は福岡藩の家老で、『南坊録(なんぼうろく)』の著者として有名である。南坊流は千利休の高弟・南坊宗啓を遠い始祖とし、これを立花実山がひろめた。彼は南坊流茶道の宗匠として普及につとめ、晩年は出家し、住吉神社境内の松月庵に閑居。その後、藩のお家騒動に巻き込まれ、幽閉後に殺害された。彼はまた、貝原益軒の門下で、詩歌にも優れた才能を発揮した。『梵字艸』などの著書がある。

>『南坊録』
 南方録(なんぼうろく)とも。堺の南宗寺内にある集雲庵の南坊宗啓が、茶道の師・千利休の言動わ仔細に記録し、茶道の奥義としてまとめた書物。以後、100年ほど世に埋もれたいたのを立花実山が参勤交代の途中で発見注目し、これを書写して、1690年(元禄3年)、利休百回忌に『南坊録』としてまとめた。本録7巻、実山の秘伝・追加を加えた全9巻本。当時の筑前は宗俊流が中心を占めていたが、しだいに南坊流がひろまった。

柳河藩の儒者―安東省菴、安東節菴
 福岡(黒田)藩にいたのが貝原益軒であるなら、柳河藩には、安東省菴(あんどう・せいあん、1622−1701)がいた。安東省菴は藩主・立花宗茂以後、4代の藩主に仕え、柳河藩儒学の祖と称される。清貧に安んじ、学問の道を第一とした生き方は、ひろく天下に讃えられた。『省菴先生遺集』『初学心法』『恥斎漫録』など、多数の著書を残している。
 安東省菴の5代目・安東仭山の養子になったのが安東節菴(1785−1835)である。彼は柳河藩の藩校「伝習館」(現在の伝習館高校)の創設に貢献した朱子学者として名高く、1824年(文政7年)、伝習館創設後は同館の教授となった。

金印を鑑定―亀井南冥、亀井昭陽
 1784年(天明4年)、福岡市東区志賀島で金印が発見された。農夫が水田の溝を修理中に大きな石の下から見つけたというのである。この金印を鑑定し、印面に刻まれている「漢委奴国王」という文字を中国の「後漢書東夷伝」中にある「倭の奴国奉貢朝賀す。(略)光武、賜うに印綬を以てす」という記述と関連づけ、これを後漢の光武帝から賜った金印であると鑑定したのは、福岡藩の儒学者・亀井南冥(かめい・なんめい、1743−1814)であった。父親は前原市の出身だが、南冥は市内姪浜で生まれた。20歳のとき上方に遊学し、儒学と医学を学んで帰郷した。36歳で藩の儒医に登用され、藩校「甘棠館(かんとうかん)」が設立されると初代館長となった。南冥の学問は、古学派(徂徠学)であり、のちに松平定信が「寛政異学の禁」で朱子学以外の学問を禁じたため苦しくなり、寛政4年(1792年)には謹慎の身となり、甘棠館も火災にあって廃校となった。南冥は文化11年(1814年)3月3日没。墓所は市内地行の浄満寺にある。彼の門下生には日田の広瀬淡窓、秋月の原古処ら、優秀な人材がいる。著書には『金印弁』『論語語由』などがあり、その学門は長男の亀井昭陽(かめい・しょうよう、1774−1836)に受け継がれた。この学風を亀門学派(きもんがくは)という。

>金印
 現在、福岡市東区志賀島(バス停「金印塚」下車)には、「金印公園」が整備されている。また、金印のレプリカは福岡市博物館で見ることができる。
>甘棠館
 福岡藩の藩校。藩命により、1784年(天明4年)、福岡市唐人町と福岡城正門前に二つの学問所が誕生した。前者を「西学問稽古所」と称し、後者を「東学問稽古所」といった。「西学問所」は別名を「甘棠館(かんとうかん)」といい、古学派(徂徠学)の亀井南冥が館長をつとめたが、1798年、火災で学舎が消失し、廃校となった。一方、「東学問稽古所」は別名を「修猷館(しゅうゆうかん)」と称し、朱子学派の竹田定良が初代館長となった。修猷館は明治維新後の廃藩置県に伴い、いったん廃校となったが、その後の学制改革で県立中学となり、さらに第二次世界大戦後の教育改革で、県立高校(現在の修猷館高校)となった。

実地踏査の人―奥村玉蘭、青柳種信、伊藤常足
 奥村玉蘭(おくむら・ぎょくらん、1761−1828)は、福岡藩の醤油醸造元の家に生まれた。幼名を梅松といい、幼くして利発な子だったという。亀井南冥・昭陽に師事して、学問を修めた。家業を弟に譲り、みずからは太宰府に草庵を建てて住んだ。筑前国中を歩き、祭りや伝説や特産工芸など子細に調査し、『筑前名所図絵』を著した。なお、この『筑前名所図絵』は彼の没後ながく埋もれたままになり、145年目の1973年(昭和48年)に発見されて、いちやく脚光を浴びた。
 青柳種信(あおやぎ・たねのぶ、1766−1835)は、福岡藩の藩士で国学者。市内地行(ぢぎょう)の足軽の子に生まれ、20代で伊勢松阪の本居宣長に学んだ。江戸在勤中は多くの国学者と交わり、帰郷。伊能忠敬(いのう・ただたか)が日本地図作成の旅で訪れたとき、案内人をつとめた。種信は以後も藩内各地の調査をつづけ、『筑前国続風土記拾遺(ちくぜんのくにしょくふどきしゅうい)』や『金印考』などの著書をまとめた。
 伊藤常足(いとう・つねたり、1774−1858)は筑前国鞍手郡(現在の鞍手町大字古門)の人。神職の次男。亀井南冥から儒学を学び、青柳種信から国学を学んだ。37年の歳月を費やして九州全域の地誌『太宰管内誌』(1841)全82巻を編纂し、また日本書紀を講じたり和歌の創作にも才能を発揮した。地域の人びとの教育にも情熱を傾け、植木・芦屋・黒崎・下関の四箇所に教授所を設けて一般子弟を教育した。芦屋と黒崎の教授所の人たちの歌集『岡県集(おかのあがたしゅう)』(1828)を編み、また和歌・日記集に『やちまた日記』『山里日記』『山さくら戸』『雨夜集』などがある。

>伊藤常足旧宅 ★写真
 鞍手郡鞍手町大字古門に史蹟「伊藤常足旧宅」が復元保存されている。伊藤家に伝わる建物図面をもとに修理・復元したもの。鞍手町教育委員会・伊藤常足翁文化財保存会・伊藤家が管理し、土・日曜日に自由に見学できる。また、鞍手町歴史民俗資料館(鞍手町小牧)にも伊藤常足関係資料の展示コーナーがある。

女性俳人―諸九尼
 諸九尼(しょきゅうに、1714−1781)は近世期九州俳壇の代表的女性俳人である。筑後唐島の永松家の出身で、長じて嫁いだが、上方俳人の湖白庵浮風と知り合って家出し、一緒に上方で暮らすうちに俳諧の才能を開花させた。夫の死後、帰郷し、晩年は直方に草庵を結んで門弟を育てた。『諸九尼句集』(1786)『諸九尼続発句集』(1787)
などがある。

幕末の歌人―二川相近、大隈言道、野村望東尼
 江戸時代の後期、福岡の城下に風変わりな書道家がいた。家は代々の藩の料理方で、父親が亀井南冥に親しかったことから入門を勧められ、家職転業するため、16歳から書道の道に精進。28歳で藩主より転業を認められて『執筆法』なる書物を著し、書道に二川流を開いた。病身のため30年間自宅を出ず、藩主もそれを認めた名物男であった。二川相近(ふたかわ・すけちか、1764−1836)が、その人である。琵琶の演奏が上手で、和歌も当代風のものを作り、歌集に『鴫(しぎ)の羽根かき』がある。
 大隈言道(おおくま・ことみち、1798−1868)は福岡薬院の商家の子で、幼少より二川相近に書と和歌を習い、家督を弟に譲って、自分は市内今泉の池萍堂(ちひょうどう、「ささのや」とも称する)に隠棲し、生涯を作歌に専念した。日田の広瀬淡窓に入門して漢学を学び、また大阪に上って国学者や歌人と交際し、自分の新しい歌風を世に問うた。彼の持論は、現代は現代の和歌を作るべきであり、そこに住んでいる者はその土地の和歌を作るべきだというもので、当時の歌壇には認められなかったが、彼の死後、時代も近代になってから、そのまっとうな意見が評価され、近世後期の独自な歌人として注目された。歌集に『山里和歌集』『草径集(そうけいしゅう)』(1863年)、歌論に『ひとりごち』などがある。
 福岡藩士の娘で、幕末の女性勤王家で歌人としても有名なのが、野村望東尼(のむら・ぼうとうに、1806−1867)である。彼女は福岡藩士・浦野勝幸の三女に生まれ、17歳で結婚したが半年あまりで離婚。24歳で福岡藩士・野村貞貫(さだつら)の後妻となり、夫とともに大隈言道に師事した。やがて長男に家督を譲り、夫婦して市内平尾の草深い向岡(むかいのおか)の平尾山荘(ひらおさんそう)に隠棲し、山荘は言道門下の人たちのサロンとなった。夫の死後、剃髪して仏道に入り、招月(しょうげつ)望東禅尼と名のった。1861年(文久元年)、半年あまり京都、大阪に滞在し、勤王家と交流したことが契機となって、晩年は熱心に勤王の志士たちの援護につとめた。平尾の山荘には平野国臣(ひらの・くにおみ)や高杉晋作(たかすぎ・しんさく)らが出入りし、勤王の志士たちの拠点の一つとなったが、藩の弾圧により、1865年(慶応元年)、糸島郡志摩町の姫島(ひめしま)に流された。しかし翌年、高杉晋作らが救出し、彼女は下関に逃走して、そのまま山口県内にとどまり、当地で没した。享年62歳。著書に『向陵集(こうりょうしゅう)』『夢かそへ(ゆめかぞえ)』『防州日記』などがある。

>平尾山荘 ★写真
 福岡市中央区平尾の高台の公園に「平尾山荘」は修復保存されている。簡素な茅葺きの家で、望東尼の胸像と、「もののふの大和心をよりあはせただひとすじの大綱とせよ」と刻んだ歌碑が建立されている。
>平野国臣(1828−1864)
 福岡藩士。足軽の子に生まれ、国学者・青柳種信の子・青柳種春(あおやぎ・たねはる)の門下に学んだが、1857年、脱藩して京都へ行って勤王運動に参加した。

>高杉晋作(1839−1867)
 幕末の尊皇攘夷(倒幕派)運動の志士。吉田松陰が開いた山口県萩の松下村塾に学び、のち奇兵隊を組織し、明治維新に貢献した。

秋月の吟遊詩人―原古処、原采蘋
 甘木市秋月に古処山という標高860mほどの山がある。山頂には鎌倉時代から秋月氏代々の山城があったが、江戸時代に秋月藩主・黒田長興が入り、陣屋建築の際、その城趾の石垣をとり壊して使用したと伝えられる。山頂一帯のツゲの原始林は有名で国の天然記念物指定。山頂に立つと、はるか筑後地方一帯が遠望できる。
 この山の名前を号に用いたのが原古処(はら・こしょ、1767−1827)である。本名は震平。16歳のとき秋月の儒学者・原担斎(はら・たんさい)の養子となり、18歳で福岡の藩校・甘棠館(かんとうかん)に入学し、卓抜な才能を発揮して、亀井南冥門下の四天王とよばれた。その後、学才を認められて藩主から私塾・古処山堂を与えられたが、やがて藩の学風は朱子学に傾き、亀井南冥系の古学を学んだ古処は藩に容れられず、46歳で職を辞した。以後、隠居し、甘木に天城詩社を創設したり妻や娘を伴って諸国を遊歴し、漢詩の著作に専念した。著書に『古処山堂詩稿集』があり、秋月の西念寺境内には彼の詩碑がある。
 原古処の長女が原采蘋(はら・さいひん、1798−1859)である。本名は猷(みち)、采蘋または霞窓(かそう)と号した。学才があり、父親の不在中は代講をつとめたりしたが、30歳のとき、江戸へ出て、以後20年間江戸を拠点に活躍し、その後、帰郷した。のち筑紫野市に居を移し、土地の人たちに学問を講じたが、南九州など各地を旅し、62歳のとき、父親の遺稿集を出板するため郷里を旅立ち、長州(山口県)萩の宿所で没した。旅に生き、旅に死んだ女性漢詩人だった。著書に『采蘋詩集』『東遊日記』『西遊日歴』などがある。

>古処山 ★山の遠景写真

豊前の詩人教育者―村上仏山
 漢詩人で儒学者の村上仏山(むらかみ・ぶつざん、1810−1879)は、原古処の門下生である。古処没後は古処の長男・原白圭(はら・はっけい)に学び、また福岡の亀井昭陽(かめい・しょうよう)に教えを乞うたのち、豊前行橋に帰郷し、全寮制の私塾・水哉園を開いて、子弟の教育にあたった。古処の教えを踏襲し、塾生には徹底的に厳しい教育をほどこし、毎月試験を実施して成績次第で昇級する制度を設けるなどした。仏山の死後、養嗣子の村上静窓(むらかみ・せいそう)が塾を継続し、水哉園の歴代の門下生の総数は約1,300人。この中から日本の近代化を担う人材が輩出し、政治家・歴史家の末松謙澄(すえまつ・けんちょう)、満州鉄道総裁の安広伴一郎らもそのなかに含まれる。仏山の著作には『仏山堂詩抄』などがある。

>末松謙澄(1855−1920)
 政治家・歴史家。京都郡前田村(現行橋市)の庄屋の家に生まれ、水哉園で学んだのち、上京して、東京日日新聞の記者となった。政界に転身し、ケンブリッジ大学留学後、帰国して伊藤博文の二女と結婚。貴族院議員、内務大臣などを歴任、枢密顧問官となる。『源氏物語』の英訳や、演劇改良運動にも携わり、また毛利家から依嘱されて、維新史料の白眉とされる『修訂・防長回天史』全12巻を完成させた。

人参畑の女傑―高場乱
 高場乱(たかば・おさむ、1831−1891)は福岡藩医・岡正節の孫で、高場正山の子。本名(諱=いみな)は元陽、通称は乱。幕末から明治前半期にかけて、福岡市内で高場流の眼科医を開業するかたわら、興志塾(人参畑塾=にんじんばたけじゅく)を開き、人材の育成にあたった。生涯を男装・帯刀で通した女傑としても有名で、「人参畑の婆さん」と親しまれたという。学問は亀井南冥系の亀門の四天王とよばれるほど優れ、彼女の私塾からは頭山満、箱田六輔ら玄洋社の中心人物たちが輩出した。現在、博多駅前四丁目交差点そばに人参畑塾址碑がある。

>高場乱 ★写真(肖像画)
>人参畑塾址碑 ★写真

玄洋社の三傑―頭山満、箱田六輔、平岡浩太郎、内田良平
 政治結社「玄洋社(げんようしゃ)」が結成されたのは1880年(明治13年)のこと。以後、明治・大正・昭和の三代にわたって活動は続いたが、敗戦後のGHQ指令により解散した。皇室を敬い、国体を重んじ、自由民権を擁護する立場をとったが、しだいに大アジア主義の傾向を強めていった。頭山満(とうやま・みつる、1855−1944)、箱田六輔(はこだ・ろくすけ、1850−1888)、平岡浩太郎(ひらおか・こうたろう、1851−1906)の三人は、「玄洋社の三傑」と呼ばれている
 頭山満は福岡市西新に生まれ、高場乱の興志塾(人参畑塾)に学んだ。箱田六輔・平岡浩太郎らと玄洋社を結成し、ついで「福陵新報」(「九州日報」の前身)を創刊、その初代社長となった。政界の右翼として暗躍し、アジアにひろく目をそそぐスケールの大きい豪放磊落な人物として勇名を馳せた。
 箱田六輔は自由民権運動に参加し、板垣退助につぐ人材として評判された。玄洋社を結成し、豪放磊落な性格にも好感が持たれ、将来を期待されたが、国会開設の前年、急死した。死因は心臓発作とも割腹自殺ともいわれ、その真相のほどはわかっていない。
 平岡浩太郎は福岡市地行の生まれで、玄洋社に参加し、はやくからアジア問題に関心を抱いた。1894年(明治27年)、衆議院議員に当選し、中央政界でも活躍した。
 平岡浩太郎の甥にあたるのが、黒竜会主幹の内田良平(うちだ・りょうへい、1874−1937)である。福岡藩士の子で、福岡に講道館柔道を広めた人物としても知られる。1901年(明治34年)、対ロシア強硬論を唱えて「黒竜会」を結成し、また宮崎滔天らと謀って孫文らの中国革命同盟会結成にも協力した。満洲独立論者であり、1931年(昭和6年)、大日本生産党を設立し、初代の総裁となった。
 現在、福岡市中央区舞鶴に「玄洋社記念館」がある。

>玄洋社記念館 ★写真

近代詩歌への胎動―井上哲次郎
 1882年(明治15年)、近代詩歌の胚胎を告げる一冊の詩集『新体詩抄』(丸家善七刊)が出版された。同書の「例言」には、「夫レ明治ノ歌ハ明治ノ歌ナルベシ、古歌ナルベカラズ」と宣言されていた。この宣言文を書いたのは、太宰府の医家に生まれた井上哲次郎(いのうえ・てつじろう、1855−1944)であった。号は巽軒(そんけん)。彼は郷里を出たあと長崎に遊学し、さらに上京して学問を修めて、ヨーロッパにも留学した。帰国後、ドイツ哲学者として母校の東京大学の教壇に立ち、晩年は東洋思想にも造詣を深めた。詩集に『巽軒詩鈔(そんけんししょう)』(1884年)があり、篇中の西南戦争を題材にした長篇漢詩「孝女白菊(こうじょしらぎく)」は、のちに落合直文が平易な新体詩「孝女白菊の歌」に翻案して一躍有名になった。

立身出世と故郷―宮崎湖処子
 福沢諭吉の『学問のすすめ』が説くように、明治の新時代は、四民(士農工商)の身分の差別なく、学問を修めて立身出世し、故郷に錦を飾るというのが、青少年たちの青雲の志となった。下座郡美奈木村(現在の甘木市美奈木町)に生まれた宮崎湖処子(みやざき・こしょし、1868−1922)もまた、青雲の志を抱いて上京し、東京専門学校(現在の早稲田大学)政治科を卒業したが、すでに東京の就職状況は飽和状態にあり、彼は著作活動に活路を求めて、『日本情交之変遷』(1887年)『国民之友及び日本人』(1888年)を発表。徳富蘇峰(とくとみ・そほう)に認められて民友社に入社し、1890年、「国民新聞」創刊に際して編集員となった。ついで、亡父の一周忌法要のため、都会の塵労(じんろう)を脱して桃源(とうげん)の故郷に帰省した折の体験を、陶淵明(とう・えんめい)の田園詩にかさねて書きつづった紀行文『帰省(きせい)』(1890年)を上梓した。『帰省』の浪漫的美文は、当時の立身出世の挫折の世相にマッチして、大いに世間の評判となり、湖処子の名を一躍有名にした。

>『帰省』 ★本の写真(なければ現物は花田が所有)
>徳富蘇峰(1863−1957)
 新聞記者・評論家・歴史家。熊本県生まれ。明治20年、民友社を設立し、雑誌「国民之友」を創刊。小説家の徳富蘆花(とくとみ・ろか)は実弟にあたる。

多才なリベラリスト―豊島与志雄
 豊島与志雄(とよしま・よしお)は1890年(明治23年)、宮崎湖処子の生家に近い朝倉郡福田村(現在の甘木市福田)に生まれた。県立中学修猷館(現在の修猷館高校)から第一高等学校をへて東京帝国大学仏文科を卒業した。大学在学中、一級下の芥川龍之介、菊池寛らと第3次「新思潮」を創刊し、第一創作集『生あらば』(1917年)、ついで『蘇生』(1919年)『微笑』(1919年)『二つの途』(1920年)『未来の天才』(1921年)『理想の女』(1921年)などの創作集をつぎつぎと刊行するなど、大正期の新人小説家として注目を浴びた。一方、ヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』や、ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』の翻訳を手がけるなど、フランス文学者・翻訳家としても活躍し、1933年(昭和8年)4月、明治大学文科専門部文芸科教授となった。さらに中国説話に題材を求めた小説や、童話の創作にも才能を発揮した。戦後は文化団体「火の会」の結成に参加し、また中日友好協会副会長、日本ペン・クラブ幹事長に就任するなど、多方面にわたって文化人の面目を発揮した。

「舞姫」論争の二人―石橋忍月、森鴎外
 石橋忍月(いしばし・にんげつ、1865−1926)は上妻郡湯辺田村(現在の八女郡黒木町)に生まれた。久留米の漢学塾で学んだあと、上京し、帝国大学法科大学(現在の東京大学)に入学してドイツ語・ドイツ文学に親しんだ。在学中、森鴎外とのあいだに「舞姫」論争を展開するなど、新進気鋭の文芸評論家として注目され、また明智光秀を題材にした中篇小説『惟任日向守』(これとうひゅうがのかみ、1895年)などを刊行した。卒業後は弁護士、長崎地方裁判所判事、長崎市会議員、同県会議員などを歴任し、長崎の地で没した。文芸評論家の山本健吉(やまもと・けんきち)は忍月の三男として長崎に生まれている。
 「舞姫」の作者は森鴎外(1862−1922)である。鴎外は島根県津和野の生まれで、東大医学部卒業後、陸軍の軍医となった。その後、1899年(明治32年)から2年10ヶ月間、陸軍の小倉(北九州市)第十二師団の軍医部長として赴任した。軍内部の政治的抗争が関係しているとされ、鴎外のいわゆる小倉左遷時代と称されている。その小倉時代に鴎外は『即興詩人』の翻訳を完成し、また「福岡日日新聞」に「我をして九州の富人(ふじん)たらしめば」などの評論を発表するほか、小倉での生活を題材にした短篇「鶏」「独身」「二人の友」の三作を発表した。

>山本健吉(1907−1988)
 評論家。本名、石橋貞吉。『現代俳句』(1956−1957)『古典と現代文学』(1955年)などの評論集が多数ある。
>森鴎外旧居 ★写真
 森鴎外は小倉では鍛冶町(かじまち)の借家に住み、1年半後に新魚町に引っ越した。鍛冶町の借家は現在、北九州市の文化財指定を受け、「史蹟森鴎外旧居」として保存公開されている。

豊津中学の俊才―小宮豊隆、堺利彦、葉山嘉樹、鶴田知也、富島健夫
 旧制の豊津中学(現在の豊津高校)は、江戸時代の小笠原(小倉)藩の藩校・思永館(しえいかん)が前身であり、明治維新後に県立中学となった。当地の優秀な人材を集め、各界に優秀な人材を輩出している。文学関係でまず挙げるべきは、夏目漱石の小説「三四郎」の主人公のモデルと目される小宮豊隆(こみや・とよたか、1884−1966)であろう。彼は京都(みやこ)郡犀川村に生まれ、1902年(明治35年)に豊津中学を卒業し、第一高等学校から東大に進学。夏目漱石の知遇を得て、漱石山房(漱石の自宅の別称)に出入りし、漱石の人柄と文学に親しんだ。ドイツ文学を専攻し、やがて東北大学ドイツ文学講座の初代教授として赴任した。一方、漱石全集の編集や研究にも貢献し、晩年には学士院会員に推され、また芸術院賞を受賞した。
 豊津藩仲津郡豊津村(現在の福岡県京都郡豊津町)生まれの枯川(こせん)堺利彦(さかい・としひこ、1871−1933)は、幸徳秋水らと平民社を設立し、1903年(明治36年)、社会主義の立場にたつ「平民新聞」を創刊して、反戦論を積極的に展開した。1922年(大正11年)の日本共産党の結成に参加し、のち共産党からは離れたが、1931年(昭和6年)には郷里の豊津に農民労働学校を設立するなど、民衆の立場を擁護する姿勢は一貫して保持しつづけた。
 プロレタリア文学の旗手として有名な葉山嘉樹(はやま・よしき、1894−1945)は、堺利彦と同じ村に生まれ、同じ中学を卒業し、同じく左翼的な立場にたった。二人の間に直接的な影響関係はなかったようだが、葉山嘉樹は上京して船員になったり、また帰郷して八幡製鉄の労働争議を目のあたりにしたあと、名古屋のセメント会社に就職。そこでの体験をヒントにして、短篇「セメント樽の中の手紙」(1926年)を発表して、プロレタリア文学には稀な抒情的香りのする作品として注目された。その後、長篇「海に生くる人々」(1926年)で代表的なプロレタリア作家として認められたが、戦争に際しては満蒙開拓団の一員として参加し、敗戦後、帰国途中に脳溢血のため死亡した。
 鶴田知也(つるた・ともや、1902−1988)は小倉市大阪町に生まれ、7歳のとき母方の養子になって豊津村に移った。1920年(大正9年)、豊津中学を卒業して上京。クリスチャンの植村正久が開校した東京神学校で学んだが、やがて信仰を離れて北海道へ渡り、酪農に従事した。1923年(大正12年)、葉山嘉樹の誘いで名古屋に移住し、労働運動に接近した。以後、各地を転々とし、1927年(昭和2年)、再度上京。労農芸術家連盟に参加し、機関誌「文芸戦線」に小説を発表した。1936年(昭和11年)、アイヌ叙事詩に取材した小説「コシャマイン記」(1935年)で第3回芥川賞を受賞した。
 富島健夫(とみしま・たけお、1931− 、冨島とも)は戦後、思春期の少年少女の恋や人生の悩みを抒情的に描くジュニア小説の分野を開拓した。彼は旧植民地の朝鮮京城(現在の韓国ソウル市)に生まれたが、敗戦で引き揚げ、やがて苅田町に引っ越して、そこから豊津中学に通学した(卒業当時は新制の豊津高校になっていた)。卒業後、早稲田大学に進学し、「喪家の狗」(1953年)で芥川賞候補となったが、その後ジュニア小説の分野に転身し、人気作家となった。自伝的長篇〈青春の野望〉シリーズの第1巻『錦が丘恋歌』(1976年)は、作者をモデルにした中学2年生の主人公が敗戦直後の日本に引き揚げてきて豊津中学の校門を入るところから書きはじめられている。

>豊津中学校講堂「思永館」 ★写真
 1902年(明治35年)の建設。優雅な洋風建築物で、福岡県の有形文化財の指定を受けている。なお、町内の豊津町歴史民俗資料館は、旧石器時代から豊津藩をへて現代に至るまでの歴史民俗資料を収集展示している。

若きプロレタリア作家の像―橋本英吉
 文芸誌「文芸時代」に短篇「炭脈の昼」(1926年)を発表し文壇に登場した橋本英吉(はしもと・えいきち、1898−1978)は、築上郡東吉富村(現在の吉富町)の生まれ。本名は亀吉。6歳のとき父親を亡くし、叔母の白石家の養子になった。高等小学校卒業後、郵便局の下働き、豆腐の行商、炭坑夫など、下積みの仕事を転々とし、1922年、上京。1924(大正13)年、博文館印刷(現・共同印刷)にモノタイプ工とし て入社。博文館印刷時代、労働運動に関わり、同じ会社にいた徳永直とも知り合ったが、お互いに文学に関心を寄せていることは知らなかったという。1927(昭和2)年、文芸春秋社に入社。1928(昭和3)年、前衛芸術家同盟に加入。同年3月ナップ(全日本無産者芸術連盟)に加入。「棺と赤旗」(1928年)「金融資本の一断面」(1929年)「市街戦」(1930年)などを発表。1931(昭和6)年6月、日本共産党に入党したが、1932(昭和7)年5月、検挙されて転向し、起訴猶予となった。これを機に妻の郷里の伊豆に転居し、長篇小説『炭鉱』(1935年)を上梓。また農民小説「欅の芽立」(1936年、文学界賞)を発表した。また、郷里を舞台にした小説『忠義』(1943年)『筑豊炭田』(1943年)などの著書もあり、晩年の『若き坑夫の像』(1976年)もまた、故郷を舞台にした自伝小説である。

「虞美人草」のモデル―菅虎雄
 夏目漱石の小説「虞美人草」の宗近一(むねちか・はじめ)のモデルは、菅虎雄(すが・とらお、1864−1943)であると目されている。菅虎雄は久留米藩の典医・菅京山(すが・きょうざん)の次男に生まれ、東大の第一期生として卒業。その後、旧制第五高等学校や第一高等学校のドイツ語教授を歴任した。夏目漱石の親友だったことでも知られ、漱石が、小説「坊っちゃん」の舞台となった松山中学に赴任したり、さらに熊本の第五高等学校に転任したのも、この菅虎雄の世話によるものであったし、また、漱石の人生の節目となった参禅を勧めたのも彼であった。

水郷柳川の詩人―北原白秋
 柳川出身の詩人・北原白秋(きたはら・はくしゅう、1885−1942)は、近代日本の詩人を代表する一人である。本名は隆吉。家業は裕福な酒造屋であり、神経過敏で早熟な子であったという。中学伝習館(現在の伝習館高校)に在学中から地元紙の「福岡日日新聞」(現在の「西日本新聞」)の文芸欄に短歌を投稿していたが、やがて故郷を出奔して上京した。上京後は早稲田大学予科に入学し、1909年(明治42年)、幼い頃から親しんだ南蛮情趣に彩色された詩集『邪宗門』を出版。ついで故郷柳川を「廃市」として妖しく追慕した詩集『思い出』(1911年)を出版し、絶大な人気を博した。『思い出』の序文「わが生い立ち」には、柳川の風物、生活、習慣などが独特の感性を生かして詳しく濃密に語られている。白秋は以後、短歌の創作も手がけ、歌集『桐の花』(1913年)などを上梓。さらに、紀行文、童謡や民謡の作詞など、幅広い活躍をつづけ、国民詩人の名声を得た。晩年は失明し、戦時下の1942年(昭和17年)、亡くなった。死後、刊行された水郷柳川写真文集『水の構図』(1943年)の「はしがき」に白秋は、「水郷柳河こそは、我が生れの里である。この水の柳河こそは、我が詩歌の母体である」と書きしるしている。ちなみに「柳河」とあるのは旧柳河藩の領地をさし、現在の柳川市とは必ずしもかさならない。
 『水の構図』は豊富な写真で満たされているので、むしろ写真集といったほうがいい。この叙情的な写真を撮影したのが田中善徳(たなか・ぜんとく、1903−1963)である。彼は博多下州崎の生まれ。1922年、福岡師範学校を卒業後、福岡市内の小学校に勤務。その後、横浜市に行き、児童文学者の与田凖一の紹介で北原白秋と知り合い、童話の創作も手がけた。1935年、福岡市に戻り、まもなく九州日報社(現在の西日本新聞社の前身の一つ)の学芸部長となった。一方、カメラに興味を持ち、白秋の郷里・柳川に通いつめて〈水の構図〉の写真を撮り続けた。戦後は夕刊フクニチ新聞社写真部長をつとめた。

>柳川>>写真(3064_018)(柳川 紅葉と川下り)
>酒造屋>>写真(2486_034)(白秋生家)
 白秋生家は柳川の川下り舟の到着する舟着場の近くにあり、幼い日の白秋の育った家の様子が再現されている。家内の土間を抜けると裏手に、柳川特有のなまこ壁を模した外観の柳川市歴史民俗博物館(白秋記念館)の建物がある。1階は柳川の歴史や風俗などをパネルや模型で展示し、2階には白秋関係の資料が展示されている。

夫婦で文芸サロン―久保猪之吉、久保より江
 久保猪之吉(くぼ・いのきち、1874−1939)は九州帝国大学(現在の九州大学)医学部教授。九州帝大は1903年(明治36年)、京都帝国大学の分校にあたる福岡医科大学として創設され、以後、順次に学部を増設して、九州帝国大学として独立した。久保猪之吉は福島県の生まれだが、1900年(明治33年)、東京帝国大学を卒業。ドイツに留学し、帰国後、京都帝国大学福岡医科大学(九州大学の前身)の創設に際して、初代の耳鼻咽喉科教授として赴任した。日本の耳鼻咽喉医学の先駆者として著名な業績をあげた。彼はまた、旧制高校在学中から短歌の世界に親しんだ文学青年でもあった。『鼻科学』など数冊の医学書のほか、句集『春潮集』(1932年)がある。現在、九大医学部内には「久保記念館」があり、貴重な医学博物館として利用され、また彼の自作の短歌「霧ふかき南独逸の朝の窓おぼろにうつれ故郷の山」を刻んだ歌碑も建立されている。
 彼の妻は、愛媛県松山市生まれの久保より江(くぼ・よりえ、1884−1941)。彼女は松山で過ごした幼少の頃、折から旧制松山中学の英語教師として赴任していた夏目漱石との交流もあり、成長して文学世界に親しむ少女となった。1899年、上京し、東京府立第二高等女学校を卒業。まもなく久保猪之吉と結婚した。文学に親しむ二人の福岡市内の家は、文化人の集まるサロンの様相を呈し、1913年(大正2年)、二人は大学の教職員や学生らと文芸雑誌「エニグマ」を創刊した。同誌には、久保猪之吉・より江夫妻のほか、加藤介春・若山牧水・柳原白蓮らも寄稿している。久保より江は俳誌「木犀」(福岡市)を主宰する清原拐童に師事し、のち高浜虚子にも教えを受けた。句集『嫁ぬすみ』(1925年)『より江句文集』(1928年)がある。

筑紫の女王―柳原白蓮
 柳原白蓮(やなぎはら・びゃくれん、1885−1967)は、東京の伯爵家の生まれ。本名はY子(あきこ)。大正天皇とは従兄妹にあたる。最初の結婚生活6年で離婚したあと、1911年(明治44年)、穂波郡幸袋(こうぶくろ、現在の飯塚市)に住む筑豊の炭鉱王・伊藤伝右衛門のもとに嫁いだ。伝右衛門は、彼女のために福岡市内に銅葺きの宏壮な邸宅を用意し、この邸宅を人びとは赤銅御殿(あかがねごてん)と呼んだが、また大分県別府にも豪華な別荘を用意し、白蓮はもっぱら福岡か別府で過ごした。
 彼女は佐々木信綱門下の歌人であり、この福岡時代に歌集『踏絵』(1915年)、歌集『幻の華』(1919年)、詩集『几帳(きちょう)のかげ』(1919年)を刊行した。一方、1918年(大正7年)、「大阪朝日新聞」(現在の「朝日新聞」)が「筑紫の女王Y子」というタイトルで彼女の数奇な運命をスキャンダラスな連載記事にし、悲劇の女性歌人として全国的に有名になった。やがて彼女は、夫の旧弊な人柄に耐えきれず、アジア主義者の宮崎滔天(みやざき・とうてん)の息子で新聞記者の宮崎龍介と恋愛関係におちいり、1921年(大正10年)、突然に失踪して恋の逃避行に走ったため、またも世間は「世紀の恋」とスキャンダラスに騒いだ。白蓮の福岡時代の作品は『筑紫集』(1928年)にまとめられている。

>柳原白蓮 ★顔写真
>赤銅御殿
 福岡市中央区天神三丁目にあった赤銅御殿は1927年(昭和2年)に漏電で焼失し、現在は残っていない。飯塚市の幸袋工作所のクラブハウス「本町クラブ」(飯塚市幸袋本町)は、かつて伊藤伝右衛門の本邸として使用されていた。敷地は1500坪(約5000平方メートル)、建坪は280坪(約920平方メートル)、純和風の建物だが、内装は近代的に装飾もこらされている。屋敷の二階東端が白蓮の部屋だったという。屋敷の正面には大きな門があり、この門が火事で焼失を免れた天神の赤銅御殿の門を移築したものである。「本町クラブ」は特別の場合を除いて一般公開されていない。★本町クラブの写真

「九州日報」の逸材―福本日南、加藤介春
 1942年(昭和17年)まで福岡県下の新聞には、「福岡日日新聞」と「九州日報」という有力な二紙があった(ただし、このほかに「門司新報」とか「柳河新報」など小さな新聞はいくつもあった)。いずれも現在の「西日本新聞」の前身で、戦争中の政府による新聞統合指導により新聞は一県一紙に統合されたのだった。これ以前、「福岡日日新聞」は政治結社「政友会」系の新聞、「九州日報」は政治結社「玄洋社」系の新聞として、ライバル関係にあった。「九州日報」の第二代目の社長は福本日南(ふくもと・にちなん、1857−1921)で、彼は福岡市内に生まれ、1889年(明治22年)、陸羯南(くが・かつなん)・古島一雄らと新聞「日本」を創刊し、当時の日本社会の安易な西洋化を批判した。彼の著『元禄快挙録』(1909年)は明治期の史伝中の傑作とされるが、これは彼が九州日報社に在任中に「九州日報」紙上に連載したものであった。
 詩人の加藤介春(かとう・かいしゅん、1885−1946)は田川郡赤池町の生まれ。上京して野口雨情・山村暮鳥らと口語自由詩運動を展開したが、やがて帰郷し、1910年(明治43年)、九州日報社に入社した。1912年(明治45年)、「九州日報」紙上に連載したルポルタージュ「九大生の恋」で筆禍事件に遭い、未決囚として拘置された獄中体験をもとに第一詩集『獄中哀歌』(1914年)を出版した。以後、『梢を仰ぎて』(1915年)『眼と眼』(1926年)などの詩集を刊行し、詩人として注目された。一方、新聞人として地方文壇の育成にも力をそそぎ、1929年(昭和4年)、福岡日日新聞社に移籍してからも福岡県内に在住する文化人たちの精神的支柱となった。

反骨のジャーナリスト―菊竹六皷
 六皷(ろっこ)・菊竹淳(きくたけ・すなお、1880−1937)は、浮羽郡吉井町の生まれ。旧制の吉井小学校から県立中学明善校、東京専門学校(現・早稲田大学)英語政治科へ進み、卒業後、帰郷して福岡市内の福岡日日新聞社(西日本新聞社の前身)に入社した。以後、34年間、同社に勤務し、編集局長・主筆を歴任。反骨のジャーナリストとして、その生涯を生きた。彼の勇名を一躍高めたのは、1932年(昭和7年)、軍部による5・15事件(陸海軍の青年将校らがクーデターを企て犬養毅首相を射殺した)が起きたとき、「首相兇手(きょうしゅ)に斃(たお)る」、「敢(あえ)て国民の覚悟を促す」などといった記事や論説を発表し、敢然と軍部を批判したことによる。ために軍部からの圧力がかかり、新聞社が爆破されるとの噂もとんだというが、全社をあげてこれに抵抗し、その反骨の姿勢をまげなかった。軍部の圧力に屈しなかった日本のジャーナリストとして、「信濃毎日新聞」の桐生悠々と並び称せられている。現在、郷里の吉井町には「菊竹六皷記念館」がある。

被差別部落解放の父―松本治一郎
 松本治一郎(まつもと・じいちろう、1887−1966)は被差別部落の解放の父として慕われている。彼は1887年(明治20年)、那珂郡金平村(現在の福岡市)に生まれた。住吉高等小学校卒業後、京都や東京に遊学し、さらに中国各地を転々として、日本帝国主義の民衆支配の悲惨な実態を知った。日本領事館より強制送還され、帰郷して家業の土木建設業を手伝いながら、被差別部落解放団体「大容社」を組織した。1922年(大正11年)、全国水平社が結成されると、翌年、全九州水平社を組織し、1925年(大正14年)には全国水平社の中央委員会議長に就任した。1936年(昭和11年)、衆議院議員に出馬し、当選。戦後は日本社会党の結成にも参加し、1947年(昭和22年)、参議院議員に当選。参議院の初代副議長となった彼は、それまでの慣行であった天皇への「カニの横ばい」式の拝謁を拒否し、次の国会からはこれを改めさせた。一貫して差別撤廃を主張し、大きな功績があった。アジア民族親善協会を設立し、また日中友好協会の初代会長、世界平和評議会などの日本代表を歴任し、「世界の水平運動」を提唱した。

>「カニの横ばい」式の拝謁
 戦前の帝国憲法の下、現人神(あらひとがみ)である天皇に拝謁する際、横向きの姿勢を見せるのは不敬にあたるとの考えから、天皇の前に出るときはカニのように横歩きして進み、天皇の前に立つ習慣が国会では続けられていた。

怪物親子―杉山茂丸、夢野久作
 福本日南の後任として九州日報社長を継いだのは杉山茂丸(すぎやま・しげまる、1864−1935)であった。杉山茂丸は政治結社「玄洋社」系の言論家であり、伊藤博文や頭山満らとも親しく、政界の陰の策士としてスケールの大きい自由な生涯を送った。彼はまた、小説も手がけ、『乞食の勤王』(1911年)や『百魔』(1926年)などの著作がある。
 この杉山茂丸の長男が、探偵小説作家として有名な夢野久作(ゆめの・きゅうさく、1889−1936)である。本名は杉山泰道。県立中学修猷館を卒業し、慶応大学に入学したが、父親の命令で退学。帰郷して、家業の農園の経営にたずさわったり、僧侶になったり、謡曲の教授や「九州日報」の記者になったりしたが、大正時代の終り頃から探偵小説を書きはじめた。探偵小説雑誌「新青年」や地元の新聞紙を舞台に「押絵の奇蹟」「犬神博士」などを発表し、たちまち人気作家となった。1935年(昭和10年)、長篇小説『ドグラ・マグラ』を刊行し、彼の代表作となった。福岡市を舞台とし、大学の精神病治療をめぐる幻想的な心理ドラマであり、今後が期待されたが、翌年、47歳で急死した。近代日本文学には珍しいタイプの文学者として、今日高く評価されている。

>杉山龍丸と夢野久作 ★二人の顔写真&『犬神博士』『ドグラ・マグラ』の本の写真

熔鉱炉の火は消えたり―浅原健三
 浅原健三(あさはら・けんぞう、1897−1967)の名を一躍有名にしたのは、1920年(大正9年)、八幡製鉄所の大争議を指導した功績によってであった。彼は鞍手郡宮田町に生まれ、旧制嘉穂中学(現在の嘉穂高校)を中退後、数年炭鉱で働いた後、上京。1919年(大正8年)、日本労友会を結成した。翌年の八幡製鉄争議で検挙投獄されたが、出所後は北九州地区の鉄鋼組合、炭鉱夫組合の結成を支援した。八幡製鉄争議をルポした『熔鉱炉の火は消えたり』(1930年)を出版し、労働運動のヒーローとなったが、その後、転向して満州国協和会に参加し、政府・軍部と結んで活躍した。

>『熔鉱炉の火は消えたり』 ★本の写真

「天の川」系の俳人―吉岡禅寺洞、富安風生、横山白虹
 「天の川」は1918年(大正7年)に創刊され、戦争末期から戦後にかけて何度か中断はあったが、1961年(昭和36年)まで、全393号を発行した有数の俳句雑誌である。主宰は吉岡禅寺洞(よしおか・ぜんじどう、1889−1961)で、当初は高浜虚子の主宰するホトトギス系の俳誌であったが、昭和5年頃から禅寺洞は花鳥風月を趣旨とする伝統俳句の世界に飽きたらず、無季・自由律を主張する新傾向俳句へと接近し、以後、一貫して俳句の前衛的革新の立場を貫いた。禅寺洞は福岡市内箱崎に生まれ、句集『銀漢』(1932年)『禅寺洞句集』(1935年)などの句集を残した。
 「天の川」に参加した俳人の一人に富安風生(とみやす・ふうせい、1885−1979)がいる。彼は愛知県の生まれだが、東大卒業後、逓信省(現在の郵政省)に就職し、福岡為替貯金局に赴任した。ここで「天の川」に参加し、本格的に俳句の道に入った。彼は帰京後も俳句をつづけ、高浜虚子に師事して、ホトトギス派の代表的な俳人となった。
 北九州市小倉の開業医で俳人でもあった横山白虹(よこやま・はっこう、1899−1983)は、九州帝大医学部時代に「天の川」に参加し、昭和初年代頃には編集長をつとめたりしたが、1937年(昭和12年)、無季・自由律に方向転換した「天の川」を離脱し、新情緒主義を標榜する俳誌「自鳴鐘」を創刊した。句集に『海堡』(1938年)などがあり、晩年は現代俳句協会の会長をつとめた。

「木犀」と「木賊」―清原拐童、田中紫紅、河野静雲
 「天の川」に遅れること5年後の1923年(大正12年)、福岡市に二つの俳句雑誌が誕生した。一つは清原拐童(きよはら・かいどう、1882−1948)の主宰する「木犀(もくせい)」であり、もう一つは田中紫紅(たなか・しこう、1884−1955)の「木賊(とくさ)」である。清原拐童は1930年(昭和5年)、俳誌「ホトトギス」に参加したが、やがて朝鮮半島に渡り、木浦(もっぽ)の新聞社に入社し、当地の俳句の普及に貢献した。田中紫紅は「福岡日日新聞」の記者だが、中学明善校時代は伝習館の北原白秋と並び競う文才を発揮した。
 「木犀」に参加した俳人の一人に、河野静雲(こうの・せいうん、1887−1974)がいる。河野静雲は福岡市内の寺に生まれ、関東地方で住職などをつとめたあと帰郷し、俳句に励んだ。1930年(昭和5年)、「木賊」を継承し、その後、ホトトギス同人となった。1940年(昭和15年)、第一句集『閻魔』を出版し、戦後は太宰府に花鳥山仏心寺を創建して、俳句三昧の生活を送り、また後進の俳人を育成した。

女性俳人の輝き―杉田久女、橋本多佳子、竹下しづの女
 杉田久女(すぎた・ひさじょ、1890−1946)は鹿児島市の生まれだが、父親の転勤で沖縄、台湾、東京と移り住み、1907年(明治40年)、御茶水高等女学校を卒業。2年後、杉田宇内(すぎた・うない)と結婚し、同年、夫が旧制小倉中学の美術教師として赴任したのに伴い、小倉市(現在の北九州市の一部)に転居した。1917年(大正6年)、俳誌「ホトトギス」の「台所雑詠」欄にはじめて自作が掲載され、以後、当時流行していたイプセンの戯曲「人形の家」のヒロイン・ノラのように女性の自我を高らかに宣言する作風で評判となった。「足袋つぐやノラともならず教師妻」(1922年)などの作品が有名である。彼女は1932年(昭和7年)、女性だけの俳誌「花衣(はなごろも)」を創刊し、竹下しづの女、橋本多佳子、中村貞女らの作品も掲載し評判になったが、第5号で廃刊。1936年(昭和11年)、終生の師と仰ぐ高浜虚子から突然、吉岡禅寺洞・日野草城とともにホトトギス同人を除名された。理由は明らかではないが、この除名は彼女にはショックであったらしく、晩年は失意のうちに過ごした。1945年、筑紫保養院に入院し、翌年、腎臓病の悪化のため没した。高浜虚子の小説「国子の手紙」(1948年)、松本清張の小説「菊枕」(1953年)、田辺聖子の評伝小説『花衣ぬぐやまつわる…』(1990年)などは、いずれも彼女の生涯をモデルにしている。
 橋本多佳子(はしもと・たかこ、1899−1963)は東京の生まれだが、結婚後、1919年(大正8年)から10年間、北九州市小倉に住んだ。彼女の夫・橋本豊次郎は小倉北区中井浜の海の見える高台に豪華な三階建ての西洋館「櫓山荘(ろざんそう)」を建て、ここを文化人たちの集まるサロンとしたので、多くの文化人が訪れた。ことに1922年(大正11年)には、高浜虚子が長崎旅行の帰途、ここに立ち寄り、彼を囲んで句会が催された。その中に杉田久女が参加しており、これをきっかけに多佳子は近くに住む久女の手ほどきを受けて俳句の創作を始め、やがてその才能を開花させていった。多佳子は1929年(昭和4年)、大阪の帝塚山に転居。小倉時代の作品には、「窓の海今日も荒れゐる暖炉かな」などがある。その後、多佳子は山口誓子に師事し、俳誌「馬酔木」、「天狼」に参加。「いなびかり北よりすれば北を見る」などの佳句を残した。なお、図録「杉田久女と橋本多佳子展」(北九州市教育委員会、2000年)が豊富な写真と簡潔な記述で二人の生涯を素描している。
 行橋市に生まれた竹下しづの女(たけした・しづのじょ、1887−1951)は、1919年(大正8年)、吉岡禅寺洞に師事して句作を始め、翌年、「ホトトギス」の巻頭に掲げられた一句で注目を浴びた。「短夜(みじかよ)や乳(ち)ぜり泣く児(こ)を須可捨焉乎(すてっちまおか)」、――万葉仮名を用い、女性の自我の叫びを表現したこの俳句は、当時の俳壇に清新な衝撃を与えた。橋本多佳子は後年、しづの女を追悼した文章のなかで、「杉田久女、久保より江、竹下しづの女、この三人は現代女流俳人には忘れられない人達であろう。(略)私が俳句を知り初めた大正の末から昭和初年にかけてこの人達の活躍はめざましく輝かしいものであった」と回想している。

雀の俳人―木村緑平
 放浪の俳人・種田山頭火の親友であり、三池や筑豊の炭鉱で医者をしていた木村緑平(きむら・りょくへい、1888−1968)は、三瀦(みずま)郡浜武村(現在の柳川市)の生まれで、中学伝習館をへて長崎医学専門学校を卒業し、新傾向俳人の荻原井泉水に師事した。緑平は山頭火と親しく交わり、また、こよなく雀を愛した。句集に『枇杷の実』(1926年)『太陽の近くに移る』(1928年)などのほか、『雀のゐる窓』(1933年)『雀ノ子』(1941年)『雀の言葉』(1958年)『雀の生涯』(1968年)など雀を題したものが多い。優しくのどかな口語自由律の句風で、「雀生れてゐる花の下をはく」「スズメとならくらせるハコベの花さく」などの句があり、その生涯の軌跡は、瓜生敏一の評伝『妙好俳人緑平さん』(1973年)に詳しい。

>山頭火漂泊の道 ★写真
 糸田町は山頭火と木村緑平の交流ほ記念し、町の中心部にある皆添橋に俳句のレリーフを設置し、ここから木村緑平旧居に通じる道路を整備している。

短歌の水脈―鹿児島寿蔵、大坪草二郎、花田比露志、持田勝穂
 素朴で独特な愛嬌のある紙塑人形(しそにんぎょう)で人間国宝になった鹿児島寿蔵(かごしま・じゅぞう、1898−1982)は、また有名な俳人でもあった。彼は福岡市の生まれ。1913年(大正2年)、福岡高等小学校を卒業後、井上地理歴史標本製作所に入り、ついで有岡米次郎に弟子入り。人形製作で身を立てる決心をし、また短歌に親しんだ。大正時代の中頃まで地元で「みなと」「ハカタ」「南方芸術」などの同人誌活動をつづけ、1918年(大正7年)秋、彫刻の勉強を志して上京。1920年(大正9年)、歌誌「アララギ」に入会。1933年(昭和8年)、日本紙塑芸術研究所を設立し、また野口光彦・堀柳女らと人形美術団体「甲戌会(こうじゅつかい)」を結成し、翌年、第1回甲戌会展を開催。1936年から紙塑人形の販売を開始し、1939年、人形芸術院賞を受賞した。1941年、歌集『新冬』『朝汐』を出版。戦後は、アララギ系の歌誌「朝汐」を創刊主宰し、1961年、紙塑人形で重要無形文化財保持者に選ばれた。歌壇と工芸美術という二つの世界で第一級の活躍を示した。
 大坪草二郎(おおつぼ・そうじろう、1900−1954)は朝倉郡秋月(現在の甘木市)の貧しい農家に生まれ、小学校卒業後、役場の給仕、八幡製鉄所の火夫見習い、炭鉱夫などをしたあと、21歳で上京した。短歌は「アララギ」に参加して島木赤彦の指導を受け、また戯曲・小説・大衆読み物なども手がけ、『短歌初学』(1939年)『良寛の生涯とその歌』(1939年)など数多くの著書がある。
 松田常憲(まつだ・つねのり、1895−1958)は大坪草二郎と同じ秋月の旧藩士の家に生まれた。県立朝倉中学を卒業後に上京し、國學院大學高等師範部を卒業した。以後、教員生活をつづけながら、歌誌「水甕(みずがめ)」に参加し、やがてその編集の中心に関わった。第一歌集『ひこばえ』(1926年)以下、多数の著書があり、晩年は長歌に新生の境地を開き、『長歌自叙伝』(1954年)『続長歌自叙伝』(1958年)を刊行した。
 花田比露志(はなだ・ひろし、1882−1967)は朝倉郡安川村(現在の甘木市)の生まれで、京都帝大を卒業後、新聞記者をへて大学の教員になった。正岡子規の短歌に傾倒し、1915年(大正4年)、歌誌「潮騒」(のち「しほさゐ」と改題)を創刊した。歌集に『さんげ』(1921年)、歌論集に『歌に就ての考察』(1924年)などがある。
 持田勝穂(もちだ・かつほ、1905−1995)は福岡市の生まれで、短歌は北原白秋に師事した。白秋主宰の歌誌「多磨」同人となり、同誌の終刊後は、同じく白秋門下の木俣修が主宰する「形成」に参加した。西日本新聞社に長く勤務し、歌集に『雲表』(1946年)『海光』(1948年)などがある。

花の命は短くて―林芙美子
 林芙美子(はやし・ふみこ、1903‐1951)は『放浪記』(1930年)でデビューした。当時で60万部も売れたというのだから、大ベスト・セラーである。行商人の父母に連れられて直方・筑豊一帯を歩きまわった幼少時代から書きはじめ、広島県の尾道高等女学校を卒業して上京し、カフェの女給や事務員などをしながら詩や童話に心をなぐさめていた下積みの生活の日々を日記体の小説にまとめたものであった。『放浪記』中に「私が生れたのはその下関の町である」と書かれていることから、従来は出生地は下関市とされてきたが、近年の研究によると門司が正しいという。彼女の母親の故郷である鹿児島市内には、「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき」と刻んだ有名な文学碑があり、また1981年には福岡県直方市の須崎町公園内にも文学碑が建立された。碑文には『放浪記』の一節から、「私は古里を持たない 旅が古里である」と刻まれている。

わらべごころ―阿南哲朗
 2002年春、北九州市小倉北区に市営「到津(いとうづ)の森公園」が開園した。前身は2000年に閉園した西日本鉄道褐o営の「到津遊園」。この到津遊園の名物園長だったのが阿南哲朗(あなん・てつろう、1903‐1979)である。彼は大分県の生まれだが、一家して小倉市に移り住み、小倉高等簿記学校(現在の九州経理専門学校)を卒業後、九州電気軌道梶i西日本鉄道の前身の一つ)に就職。詩誌「揺藍(ようらん)」の編集に携わり、また野口雨情に私淑して民謡童謡運動に参加した。1932年(昭和7年)、到津遊園設立に際して企画運営を担当し、以後、彼の人生は童心の育成と地域文化の向上に捧げられた。退職後、童話『よるの動物園―ほんとうにあった話』(1969年)を上梓。これはのち、絵本版全4冊としても刊行された。他に詩集『石に響く』(1928年)『あのうたこのうた―阿南哲朗童謡民謡集』(1963年)『詩と笛―阿南哲朗回想詩集』(1971年)『寄せてかえして―詩・民謡・童謡・校歌集』(1979年)などがあり、北九州教育委員会編の図録「阿南哲朗とみずかみかずよ」(1998年)がある。

>到津遊園 または 到津市民の森 ★写真

麦と兵隊―火野葦平、玉井政雄
 北九州市の若松の石炭仲士「玉井組」の親分・玉井金五郎の長男に生まれた、無名の文学青年・火野葦平(ひの・あしへい、1907−1960)が一躍脚光を浴びたのは、久留米市で矢野朗(やの・ろう)の主宰する文芸同人誌「文学会議」第4号に発表した小説「糞尿譚(ふんにょうたん)」(1937年)が第6回芥川賞を受賞したときである。当時、彼は応召して中国・杭州の戦地におり、兵隊作家の受賞と話題になった。これを機に火野葦平は陸軍報道部に転属となり、徐州会戦の従軍ルポルタージュ『麦と兵隊』を発表するや、爆発的な人気を呼び、同じシリーズで『土と兵隊』『花と兵隊』を書きついで、いわゆる兵隊三部作を完成させた。日中戦争から太平洋戦争に向かう激動の時代のなかで、彼はあくまで庶民の立場、一人の兵隊の立場にたって、ペンを動かしつづけたのだった。戦後、彼は文学者の戦争責任を問われたが、エッセイ「悲しき兵隊」(1945年)などで、自分たちが戦った戦争はたしかに愚劣なものであったと認めつつ、それでもなお一人の兵隊の国を思う純情な心根にまちがいはなかったと主張しつづけた。なお、火野葦平は戦争文学だけを書いたわけでなく、詩集『山上軍艦』(1937年)『青狐』(1943年)の詩人であり、また自伝的小説『青春と泥濘(でいねい)』(1950年)や、大衆小説『花と竜』(1953年)の作家でもあった。むしろ彼の本来の才能は、戦争文学よりもエンタテイメントの分野にあったと思われる。1960年(昭和35年)、敗戦前後の動乱の時代を描いた長篇『革命前後』(1960年)を上梓し、催眠薬自殺した。若き日に彼が親しんだ芥川龍之介が自殺した日(1月24日)と同じ日であった。
 火野葦平の実弟が玉井政雄(たまい・まさお、1910−1984)である。戦争中は兄・火野葦平と同様に、戦地での兵隊の奮闘ぶりを描き、『兵隊の花園』(1941年)などを上梓。戦後はながく地方文化の育成に貢献し、『九州郷土夜話』(1979年)『兄・火野葦平私記』(1981年)などの著書を残した。
 現在、北九州市若松区には「火野葦平資料館」があり、火野の遺品、著書などの諸資料を常時展示。また、旧居も市指定文化財「河伯洞」として保存公開し、葦平研究誌「あしへい」を定期刊行している。

>河伯洞 ★建物の写真と雑誌「あしへい」の写真

「九州文学」の作家―岩下俊作、劉寒吉、矢野朗、長谷健、林逸馬、原田種夫、山田牙城、東潤
 火野葦平の文学仲間は、1938年(昭和13年)に創刊された文芸誌「九州文学」の同人たちであった。1943年(昭和18年)、映画「無法松の一生」が伊丹万作のシナリオと阪東妻三郎の主演で大ヒットしたが、原作者は岩下俊作(いわした・しゅんさく、1906−1980)、原題は「富島松五郎伝」で、直木賞候補作であった。
 劉寒吉(りゅう・かんきち、1906−1986)は戦前、岩下俊作らと詩誌「とらんしっと」を創刊し、ついで「九州文学」の創刊に参加した。『山河の賦(ふ)』(1942年)『黒田騒動』(1970年)などの著書があり、直木賞などの候補にも挙げられた。
 義太夫節が上手で酒豪で有名なのが矢野朗(やの・あきら、1906−1959)である。『肉体の秋』(1940年)『神童伝』(1946年)などの小説集があり、火野葦平は面白半分に彼の死後の戒名を「麦酒院頑固恐妻居士(びーるいんがんこきょうさいこじ)」と名づけた。 同じく火野葦平によって「豆腐院此処何処白漠居士(とうふいんここはどこしらばくこじ)」と戒名をつけられたのが、柳川出身で、『あさくさの子供』(1940年)で第9回芥川賞を受賞した長谷健(はせ・けん、1904−1957)である。彼は豆腐が大好物で、酒を好み、酔うと、ここはどこだ、と口走り、友人に会うと「しばらく」でなく、わざと「しらばく」と呼びかけていたというのである。1957年(昭和32年)、交通事故で死亡した。
 林逸馬(はやし・いつま、1903−1972)は三井郡の生まれで、旧制福岡高校から東大に進学し、卒業後は帰郷して福岡日日新聞社(西日本新聞社の前身の一つ)の記者となった。筑後川の治水の歴史を描いた長篇小説『筑後川』(1943年)が代表作である。
 原田種夫(はらだ・たねお、1901−1989)は福岡市の生まれで、「九州文学」と長くかかわり、戦後は創作のかたわら、『西日本文壇史』(1958年)『実説・火野葦平―九州文学とその周辺』(1961年)などの文学史関係の仕事に精力を注いだ。第一創作集『風塵(ふうじん)』(1941年)をはじめ、著書は多く、『原田種夫全集』全5巻がある。
 山田牙城(やまだ・がじょう、1902−1987)と東潤(ひがし・じゅん、1903−1977)は、「九州文学」グループの二大詩人である。山田牙城は『死と絶望の書』(1931年)『十二月の歌』(1935年)『愛国歌』(1944年)などの詩集があり、また、東潤は『あどばるうん』(1935年)『土語』(1946年)などの詩集がある。

「こをろ」とその周辺―矢山哲治、真鍋呉夫、島尾敏雄、庄野潤三、松原一枝
 1939年(昭和14年)、詩人の矢山哲治(ややま・てつじ、1918−1943)を中心に、福岡在住の若い世代の文学青年たちが同人誌「こをろ」を創刊した。旧制福岡高校の出身者と長崎高等商業学校の出身者、および福岡商業学校の出身者がメンバーの大半を占めている。
 矢山哲治は県立中学修猷館から旧制福岡高校をへて九州帝大農学部に入学した。旧制福高時代は文芸部に所属し、文学仲間たちと詩や小説の創作に熱中した。第二期「九州文学」(福岡市)の創刊に参加したが、同誌の古くさい土着的な雰囲気に飽きたらず、若い世代の清新な感性がつどう雑誌の創刊を企画し、「こをろ」を創刊した。彼は「こをろ」同人を「友達」と呼び、その全人間的な結びつきを尊重した。第一詩集『くんしょう』(1938年)以下、『友達』(1940年)『柩(ひつぎ)』(1941年)と、計3冊の詩集を上梓し、また小説も書いたが、1943年(昭和18年)、自宅近くの線路で電車に轢かれて死亡した。
 彼をよく知る松原一枝(まつばら・かずえ、1916− )は後年、評伝小説『お前よ美しくあれと声がする』(1970年)を書き、矢山の青春の軌跡を伝えている。松原一枝はこの本によって田村俊子賞を受賞した。彼女は山口県の生まれだが、中国大連に育ち、福岡女子専門学校(現在の福岡女子大学)に入学。福岡市に住んだ。「こをろ」創刊直前に一家は東京に引っ越し、彼女も福岡を去り、戦後はながく大蔵省に勤務。現在も東京に暮らし、作家活動を続けている。著書に『ふるさとはねじあやめ咲く』(1942年)『藤田大佐の最後』(1972年)『今日よりは旅人か』(1985年)などがある。
 矢山哲治とともに「こをろ」創刊に中心的な役割を果たしたのは真鍋呉夫(まなべ・くれお、1920− )であった。福岡市に育ち、福岡商業学校を卒業。「こをろ」創刊に際しては、発行所を自宅に置き、同誌に小説を発表。中核同人の一人として貢献した。父・甚兵衛と母・オリがそれぞれ天門(てんもん)・織女(おりじょ)と号する俳人であったことから、俳句の創作も試み、小型の和本仕立ての句集『花火』(1941年)を自費出版した。戦争中は陸軍兵として大分県海上の無人島で警備にあたり、敗戦で帰郷。戦後、北川晃二と一緒に文芸誌「午前」の編集に携わり、同郷の檀一雄を頼って上京。第一創作集『サフォ追慕』(1949年)を出版し、新進作家として注目された。その後、小説家・俳人として活躍。創作集『二十歳の周囲』(1949年)には、「こをろ」グループの青春のひとこまが抒情的に描かれている。
 島尾敏雄(しまお・としお、1917−1986)は、横浜市の生まれだが、長崎高等商業学校を卒業したあと九州帝大に進学した。誘われて「こをろ」に参加し、1943年(昭和18年)、九大を繰り上げ卒業して海軍に入隊し、特攻艇の隊長として奄美群島の加計呂麻島で敗戦を迎えた。戦後は『単独旅行者』(1948年)『贋学生』(1950年)などの著書で注目を浴びた。上京後、戦争中の奄美で知り合って結婚した妻・ミホが神経を病み、妻の郷里の奄美に戻って、『死の棘』(1977年)などの作品を書き継いだ。
 島尾敏雄は九大時代、法文学部の東洋史学科を専攻した。一級下に、のちに作家となる庄野潤三(しょうの・じゅんぞう、1921− )がいた。庄野は大阪の生まれで、「こをろ」同人ではないが、彼の小説『前途』(1968年)には、福岡市内を舞台に戦時下の青春の息吹が描かれている。
 島尾敏雄と長崎高商・九州帝大で一緒だったのが、俳人の森澄雄(もり・すみお、1919− )である。彼は兵庫県の出身だが、まもなく一家は長崎市に引っ越した。九大卒業後は出征。戦後の一時期、佐賀県立鳥栖高等女学校に英語教師として勤めたあと、上京した。第一句集は『雪櫟(ゆきくぬぎ)』(1954年)。俳誌「雪嶺」を創刊するなど、戦後俳句の第一人者の一人となった。

>こをろ ★同人の集合写真

旧制福高出身の詩人―那珂太郎、伊達得夫
 詩人の那珂太郎(なか・たろう、1922− )は福岡市の生まれ。本名は福田正次郎。福岡中学(現在の福岡高校)をへて、1938年、旧制福岡高等学校に入学した。同級生に旧朝鮮(現在の韓国)の釜山に生まれた伊達得夫(だて・とくお、1920−1961)がいた。伊達得夫は戦後、出版社・書肆(しょし)ユリイカを創業し、詩書の出版や詩誌「ユリイカ」を発行するなど、戦後出版史上に残る良心的な仕事をした。出版社の運営は当初からうまくいったわけではなかったようで、会社がつぶれそうになったとき、最後の記念にと、伊達は旧友の那珂太郎の第一詩集『ETUDE』(1950年)を出版したところ、これが売れて詩書中心の出版に転じ、経営も好転したという。那珂太郎はその後、詩集『音楽』(1965年)で読売文学賞を受賞するなど、第一級の詩人として評価された。故郷を題材にした詩集に『はかた』(1975年)があり、また随筆集に『はかた幻像』(1986年)などがある。

>書肆ユリイカ ★写真

「文化展望」と「午前」―大西巨人、北川晃二、檀一雄
 敗戦の翌年、福岡市に二つの文芸誌が誕生した。「文化展望」(三帆書房)と「午前」(南風書房)である。
 「文化展望」は市内の美帆醤油の若主人・宮崎宣久(みやざき・のぶひさ、1914−1992)が資金を提供し、映画雑誌「映画展望」とともに創刊した商業誌であった。編集を担当したのは、福岡市に生まれた大西巨人(おおにし・きょじん、1919− )である。本名は巨人(のりと)。彼は旧制小倉中学に入学後、福岡中学に転校し、同校を卒業後、旧制福岡高等学校に入学。その後、九州帝大に進学したが、中退し、毎日新聞西部本社に就職した。やがて応召し、長崎県の対馬の陸軍の連隊で敗戦を迎えた。1952年(昭和27年)、上京し、壮大な構想のもとに自身の戦争体験をモデルに長篇小説『神聖喜劇』全5巻を書きあげた。
 「午前」の刊行資金を提供したのは市内の出版社・惇信堂(じゅんしんどう)で、子会社の南風書房(なんぷうしょぼう)を設立し、編集を北川晃二(きたがわ・こうじ、1920−1994)に依頼した。誌名は、詩人の立原道造がかつて創刊を計画した雑誌名を借用して「午前」とした。北川晃二は西南学院の出身。創作集『逃亡』(1948年)を上梓して注目された。いったん上京したが、やがて帰郷し、その後は長く地元の夕刊フクニチ新聞社に勤務し、また文芸誌「西域」「季刊午前」などを創刊し、後進の作家の育成につとめた。
 「午前」を側面から支援した一人が檀一雄(だん・かずお、1912−1976)である。彼は山梨県で生まれたが、郷里は福岡県の柳川市。旧制福高を卒業して東大国文科に入学し、太宰治らと知り合って文芸誌「日本浪曼派」に参加した。第一創作集『花筐(はながたみ)』(1937年)を上梓し、そのロマン主義的な青春の抒情が高く評価された。戦後、夫人の律子が結核で死亡し、遺児の太郎を抱えて福岡にしばらく滞在した。その後、上京し、『リツ子・その愛』『リツ子・その死』(1950年)を出版。1951年(昭和26年)、「長恨歌」「真説石川五右衛門」で第24回直木賞を受賞した。死の間際、連作長篇『火宅の人』(1976年)を完成させ、読売文学賞・日本文学大賞を受賞した。晩年は博多湾上の能古島(のこのしま)に単身転居し、自宅を「月壺洞」と命名して地元の文学愛好者らと交遊して過ごしたが、癌に冒され九大附属病院で死去した。現在、能古島には妻・律子の終焉の地・糸島半島を見渡す高台に文学碑が建立されており、碑文には絶筆「もがり笛いく夜もがらせ花ニ逢はん」が刻まれている。

>「午前」 ★創刊号の写真
>檀一雄文学碑 ★写真
 檀一雄文学碑は「のこのしまアイランドパーク」の入り口まで行き、そこから5分くらい反対側の森の中に入った場所にある。毎年、五月の第三日曜日には文学碑前で生前の彼をしのぶ「花逢忌(かおうき)」も催されている。また、能古島の船着場近くには生前の彼が住んだ家も残されている。小さな案内標識を辿って見学してみるのも楽しい。なお、檀一雄の墓は柳川市内の古刹(こさつ)福厳寺(ふくごんじ)にあり、モダンのデザインの墓が建てられている。

久留米抒情派―丸山豊、野田宇太郎、安西均、川崎洋、松永伍一
 1947年(昭和22年)、久留米市で詩誌「母音(ぼいん)」が創刊された。主宰は丸山豊(まるやま・ゆたか、1915−1987)で、彼は戦前から久留米で野田宇太郎(のだ・うたろう、1908−1984)らと詩誌を発行し、詩集『玻璃(はり)の乳房』(1939年)『白鳥』(1938年)などをもつ詩人であった。戦争中、彼は軍医として応召し、ビルマ・タイ国境線上で敗戦を迎えた。この折の体験を彼は後年、散文集『月白の道』(1970年)としてまとめているが、郷里に復員した彼は、「詩人のいのちとするあのみずみずしい母音と抒情的な予感の力」を失うまいと、詩誌の発刊を思い立ったのであった。「母音」には気鋭の詩人たちが結集し、安西均・一丸章・伊藤桂一・谷川雁・高木護・森崎和江・野田寿子・川崎洋・松永伍一・有田忠郎らの作品が掲載されている。
 野田宇太郎は三井郡立石村(現在の小郡市)の生まれ。1940年(昭和15年)に上京し、文芸誌「文芸」の編集長になっていた。彼には詩集『旅愁』(1942年)『感情』(1946年)があり、戦後は雑誌「芸林間歩(げいりんかんぽ)」を創刊し、また文学者の事跡を現地探訪する〈文学散歩シリーズ〉で名声を博した。1976年(昭和51年)、芸術選奨文部大臣賞を受賞した。郷里の小郡市に「野田宇太郎文学資料館」があり、著書・旧蔵書・遺品などを展示所蔵している。
 安西均(あんざい・ひとし、1919−1994)は筑紫郡の生まれで、福岡師範学校を中退して上京。朝日新聞社に入社し、西部本社勤務となって帰郷した。1950年(昭和25年)、転勤で上京し、第一詩集『花の店』(1955年)をはじめ、数多くの詩集やエッセイ集を出版した。
 川崎洋(かわさき・ひろし、1930− )は東京生まれだが、戦時中に福岡県に疎開し、旧制八女中学から西南学院専門学校英文科(現在の西南大学)に入学した。その後、父親の死により中退。上京して横須賀米軍基地で働いた。第一詩集『はくちょう』(1955年)は、ひらがな書きを多用し、ことばのもつ透明な感覚を抒情的に表現している。
 松永伍一(まつなが・ごいち、1930− )は川崎洋と中学の同級生で、誘われて「母音」に参加した。三瀦郡に生まれ、戦後は郷里で中学の国語教師をしていたが、1957年(昭和32年)に上京した。詩集に『青天井』(1954年)『くまそ唄』(1959年)などがあるが、やがて活動の拠点を評論の分野に移し、『底辺の美学』(1966年)『日本農民詩史』(1967−1970年)などの仕事を手がけた。自伝エッセイに『有明海』(1971年)『生きること書くこと』(1984年)などがある。

>詩誌「母音」 ★復刻版「母音」の写真
>野田宇太郎文学資料館 ★建物の写真
 小郡市の市制15周年を記念して「小郡市文化会館」(小郡市大板井136の1)が建設され、隣接して「野田宇太郎文学資料館」が併設された。野田宇太郎は昭和56年1月30日付「遺言」に、「一、わたくしは生涯の文学者で私財などの蓄へは人道主義者として持ち得ない。(略)一、わたくしが所有する文学者その他の書籍資料は一個人のものでなく、いはば国の文化財そして公共のために永久に保存すること、そのためには適当な方法を講ずべし、決して金銭に代ふるべからず、故郷に財団法人の資料館をつくり、少しでも日本文化のため役立つやうに努力すべし。(略)」と書き残している。この故人の遺志を受けて資料約3万点の寄付を受け、保存公開されている。

サークル村―谷川雁、上野英信、森崎和江
 1958年(昭和33年)、「全九州サークル交流のための会員誌」と銘打った雑誌が創刊された。「サークル村」である。「一つの村を作るのだと私たちは宣言する」、と創刊号の巻頭に置かれた「創刊宣言」は書き出されている。「奇妙な村にはちがいない。薩南のかつお船から長州のまきやぐらに至る日本最大の村である」。この「村」の結成は、筑豊の炭鉱地帯に住みついて炭鉱闘争を実践する谷川雁、上野英信、森崎和江らがよびかけたものだった。
 谷川雁(たにがわ・がん、1923−1995)は熊本県水俣市の生まれだが、戦後、西日本新聞社に入社し、レッド・パージで同社を去ったあと、筑豊の炭鉱闘争に参加し、上野英信らとサークル村を組織した。詩集に『大地の商人』(1954年)『天山』(1956年)があり、また評論集に『原点が存在する』(1958年)などがある。彼の立場は、知識人に対しては大衆として立ち向かい、大衆に対しては知識人の姿勢をとるというもので、このような存在を彼は〈工作者〉と名づけた。
 上野英信(うえの・えいしん、1923−1987)は山口県の生まれだが、幼い時に八幡市(現在の北九州市)に引っ越し、京都大学中退後、筑豊炭鉱の坑夫となった。1953年(昭和28年)、筑豊炭坑労働者工作集団を結成し、機関誌「地下戦線」を発行した。また、坑夫の千田梅二(1920−1997)の木版画と組み合わせたガリ版刷り創作民話集『せんぷりせんじが笑った!』(1955年)をつくり、さらに岩波新書『追われゆく坑夫たち』(1960年)『地の底の笑い話』(1967年)を出版し、筑豊炭鉱の実情を記録し、その不合理をひろく社会に告発した。
 森崎和江(もりさき・かずえ、1927− )は朝鮮慶尚北道の生まれ。福岡女子専門学校(現在の福岡女子大学)を卒業し、丸山豊の「母音」に参加し、ついでサークル村の活動に関わった。彼女の姿勢は、自分が旧植民地の支配者側の人間として生まれ育ったことへの心の痛み、社会の底辺で虐げられた人びとへの共感、生きとし生けるものへの愛につらぬかれ、著書に『まっくら―女坑夫からの聞き書き』(1961年)『闘いとエロス』(1970年)『からゆきさん』(1976年)などのほか、詩集に『さわやかな欠如』(1964年)などがある。

>サークル村 ★上野英信夫妻と谷川雁・森崎和江の四人の集合写真

戦後文学の旗手―梅崎春生、福永武彦、花田清輝
 梅崎春生(うめざき・はるお、1915−1965)は、自身の軍隊体験を小説化した「桜島」(1946年)で一躍注目を浴びた。彼は福岡市に生まれ、中学修猷館から熊本の第五高等学校をへて東大を卒業。応召して桜島で敗戦を迎えた。「桜島」についで「日の果て」(1947年)などの戦争小説を発表し、「ボロ家の春秋」(1954年)で直木賞を受賞した。
 福永武彦(ふくなが・たけひこ、1918−1979)は筑紫郡二日市町(現在の筑紫野市)に生まれ、小学校の途中で東京に引っ越した。1946年(昭和21年)、中村真一郎・加藤周一らと文芸誌「世代」を創刊し、また同じメンバーとフランス文学の素養を生かした共著『1946文学的考察』(1947年)および『マチネ・ポエティク詩集』(1948年)を出版して注目された。内省的・抒情的・思索的な小説が多く、原爆体験に呪縛された生の意味を問う長篇『死の島』(1971年)で日本文学大賞を受賞した。
 花田清輝(はなだ・きよてる、1909−1974)は、福岡市の生まれ。旧制福岡中学(現在の福岡高校)、第七高等学校(現在の鹿児島大学)をへて京都大学英文科に入学(のち中退)。戦時下の第一評論集『自明の理』(1941年)についで、戦後の『復興期の精神』(1946年)で、評論家としてデビューした。野間宏や佐々木基一らと連帯し、アプレ・ゲール(戦後派)文学、およびアヴァン・ギャルド(前衛派)の旗手として、文学はもとより、映画や演劇などの多方面にわたって活躍し、その老獪で先鋭な論評は高く評価されている。

海峡―後藤明生、小島直記、藤原新也
 後藤明生(ごとう・めいせい、1932‐1999)は植民地下の北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の生まれ。戦後、父親の郷里に近い甘木市に引き揚げて、旧制朝倉中学(現在の朝倉高校)を卒業。早稲田大学第二文学部に進学し、短篇小説「関係」(1962年)で文芸賞を受賞。同世代の古井由吉、高井有一、坂上弘らとあわせて〈内向の世代〉とよばれた。彼の作品は〈引き揚げ体験〉が深く反映しており、自己存在を〈漂着者〉と規定し、その存在の不確かさを存在論的に小説化した。
 小島直記(こじま・なおき、1919‐ )は八女郡福島町の生まれ。旧制福岡高等学校から東大経済学部に進学し、1943年(昭和18年)、繰り上げ卒業して陸軍経理学校に入学。敗戦後、郷里に戻り、八女津高等実修女学校や旧制八女中学(のち八女高校)の教師となった。また、第3期「九州文学」を主宰。1952年、上京し、作家生活に入った。『小島直記伝記文学全集』全15巻(1986―87年)がある。
 藤原新也(ふじわら・しんや、1944‐ )は写真家でエッセイストとして知られる。門司港の旅館業の家に生まれ、港を往き来する国内外のさまざまな人びとの姿を見て育ったといい、また高度経済成長期の日本列島破壊の様相も目に焼きつけた。東京芸術大学を中退し、アジア・ヨーロッパを放浪。帰国後、写真集『七彩夢幻』(1977年)で木村伊兵衛賞、『全東洋街道』(1981年)で毎日芸術賞を受賞。また、エッセイにも才能を発揮し、『東京漂流』(1983年)などがある。写真集『少年の港』(1992年)は後年の彼が、故郷の門司港を撮影したものである。

>門司港 ★現在の門司港レトロ計画の街並の写真

戦後俳句と現代短歌―野見山朱鳥、石田比呂志、山埜井喜美枝、阿木津英
 「曼珠沙華散るや赤きに耐へかねて」、―俳人の野見山朱鳥(のみやま・あすか、1917−1970)の1946年(昭和21年)の作である。第一句集『曼珠沙華』(1950年)に収められた。野見山朱鳥は鞍手郡直方町(現在の直方市)に生まれ、戦後は高浜虚子に師事し、ホトトギス同人となった。長年、俳誌「菜殻火」を主宰し、彼の没後は夫人の野見山ひふみが同誌を主宰している。『天馬』(1954年)などの句集のほか、俳論集に『純粋俳句』(1949年)がある。
 石田比呂志(1930‐ )は京都郡苅田町の生まれ。旧制豊津中学を中退後、紆余曲折の人生を送り、1959年、歌誌「未来」に入会して近藤芳美に師事。1962年、歌誌「牙」を創刊主宰した。第一歌集は『無用の歌』(1965年)。いわゆる〈男歌〉を得意とし、無頼の人生を身上としている。著書は多く、歌業は『石田比呂志全歌集』(2001年)にまとめられている。歌誌「牙」から育った歌人には山埜井喜美枝、阿木津英、そして筑豊の炭坑歌人として有名な山本詞(やまもと・つぐる、1930‐1962)らがいる。
 山埜井喜美枝(やまのい・きみえ、1930‐ )は中国旅順の生まれ。敗戦後、苦労して佐世保港に引き揚げた。やがて石田比呂志と知り合って歌作に励み、第一歌集『やぶれがさ』(1974年)以下、『多々良』(1978年)『火渡り』(1994年)など数多くの歌集がある。
 阿木津英(あきつ・えい、1950− )は行橋市に生まれ、九州大学を卒業した。1970年前後の大学紛争の時代に自我を形成した歌人らしく、女性の解放と自立を短歌で表現し、清新な衝撃を既成の歌壇にもたらした。1979年(昭和54年)、「紫木蓮まで」で第22回短歌研究新人賞を受賞し、その後、現代歌人協会賞を受賞した。代表的な作品に、「唇をよせて言葉を放てどもわたしとあなたはわたしとあなた」、「産むならば世界を産めよものの芽の湧き立つ森のさみどりのなか」などがある。

童心―与田凖一、畑正憲
 敗戦後の荒廃した世相のなかで、海の見える村の小学校を舞台にザボンの実の物語を描き、ほのぼのと人心を暖めたのは、童謡・童話作家の与田凖一(よだ・じゅんいち、1905−1997)の「五十一番目のザボン」(1951年)であった。彼は山門郡瀬高町の生まれ。大正時代、北原白秋の影響を受け、小学校の教員をしながら自由主義教育を実践した。児童文学雑誌「赤い鳥」にも投稿し、1933年(昭和8年)、第一童謡集『旗・蜂・雲』を出版した。1940年(昭和15年)、第一回児童文化賞を受賞し、戦争末期は郷里に疎開し、戦後の1947年(昭和22年)、再び上京した。
 ムツゴロウこと畑正憲(はた・まさのり、1935− )は、福岡市に生まれ、日田に育った後、東大に進学。卒業後、学研に入社し、教育用動物記録映画の作製にかかわったことがきっかけで動物の世界に親しみ、1971年(昭和46年)、家族ともども北海道に移住し、ムツゴロウ動物王国の建設に着手した。記録文学『われら動物みな兄弟』(1967年)で日本エッセイストクラブ賞を受賞。その他、ムツゴロウ・シリーズの著書は多い。

現代詩人―一丸章、高橋睦郎、平出隆
 宗左近(そう・さこん、1919‐ )は遠賀郡戸畑町(現在の北九州市戸畑区)の生まれ。旧制小倉中学(現在の小倉高校)を卒業して上京し、東大文学部哲学科に入学。戦争末期に東京大空襲に遭い、母親を亡くした。この体験を長篇詩『炎える母』(1967年)に描き、歴程賞を受賞した。また、彼は〈河童〉と〈縄文〉をこよなく愛し、詩や散文におおく取り上げている。
 一丸章(いちまる・あきら、1920‐2002)は、H氏賞―詩壇の芥川賞といわれる―を九州在住の詩人としては初めて受賞した。彼は福岡市に生まれたが、幼くして両親と生き別れたといい、また生来病弱だったため数々の困難を克服しながら生きてきた。戦前は矢山哲治らの同人誌「こをろ」に参加し、戦後は丸山豊らの詩誌「母音」、「九州文学」、「ALMEE(アルメ)」などに詩を発表。第一詩集『天鼓(てんこ)』(1972年)で第23回H氏賞を受賞した。
 高橋睦郎(たかはし・むつお、1937‐ )は、福岡県八幡市(現在の北九州市の一部)の生まれ。生後まもなく父親が死去し、母親も去ったので、直方市や八女郡福島町の親戚を転々として育った。その後、母親と同居。福岡学芸大学(現在の福岡教育大学)を卒業し、上京した。第一詩集『ミノ・あたしの雄牛』(1959年)以下、『王国の構造』(1982年、歴程賞)『兎の庭』(1987年、高見順賞)『姉の島―宗像神話による家族史の試み』(1995年、詩歌文学館賞)などの詩集があり、また自伝的小説『十二の遠景』(1970年)『聖三角形』(1972年)『善の遍歴』(1974年)がある。
 平出隆(ひらいで・たかし、1950‐ )は門司市(現在の北九州市門司区)に生まれ、一橋大学社会学部を卒業。河出書房編集部に勤務したあと多摩美術大学の教師となった。第一詩集『旅籠屋』(1976年)以下、何冊もの詩集がある。

芥川賞・直木賞作家(1)―松本清張、江崎誠致、多岐川恭、五木寛之
 松本清張(まつもと・せいちょう、1909−1992)のデビュー作は、小倉時代の森鴎外の日記に取材した短篇「或る『小倉日記』伝」(1952年)である。彼は小倉市(現在の北九州市)に生まれ、高等小学校を卒業したが、経済的困難から上級学校へ進学できず、給仕や見習工をしたあと、朝日新聞九州支社(現在の朝日新聞西部本社)の広告部に就職した。40歳をすぎて小説を書きはじめ、「週刊朝日」の懸賞小説に応募した短篇「西郷札(さいごうさつ」)が三等に入選し、直木賞候補になった。ついで「或る『小倉日記』伝」で第28回芥川賞を受賞した。1953年(昭和28年)、東京本社に転勤となり、上京。「張込み」(1955年)以後、推理小説に転じ、「顔」(1956年)で日本探偵作家クラブ賞を受賞し、さらに時刻表のトリックを用いた長篇推理『点と線』(1958年)がベストセラーとなり、社会派推理小説ブームを巻き起こした。以後、推理小説以外にも、ルポルタージュ・現代史・古代史・時代小説など多分野にわたって縦横に活躍し、第一線の作家活動を持続した。彼の著作の視点は、学歴もなく、社会の下積みの経験をなめているだけに、人間と社会の底辺に降りていき、そこからあらゆる権威や権力に対して敢然と立ち向かう正義派の姿勢に貫かれている。
 久留米市出身の江崎誠致(えざき・まさのり、1922− )は、自身のフィリピンでの戦争体験を題材にした『ルソンの谷間』(1957年)で第37回直木賞を受賞した。彼は中学明善校を中退して上京し、小山書店に就職したが、応召して敗戦はフィリピンのルソン島で迎えた。戦後、1949年(昭和24年)、出版社「冬芽(とうが)書房」を設立したが、朝鮮戦争が勃発すると、全面的に政治活動に奔走した。1955年(昭和30年)、喀血し、療養中に創作を始めた。少年時代を題材にした長篇『死児の齢(とし)』(1964年)、政治活動時代を描いた長篇『十字路』(1964年)があり、また囲碁小説の分野を開拓し、人気作家となった。
 第40回直木賞を受賞した多岐川恭(たきがわ・きょう、1920− )は、八幡市(現在の北九州市)の生まれ。旧制八幡中学から東大経済学部に進学し、在学中、学徒兵として戦地に赴き、長崎県の捕虜収容所の通訳として敗戦を迎えた。1948年(昭和23年)、毎日新聞西部本社に就職し、『濡れた心』(1958年)で第4回江戸川乱歩賞、ついで『落ちる』(1958年)で直木賞を受賞した。以後、サスペンス・ミステリーを書きつぎ、また時代小説も手がけ、数多くの著書を刊行している。
 五木寛之(いつき・ひろゆき、1932− )は立花町の生まれだが、まもなく一家で朝鮮半島に移住し、平壌(現在のピョンヤン)で敗戦を迎えた。ソ連軍占領下の北朝鮮を命からがら脱出し、1947年(昭和22年)、郷里に引き揚げてきたが、経済的に困難をきわめ、一家の生活のため、自転車で茶の行商などをした。福島高校を卒業後、早稲田大学露文科に入学したが、授業料未納のため除籍処分となった。以後、広告放送業界でさまざま仕事を手がけたが、1965年(昭和40年)、ソ連・北欧を旅行。帰国して、旅行体験をもとに「さらば、モスクワ愚連隊」(1966年)を発表し、第6回小説現代新人賞を受賞。同年、「蒼ざめた馬を見よ」(1966年)で第56回直木賞を受賞した。旺盛な筆力を発揮し、第一創作集『さらば、モスクワ愚連隊』(1967年)以下、数多くの著書があるが、なかでも1969年(昭和44年)以来書きついでいる長篇ビルドゥングス・ロマン(成長小説)『青春の門』は、筑豊炭田地帯のボタ山のふもとに生まれた一人の少年・伊吹信介がさまざまな体験をしながら成長していく物語で、映画化もされて、ひろく人気をよんだ。

>映画ポスター ★映画「点と線」、映画「青春の門」筑豊編の映画ポスターの写真

芥川賞・直木賞作家(2)―佐木隆三、岡松和夫、高樹のぶ子、杉本章子、村田喜代子
 佐木隆三(さき・りゅうぞう、1937− )は旧植民地の朝鮮半島で生まれ、戦後引き揚げて、いったん広島県に疎開したあと、本籍地の北九州市に戻った。八幡中央高校を卒業し、八幡製鉄(現在の新日本製鉄)に入社。労働争議を題材にした「ジャンケンポン協定」(1963年)で第3回新日本文学賞を受賞し、長篇『復讐するは我にあり』(1975年)で第74回直木賞を受賞した。
 岡松和夫(おかまつ・かずお、1931− )は短篇「志賀島」(1975年)で第74回芥川賞を受賞した。彼は福岡市の生まれ。東大国文科を卒業し、1959年(昭和34年)、短篇「壁」で文学界新人賞を受賞。文芸誌「近代文学」および「犀」に拠って創作活動を展開した。「犀」には、同じく福岡県出身の評論家・白川正芳(しらかわ・まさよし、1937− )らがいた。芥川賞受賞後は、各誌に小説やエッセイを発表し、第一創作集『小蟹(ちいがね)のいる村』(1974年)以下、『志賀島』(1976年)『人間の火』(1981年)などの著書がある。
 第81回芥川賞は重兼芳子(しげかね・よしこ、1927‐ )の短篇「やまあいの煙」(1979年)、第82回芥川賞は森禮子(もり・れいこ、1928‐ )の「モッキングバードのいる町」(1979年)が受賞した。重兼芳子は北海道の生まれだが、鉱山会社に勤務する父親の赴任先の田川市で少女時代を過ごし、県立田川高等女学校を卒業した。また、田川のプロテスタント教会で洗礼を受け、その後、上京。結婚後、カルチャーセンターの文章教室で創作を学び、芥川賞という栄冠を獲得した。森禮子は福岡市の生まれ。市立当仁小学校、県立福岡高等女学校(現在の福岡中央高校)を卒業。戦後は小島直記の主宰する第3期「九州文学」同人だったこともあり、1956年、上京。放送劇の台本を書きながら創作をつづけ、駒田信二の主宰する文芸誌「文芸首都」に参加。アメリカに在住する姉を訪ねた折の体験をもとに短篇「モッキングバードのいる町」を書き、芥川賞を受賞した。
 青春の恋愛心理を描いた「光り抱く友よ」(1983年)で第90回芥川賞を受賞した高樹のぶ子(たかぎ・のぶこ、1946− )は、山口県防府市の生まれだが、結婚後、福岡市に転居した。男女の恋愛の心理描写を得意とし、その情熱的で緊張感にみちた心理の揺れ動きに独自の魅力がある。著書に『その細き道』(1983年)『光り抱く友よ』(1984年)『銀河の雫』(1993年)などがある。
 杉本章子(すぎもと・あきこ、1953− )は、文明開化期の絵師・小林清親を題材にした歴史小説『東京新大橋雨中図』(1988年)で第100回直木賞を受賞した。彼女は八女市の生まれ。ノートルダム聖心女子大学を卒業し、金城学院大学の大学院に進学。専攻した江戸文学の素養を生かして、時代小説の分野で活躍している。
 村田喜代子(むらた・きよこ、1945− )は、八幡市(現在の北九州市)の生まれ。タイプライターでつくった個人誌を発行し、「水中の声」で九州芸術祭文学賞を受賞したあと、短篇「鍋の中」(1987年)で第97回芥川賞を受賞した。日常生活のなかでモノを見つめ、ただちに物語を立ち上げてくる独自な感性が魅力で、その世界は〈村田ワールド〉とよばれている。著書に『鍋の中』(1987年)『白い山』(1990年)『真夜中の自転車』(1991年)『蕨野行(わらびのこう)』(1994年)などの著書があり、「白い山」で女流文学賞を受賞した。

芥川賞・直木賞作家(3)―白石一郎、藤原智美、辻仁成
 海洋小説の第一人者として有名な白石一郎(しらいし・いちろう、1931− )は、旧植民地の朝鮮釜山で生まれ、戦後、引き揚げて柳川や佐世保で育ち、1957年(昭和32年)から福岡に暮らすようになった。もっぱら海を舞台とする歴史伝奇ロマンの世界を描くことを得意とし、戦国時代の若き海賊青年の世界を題材にした長篇『海狼伝』(1987年)で、第97回直木賞を受賞した。
 第107回芥川賞は福岡市出身の藤原智美(ふじわら・ともみ、1955− )の短篇「運転士」(1992年)が受賞した。地下鉄の運転士が電車を運転する毎日の生活感覚を新しい世代の感覚で描いたもので、新世代の登場と注目された。藤原智美は福岡高校をへて明治大学を卒業。フリーの雑誌記者、コピー・ライターをしながら、30歳を過ぎて小説の創作を試みたという。著書に『運転士』(1992年)『群体(クラスター)』(1994年)などがある。
 「海峡の光」(1997年)で第116回芥川賞を受賞した辻仁成(つじ・ひとなり、1959− )は、出生地は東京だが、父祖の地は福岡県。彼自身も、6歳のとき福岡市に転居し、西高宮小学校に入学して5年生まで在学し、その後、北海道に転出している。成城大学を中退し、ロック・バンド「エコーズ」を結成。1985年(昭和60年)、CBSソニーからレコード・デビューした。コンサート・ツアーの合間に小説を書き、「ピアニシモ」(1990年)で第13回すばる文学賞を受賞し、1991年(平成3年)からは執筆活動に専念した。芥川賞受賞後第一作「白仏」は筑後川に浮かぶ大野島を舞台に父祖の地の伝奇ロマンである。

ミステリーの世界―中薗英助、夏樹静子、赤川次郎、石沢英太郎
 中薗英助(なかぞの・えいすけ、1910‐2002)は遠賀郡上津役(こうじゃく)村(現在の北九州市八幡西区)の生まれ。本名は中園英樹。旧制八女中学を卒業後、家族の反対を押し切って中国に向かい、さまざまな仕事を変転したあと、敗戦の翌年に帰国。やがて国際スパイ小説の分野で活躍し、この分野の第一人者となった。『彷徨のとき』(1957年)『死電区間(デッド・セクション)』(1959年)『裸者たちの国境』(1975年)など多数の著書がある。
 夏樹静子(なつき・しずこ、1938− )は東京生まれだが、結婚して福岡市に在住し、女性の感性を生かしたミステリーを書きつづけている。デビュー作は『天使が消えていく』(1970年)、ついで『蒸発』(1972年)で第26回日本推理作家協会賞を受賞した。本格派の推理小説作家として定評があり、しばしば日本のアガサ・クリスティとも評される。
 「幽霊」シリーズや「三毛猫ホームズ」シリーズで有名な赤川次郎(あかがわ・じろう、1948− )は、福岡市の出身で、1976年(昭和51年)、「幽霊列車」で第15回オール読物推理小説新人賞を受賞し、作家デビュー。ついで「悪妻に捧げるレクイエム」(1980年)で第7回角川小説賞を受賞した。軽妙なタッチとやわらかい感性で若い読者の心をつかんで著書を量産し、記録的なベスト・セラー作家となった。
 石沢英太郎(いしざわ・えいたろう、1916−1988)は中国大連の生れだが、戦後、福岡に引き揚げ、50歳頃から小説を書きはじめた。1966年(昭和41)年、「羊歯行(しだこう)」で第1回双葉推理賞を受賞し、さらに「視線」(1976年)で第30回日本推理作家協会賞(短篇賞)を獲得した。

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[美術]


〈絵画〉

●筑前四大画家―斎藤秋圃、桑原鳳井、石丸春牛、村田東圃
●幕末維新期の画家たち―中西耕石、吉嗣拝山、村田香谷、川辺御楯

〔筑後地区〕
●筑後洋画壇の祖―森三美、吉田博
●久留米の両雄―青木繁、坂本繁二郎
●創作版画―藤森静雄
●櫨の国の画家―松田諦晶
●モダニスト―古賀春江
●春木万華―藤田吉香
●孤高の画家―高島野十郎
●温雅な風景画―高田力蔵
●阿蘇の画家―田崎廣助
●大牟田の洋画―藤岡一、山本和夫
●メルヘン―大津英敏
●八女の画家―井上三綱、倉員辰雄
●農村画家―伊東静尾          ※坂宗一を追加

〔福岡地区〕
●蒙古軍襲来絵図―矢田一嘯
●福岡洋画人の先駆―庄野伊甫、和田三造、光安浩行
●明治・大正の風俗画―祝部至善
●夫婦でアトリエ―加藤尚義、加藤多喜野
●肉弾三勇士―浜哲雄
●独立美術協会―児島善三郎、熊代駿 ※足立襄 山田栄二 赤星孝を追加
●三兵衛―太田嘉兵衛、青柳喜兵衛、後藤次兵衛
●コタ・バル―中村研一、中村琢二
●福岡二科系の総帥―伊藤研之
●雄渾な壁画―寺田竹雄
●朱貌社―上田宇三郎、赤星孝、久野大正、山田栄二、宇治山哲平
●色彩の躍動するフォルム―寺田健一郎
●奴隷系図―菊畑茂久馬
●駆け抜けた前衛―九州派の美術家たち
●福岡の日本画―水上泰生、冨田溪仙、横尾芳月、小早川清
●博多山笠―西島伊三雄

〔筑豊地区〕
●水墨画の名手―山喜多二郎太
●都会の憂愁―織田廣喜
●四百字のデッサン―野見山暁治
●炭坑画―山本作兵衛、千田梅二

〔北九州地区〕
●フューザン会―山下鉄之助
●花と女性―田中繁吉
●マヴォの闘士―柳瀬正夢
●シュールな世界―寺田政明、多賀谷伊徳

〈彫刻〉
●彫刻の世界―山崎朝雲、中野素昂、冨永朝堂、原田新八郎、豊福知徳

〈工芸〉
●伝統陶芸の系脈―上野焼、高取焼、小石原焼、その他
●近代陶芸の精彩―滝一夫、城下久実、高鶴元

〈漫画〉
●漫画家王国―長谷川町子、松本零士、萩尾望都、長谷川法世、小林よしのり

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筑前四大画家―斎藤秋圃、桑原鳳井、村田東圃、石丸春牛
 江戸時代末期の天保年間(1830‐1844)、筑前国で四人の町絵師が活躍した。筑前の四大画家と称される桑原鳳井、斎藤秋圃、石丸春平、村田東圃の四人である。
 斎藤秋圃(さいとう・しゅうほ、1769‐1861)は幕末の四条派の画家。京都の生まれ。旧姓は池上。はじめ丸山応挙や森狙仙に師事して丸山派の画風を学んだが、その後、長崎に遊学し、折から来日中の清国人画家・江稼圃(こう・かほ)の画風に傾倒、これを自分の画風に取り入れた。1803年(享和3年)、秋月藩主・黒田長舒に招かれてお抱え絵師となり、姓を斎藤と改めた。1824、25年頃、不祥事の責任をとって藩の庇護を辞退し、江戸に上って浮世絵を描いて生活したが、まもなく福岡に戻り、姪浜の興徳寺に寄食。花鳥や人物の絵に独特の風味を出して評判となり秀で晩年は太宰府に隠棲。書画に巧みな禅僧の仙高轤ニ交わり、92歳で天寿を全うした。門下に村田東圃や吉嗣梅僊(梅仙)らがいる。
 桑原鳳井(くわはら・ほうせい、1793‐1841)は幕末期の四条派の画家。筑豊の嘉麻郡大隈に生まれ、のち蓆田郡二股瀬に移り、茶商を営み生計を立てた。絵画は、はじめ福岡藩御用絵師の衣笠守由に師事して狩野派を学び、ついで長州(山口県)の小田海僊に南画を学び、大阪の森一鳳に四条派を学んだ。福岡に帰郷後は太宰府に住み、山水人物を得意とする画風で人気を集めたが、1841年(天保12年)、49歳で没した。
 村田東圃(むらた・とうほ、1802‐1865)は幕末期の南画家。那珂郡春吉の農家の子に生まれ、30歳のとき博多橋口町の文具商・村田治右ヱ門の養子となった。はじめ狩野派の絵画を習ったが、やがて斎藤秋圃に師事し四条派を学び、さらに京都に遊学したが、その後、南画に転じ、山水画をよくした。晩年に帰郷し、那珂川の畔に暮らした。門下に、子息の村田香谷、村田秋江、姫島竹外らがいる。ちなみに、山田介堂(やまだ・かいどう、1869‐1924)も福岡市生まれの南画家。家系は久留米の有馬藩の家老職であった。
 石丸春牛(いしまる・しゅんぎゅう、1793‐1860)は幕末の南画家。名は和、通称は半助・半蔵・伴輔、号は石耕・墨窩・芸甫、晩年は純翁と称した。茶商の家に育ち、自身もまた長じて茶商を営んだが、画才があり、折から来遊中の浦上春琴に師事し、師に従って京都に向かい、中国の明清期の南画で一家をなした。帰郷後は博多上新川端に住み、画業に専念した。

>町絵師 御用絵師(お抱え絵師)に対する呼称。御用絵師は宮廷・幕府・大名・寺社などに雇われた専属画家のことで、多くは狩野家や土佐家がこれを占めた。福岡藩は狩野派の衣笠家が代々これにあたった。これに対して、市井にあって絵を描き、これを売って生活した人びとを町絵師という。御用絵師は家元制度などのために作風が一定しマンネリ化したのに対して、町絵師は自由に斬新な画風を楽しんだ。

幕末維新期の画家たち―中西耕石、吉嗣拝山、村田香谷、川辺御楯
 中西耕石(なかにし・こうせき、1807−1884)は、筑前国芦屋(現在の遠賀郡芦屋町)に生まれ、京都に出て四条派の絵画と漢学を学び、南画に関心を寄せた。山水画を得意とし、幕末京都を代表する南画家として活躍した。1880年(明治13年)、京都府画学校の設立に際して出仕し、2年後の第1回内国絵画共進会で銅賞を受賞した。
 吉嗣拝山(よしつぐ・はいざん、1846−1915)は中西耕石の門下生である。筑前国太宰府に生まれ、維新の動乱期に政事に奔走したが、1871年(明治4年)の東京地震で右手を切断して帰郷した。漢学を日田の広瀬淡窓に学び、南画を中西耕石に学んで、山水画に秀でた。英国王室へ献上の「富岳の図」を制作するなど評価は高く、〈左手拝山〉と称された。
 同じく南画を得意とした村田香谷(むらた・こうこく、1831−1912)は、福岡藩の絵師・村田東甫の子として生まれ、京都に遊学して南画と漢学を学んだ。1881年(明治14年)の第2回内国勧業博覧会、翌年の第1回内国絵画共進会などに山水画を出品して高く評価された。1897年(明治30年)、日本南画会の設立に参加し、同年、大阪に転居。関西南画界の指導的役割を果たした。
 姫島竹外(ひめしま・ちくがい、1840−1928)もまた、南画家を志し、ことに竹林の図を得意とした。彼は福岡藩に生まれ、幕末は政事に奔走したが、維新後、大阪に居を定め、南画家の団体を組織し、その振興をはかった。門人が多く、1918年(大正7年)、竹外南画院を組織し、大阪の南画壇の重鎮として後進の指導に情熱を注いだ。
 川辺御楯(かわべ・みたて、1838−1905)は柳河藩の生まれ。狩野派の絵師であった父親に絵の手ほどきを受け、さらに狩野派の絵画を久留米藩の絵師・三善真琴に学んだ。一方、国学を平田篤胤門下の西原晁樹に学び、また、山鹿流の兵法を学んで、幕末維新の激動の騒乱に参加した。1868年(明治元年)、上京して、太政官に出仕するなどしたあと、1882年(明治15年)、第1回内国絵画共進会に出品して銅賞、2年後の第2回共進会でも銀賞を受賞し、その絵画の才を認められた。歴史画を得意とし、日本美術協会の審査員などをつとめた。
 
〔筑後地区〕

筑後洋画壇の祖―森三美、吉田博
 森三美(もり・みよし、1872−1913)は、筑後の洋画壇の祖として、功績が大きい。久留米市三吉に生まれ、1885(明治18年)、県立久留米尋常中学に入学。2年後、京都府立画学校に入学し、翌年、フォンタネージの影響を受けた小山三造に師事した。まもなく画学校は退学し、1891年(明治24年)頃、帰郷。郷里の久留米市で石版印刷業を営むかたわら、洋画塾を開いた。当時まだ少年だった坂本繁二郎、青木繁、松田諦晶らが入門し、英才を集めてにぎわった。1894年(明治27年)、久留米高等小学校をふりだしに久留米女学校、東筑中学、佐賀中学などの美術教師を歴任し、多くの人材を育成した。
 吉田博(よしだ・ひろし、1876‐1950)は久留米市の上田家に生まれだが、まもなく一家は浮羽郡に移り、さらに福岡市に転居。県立中学修猷館を卒業した。修猷館在学時代、同校の美術教師・吉田嘉三郎に才能を認められ、吉田家の養子に入り吉田姓となった。京都に出て田村宗立に画を習ったが、翌年上京し、小山正太郎の主宰する不同舎に入門した。1897年(明治30年)頃、明治美術会の会員となり、1899年から2年間ほど欧米に留学。1901(明治34年)、不同舎門下生の中川八郎らと図って明治美術会を改組して太平洋画会を結成し、主要メンバーとなった。1907年(明治40年)、第1回文部省美術展覧会(文展)に作品「新月」を出品し、3等賞を受賞。翌年と翌々年は2等賞を受賞。1910(明治43)年の第4回文展では審査員をつとめ、以後も何度か同展の審査員となった。以後も官展系の重鎮画家として活躍し、また、1933年(昭和8年)には筑前美術協会の結成に参加。1936年(昭和11年)には足立源一郎らと日本山岳画協会を結成。淡彩な山岳風景を好んで描いた。また、木版画家としても知られる。戦後の1947年(昭和22年)、太平洋画会の会長となったが、3年後、死去した。

>太平洋画会
 美術団体。1901年(明治34年)創立。吉田博、満谷国四郎、中川八郎、丸山晩霞らを中心に石川寅治、都鳥英喜らが参加した。翌年1月、第1回展を上野公園五号館で開催。やがて小杉未醒、石井柏亭、中村不折らが参加し、白馬会(1896年、黒田清輝らが創立)と対抗する二大洋画グループとなった。

久留米の両雄―青木繁、坂本繁二郎
 青木繁(あおき・しげる、1882−1911)と坂本繁二郎(さかもと・はんじろう、1882−1969)は、同郷・同級・同門で育ちながら、一方が早熟の天才として華々しくデビューし、情熱的でドラマチックな生涯を一気に駆け抜けるように閉じたとするなら、もう一方の坂本繁二郎は牛馬の歩みのごとく着実に前進し、晩熟の才能を開花させたといえる。
 青木繁は久留米藩士の子として久留米市荘島町に生まれ、久留米高等小学校から県立中学明善校に入学した。小学校時代の同級生に坂本繁二郎がおり、森三美の画塾に通ううち、本格的に画家を志し、中学を退学して上京。東京美術学校に入学して黒田清輝の指導を仰いだ。1903年(明治36年)、第1回白馬会展に、日本神話やインド説話に取材した「黄泉比良坂(よもつひらさか)」「優婆尼沙土(ウパニシャド)」などの画稿を出展し、注目されて第1回白馬会賞を受賞した。ついで第9回白馬会展に「海の幸」を出展し、絶賛された。1907年(明治40年)、「わだつみのいろこの宮」を発表。翌年、家族と衝突して家出し、佐賀・天草などを放浪した。画業も思わしくなく、失意と病苦と貧困のなか、1911年(明治44年)、福岡市内の病院で短い生涯を閉じた。
 坂本繁二郎は久留米藩士の子として、久留米市京町に生まれ、青木繁と同じ久留米高等小学校へ通い、森三美の画塾に入門した。卒業後、久留米高等小学校の図画担当の代用教員となり、青雲の志を抱いて上京する青木繁を見送ったが、1902年(明治35年)、帰省中の青木繁に触発されて上京。1907年(明治40年)、第1回文展に「北茂安村の一部」が入選した。1921年(大正10年)、フランスに留学し、美術の腕を磨いた。1931年(昭和6年)、郷里に近い八女郡福島町にアトリエを構えて帰郷。終生、この地で過ごした。1947年(昭和22年)、日本芸術院会員に推薦されたが辞退し、その後、東京日本橋の三越デパートで「坂本繁二郎自選回顧展」を開催し、一挙に評価が高まった。その後、八女市名誉市民となり、また文化勲章を受章し、朝日賞も受賞した。〈馬シリーズ〉〈能面シリーズ〉〈月のシリーズ〉が有名で、1969年(昭和44年)、自宅で亡くなった。

>けしけし山 ★写真

創作版画―藤森静雄
 藤森静雄(ふじもり・しずお、1891−1943)は、同郷の青木繁にあこがれ、県立中学明善校を卒業して上京。東京美術学校予備科に在学中、田中恭吉や恩地孝四郎らと知り、しばしば竹久夢二を訪ねたりした。1913年(大正2年)、木版画の制作を開始し、翌年、恩地孝四郎らと自摺りの木版画と詩による雑誌「月映(つくばえ)」を創刊し、第7号まで刊行した。1916年(大正5年)、東京美術学校西洋画科を卒業し、帰郷。父親が町長をしていた嘉穂郡飯塚町に戻り、その後、台湾に渡って中学教員をしたが、1918年(大正7年)、日本創作版画協会の創立に参加。1922年(大正11年)、上京した。1931年(昭和6年)、日本版画協会の創立に参加し、1935年(昭和10年)、恩地孝四郎らと総合芸術誌「内在」を創刊するなどした。1940年(昭和15年)、飯塚市に帰郷。3年後に没した。

櫨の国の画家―松田諦晶
 松田諦晶(まつだ・ていしょう、1886−1961)久留米市京町の生まれ。本名は松田実(みのる)。久留米高等小学校時代、図画教師の森三美に絵を学び、青木繁・坂本繁二郎らの指導も受けた。1910年(明治43年)、太平洋画会展に出品し、初入選。この頃から、若き日の古賀春江を指導した。その後、古賀春江が中央画壇で華々しくデビューし、その頃から、彼は中央画壇を離れた。1913年(大正2年)、郷里の仲間と来目(くるめ)洋画会を結成。また、1931年(昭和6年)、久留米洋画研究所を設立し、美術教員をしながら、自身は後進の育成にあたった。

モダニスト―古賀春江
 古賀春江(こが・はるえ、1895−1933)は久留米市寺町の浄土宗・善福寺の長男に生まれたが、中学明善校に入学した頃から松田諦晶(実)に洋画を学び、中学を中退して上京。太平洋洋画会研究所に学び、1913年(大正2年)、第11回太平洋画会展に水彩「築地八幡より」が入選した。翌年、僧籍に入り、やがて若手前衛絵画グループ「アクション」を中川紀元らと結成。未来派、キュービズム、表現主義、構成主義など、当時西洋芸術の前衛的な傾向を取り入れた絵画を制作。大正の末年頃からはシュール・リアリズム風の詩を美術雑誌に発表した。1933年(昭和8年)、東大病院で死亡。

春木万華―藤田吉香
 藤田吉香(ふじた・よしか、1929− )も、松田諦晶(実)の門下生である。1955年(昭和30年)、東京芸術大学を卒業。4年後の第33回国画会展に「すわる」「ほおむる」を出品して国画会賞を受賞。スペインにも留学し、1970年(昭和45年)、「春木万華」で第13回安井賞を受賞した。金・銀・青などの単一色の背景に、たった一つの木や花の姿を即物的リアリズムの手法で描く静物画に特徴があり、モノのもつ神秘性を表現する点で高い評価を得ている。

孤高の画家―高島野十郎
 高島野十郎(たかしま・やじゅうろう、1890−1975)は、三井郡合川村(現在の久留米市)の裕福な醸造家の四男に生まれた。同郷の先輩・青木繁にあこがれて絵画の道に進んだと伝えられる。本名は高嶋弥寿(たかしま・やじゅ)。青木繁と親交のあったことで知られる詩人の高島宇朗は、彼の長兄にあたる。名古屋の第八高等学校をへて東大農学部水産学科に進学。同科を首席で卒業したが、以後、職につかず、師にもつかず、絵画団体にも所属せず、結婚もせず、1975年(昭和50年)、千葉県野田市の老人ホームで、その85歳の孤高の生涯を閉じた。晩年は千葉県柏市の僻地に身を沈め、全国各地を写生旅行したり、巡礼の旅に出たりし、数度の個展を唯一の作品発表の舞台とした。福岡県立美術館図録「高島野十郎」(1986年)がある。

温雅な風景画―高田力蔵
 高田力蔵(たかた・りきぞう、1900−1992)も久留米市の出身で、上京して川端画学校に学び、石井柏亭に師事した。1926年(大正15年)、日本水彩画会の会員となり、1927年(昭和2年)、第14回二科展に「岬端風景」で初入選した。1931年(昭和6年)、新美術協会の創立に参加。1936年(昭和11年)、ベルリン・オリンピック芸術競技展に入選し、翌年、渡欧。2年間、パリで絵画を学んだあと、帰国し、春陽会の会員となった。戦争中は日本の祭礼画シリーズに着手し、戦後は、もっぱら大分県の飯田高原の風景をスケッチした。パステル調の淡彩で温雅な風景画を得意とする。

阿蘇の画家―田崎廣助
 阿蘇を描きつづけた画家として有名な田崎廣助(たざき・ひろすけ、1898−1984)は、八女郡北山村(現在の立花町)の生まれ。福岡師範学校を卒業し、1920年(大正9年)、画家となるべく上京。坂本繁二郎に師事した。1932年(昭和7年)、パリに留学し、サロン・ドートンヌ展に「パリの裏町」ほか2点の油絵が入選した。2年後、帰国。一水会の創設に参加し、戦後の1961年(昭和36年)、「夏の阿蘇」「朝やけの大山」などの大作で日本芸術院賞を受賞し、6年後、日本芸術院会員となった。1975年(昭和50年)、文化勲章を受章し、雄大で柔軟な阿蘇の光景を描きつづけた。

大牟田の洋画―藤岡一、山本和夫
 藤岡一(ふじおか・はじめ、1899−1974)は、大牟田市に生まれ、中学明善校を卒業して上京。東京美術学校に入学し、藤島武二に師事した。フランス留学後の1933年(昭和8年)、第3回独立展に「ココ」を出品。フォービズムのタッチが評価されて「O氏賞」を受賞した。晩年は抽象的な作風を示し、「日本人の油絵」を心がけた。
 山本和夫(やまもと・かずお、1901−1968)は大牟田市有明町の生まれ。県立八女中学から東京美術学校に進学し、岡田三郎助に師事。卒業後、帰郷し、坂本繁二郎に師事。水彩画を得意とし、晩年は日本水彩画会の会友となった。アララギ派の歌人としても知られている。

メルヘン―大津英敏
 大津英敏(おおつ・ひでとし、1943− )は父親の赴任先の熊本県に生まれたが、本籍地は筑後市羽犬塚、その後、大牟田市に引っ越した。大牟田市立延命中学を卒業後、三池高校に入学し、3年生のとき画家となる意志を固めた。中学時代から久留米市にある石橋美術館に通い、青木繁・坂本繁二郎・古賀春江らの絵に惹かれていたという。1963年(昭和38年)、東京芸術大学に入学し、在学中の1966年(昭和41年)、現代日本美術展のコンクール部門に初出品し、初入選した。その後、独立美術協会展、安井賞展などを中心に出品、入選をつづけ、1983年(昭和58年)、第26回安井賞を受賞した。そのどこか素朴でペーソスのただようメルヘン風の画風が高い評価を受けている。

八女の画家―井上三綱、倉員辰雄
 井上三綱(いのうえ・さんこう、1898−1981)は、八女郡古川村に生まれ、小倉師範学校を卒業後、上京。同郷の坂本繁二郎に師事し、1926年(大正15年)、第7回帝展に油絵「牛」が入選。戦後は国画会の会員となり、アメリカやブラジルの展覧会にも出品した。
 倉員辰雄(くらかず・たつお、1900−1978)は八女郡上陽町に生まれたが、小学2年生のとき家族とともに朝鮮に渡り、大正はじめ、単身帰郷して中学明善校に入学した。卒業後、台湾銀行に就職したが、辞職して東京美術学校に入学。岡田三郎助に師事した。1929年(昭和4年)、第10回帝展に「風景」で入選。第14回帝展に「岩蔭」を出品して以来、岩を描く画家として有名になった。戦後は日展の審査員や評議員などをつとめた。

農村画家―伊東静尾
 伊東静尾(いとう・しずお、1902−1970)は浮羽郡に生まれた。中学明善校を中退し、上京して日本美術学校に入学。卒業後、帰郷し、来目洋画会に参加。そこで松田諦晶を知った。昭和のはじめ頃から、坂本繁二郎に師事し、1933年(昭和8年)、二科展に「高良台」で初入選。1954年(昭和29年)、二科会の会員となった。終生郷里に過ごし、身近な農村生活に題材を求め、重質で静寂な作風を示した。


〔福岡地区〕

蒙古軍襲来絵図―矢田一嘯
 福岡市東公園内の日蓮銅像台座の周囲には法難図の銅板レリーフがある。これを指導したのが横浜生まれの矢田一嘯(やだ・いっしょう、1858−1913)である。彼は渡米後、浅草のパノラマ館に油彩「白河戦争の図」を描き、好評を博したが、1893年(明治26年)、妻子を残して単身放浪の旅に出た。翌年、福岡市に立ち寄り、そのまま定住。東公園内の亀山上皇像の建立に協賛して「蒙古軍襲来絵図」12枚を油彩で制作。また日蓮銅像台座の銅版画の原図制作を指導した。その後、市内で絵画研究会を組織して、日本画家たちを育成し、また、博多人形の洗練性の向上にも貢献した。

>日蓮銅像台座の法難図の銅板レリーフ ★写真
>「蒙古軍襲来絵図」 ★写真

福岡洋画人の先駆―庄野伊甫、、和田三造、光安浩行
 庄野伊甫(しょうの・いほ、宗之助、1876−1958)は福岡市に生まれ、東京美術学校西洋画科に入学。浅井忠に師事した。1901年(明治34年)、明治美術会展に入選し、翌年はパリ世界大博覧会に入選するなど、頭角をあらわした。1907年(明治40年)、第1回文展に入選。夏目漱石、高浜虚子、中村不折、石井柏亭らと交遊があったが、大正のはじめ、帰郷した。1922年(大正11年)、大分県日田中学に赴任。1933年(昭和8年)、福岡市に戻った。
 和田三造(わだ・さんぞう、1883−1967)は兵庫県生まれだが、1896年(明治29年)、父親の任地である福岡市に転居し、大名尋常小学校に転入した。1898年(明治31年)、中学修猷館に進学したが、翌年、画家を志して上京し、黒田清輝邸の書生となって、白馬会洋画研究所に通い、さらに東京美術学校選科に入学した。1906年(明治39年)、白馬会創立10周年記念展で白馬会賞を受賞し、翌年の第1回文展に「南風」を出品して最高賞を獲得した。
 光安浩行(みつやす・ひろゆき、1891−1970)は筑紫郡席田村(現在の福岡市)に生まれ、中学修猷館を卒業。画家を志して上京し、太平洋画界研究所に通い、中村不折、岡精一に学んだ。1920年(大正9年)、いったん帰郷したあと、1925年(大正14年)に再度上京し、翌年から帝展に出品、入選をかさねた。1941年(昭和16年)、新文展無鑑査。1950年(昭和25年)、日展特選を受賞し、その後、日展の審査員や評議員となった。一方、戦前は太平洋画会展にも出品し、太平洋美術学校の教授をつとめた。

明治・大正の風俗画―祝部至善
 祝部至善(ほうり・しぜん、1882−1974)は日本画家。福岡市中島町に生まれた。旧姓は吉野。本名は卯平。1918年、松岡映丘に師事し、同年、松岡家に婿養子に入った。関東大地震に遭遇し、帰郷。実家の和裁塾(櫛田裁縫専攻学校)の経営にあたる一方、多才な趣味人として知られ、書道・弓道・茶道に精通した。また、福岡風俗研究会の会長をつとめ、博多を語る会の結成にも尽力した。幼少年期を過ごした明治大正期の博多の街並を精緻な筆先で風俗画に再現し、高い評価を受けた。

夫婦でアトリエ―加藤尚義、加藤多喜野
 加藤尚義(かとう・なおよし、1882−1960)は岡山県生まれだが、九州帝大医学部を卒業し、その後大学通りに開業した。1922年(大正11年)頃、近くの東公園内にアトリエを建て油絵を学んだ。黒田重太郎に師事し、戦前は二科展に、戦後は二紀会展に出品した。加藤多喜野(かとう・たきの、1877−1963)は、加藤尚義の妻で、絵画の入門は彼女のほうが早かった。。岡山県の生まれで、東京時代には日本画を学び、その後、京都聖護院洋画研究所に入り、浅井忠に師事。同時期の門下生には安井曾太郎や梅原龍三郎らがいた。加藤尚義と結婚して福岡に定住。夫とともに仲良く絵画を楽しんだ。

肉弾三勇士―浜哲雄
 浜哲雄(はま・てつお、1887−1939)は、久留米市内にあった「肉弾三勇士」像の作家として知られる。早良郡姪浜(現在の福岡市)に生まれ、1901年(明治34年)、中学修猷館に入学したが、3年生で中退し、東京美術学校予備科に入学。1915年(大正4年)、卒業し、アメリカに渡ってコロンビア大学で美学や美術史を学んだ。南米からヨーロッパをへて帰国し、1934年(昭和9年)、陸軍工兵隊の依嘱により「肉弾三勇士」を手がけた。

>肉弾三勇士 ★写真(エハガキは花田所有)

独立美術協会―児島善三郎、熊代駿
 児島善三郎(こじま・ぜんざぶろう、1893−1962)は、福岡市に生まれ、1907年(明治40年)、中学修猷館に入学。在学中から絵画に熱中し、進学した長崎医学専門学校(現在の長崎大学)を中退して、上京した。1921年(大正10年)、第8回二科展に「早春の下板橋付近」を出品し、初入選。翌年、萬鉄五郎(よろず・てつごろう)を中心とする「円鳥会」の結成に参加した。大正末から数年間、パリに留学し、ドランの絵画に魅せられて、帰国後、ドラン風キュービズムの作品を発表した。1930年(昭和5年)、二科会を退会し、林武・三岸好太郎らと「独立美術協会」を結成した。昭和10年代は日本の伝統に回帰し、日本的洋画の確立を主張した。福岡在住の独立美術協会系の画家たちの総帥として後進を指導した功績も大きい。
 熊代駿(くましろ・しゅん、1918−1975)は粕屋郡宇美町に生まれ、幼い頃、福岡市に引っ越した。1933年(昭和8年)、築上農学校を卒業し、画家を志した。独立美術研究所に学び、その後、児島善三郎に師事。1939年(昭和14年)、独立美術協会展に初入選し、以来、1974年(昭和49年)まで連続入選を果たした。

>独立美術協会
 1930年(昭和5年)創立。二科会員を脱退した小島善三郎ら9名は、春陽会の三岸好太郎、国画会の高畠達四郎らとともに既成の団体から独立し、新時代の美術の創作を宣言した。翌年、東京府美術館で第1回展を開催した。フォービズム的な画風を基調とし、日本的油絵をの確立をめざした。

三兵衛―太田嘉兵衛、青柳喜兵衛、後藤次兵衛
 1929年(昭和4年)、福岡県公会堂で「三兵衛展」が開かれた。「三兵衛」とは、洋画家の太田嘉兵衛(おおた・かひょうえ、1900−1955)と、青柳喜兵衛(あおやぎ・きひょうえ、1904−1938)と、彫刻家の後藤次兵衛(ごとう・じべえ)である。
 太田喜兵衛は福岡市上東町に生まれ、1920年(大正9年)、福岡商業学校を卒業した。1927年(昭和2年)、福岡アマチュア洋画会を主宰し、1929年(昭和4年)、牧野虎雄らが創立した槐樹社美術展に入選し、翌年、帝展に初入選した。1940年(昭和15年)、福岡県美術協会の創立に参加し、戦後は西部美術協会、福岡県美術協会に加わり、1949年(昭和24年)、示現会展に出品し、示現会員となった。
 青柳喜兵衛は福岡市博多金屋小路に生まれ、1923年(大正12年)、福岡商業学校を卒業。早稲田大学に進学したが、関東大震災に遭遇。画家を志して、川端画学校に学んだ。1924年(大正13年)、解衣社を組織し、同年、槐樹社美術展に出品、奨励賞を受けた。1926年(大正15年)、帝展に初入選。以後、連続入選をかさねた。生活の本拠は東京に置いたが、福岡にもしばしば帰郷し、1933年(昭和8年)、小倉で地元の美術団体・蒼樹社を創設。また、地元紙の「福岡日日新聞」に連載された夢野久作の小説「犬神博士」の挿し絵を担当し、好評を博した。一方、文才も発揮し、川端生樹などのペン・ネームで詩を発表。火野葦平、劉寒吉、岩下俊作、原田種夫ら地元の文学者とも交遊し、火野葦平の豪華詩集『山上軍艦』の装幀を担当。彼の死後、友人たちが遺稿画文集『牛乳の歌』(1939年)を出版した。なお、後藤次兵衛(ごとう・じべえ)は、青柳喜兵衛の義兄にあたり、彫刻家であった。

>青柳喜兵衛 ★火野葦平の詩集『山上軍艦』、青柳喜兵衛の詩画集『牛乳の歌』の写真

コタ・バル―中村研一、中村琢二
 戦時下、第1回大東亜戦争美術展に出品されて、朝日文化賞を受賞した戦争絵画の代表作「コタ・バル」の作者は中村研一(なかむら・けんいち、1895−1967)である。宗像郡南郷村(現在の宗像市)の生まれ(ただし、母親が小倉の実家に戻って産んだらしいため、小倉生まれと伝えられることもある)。1909年(明治43年)、東郷高等小学校を卒業して中学修猷館に進学。2年上級の児島善三郎や太田清蔵(後年の東邦生命会長)を中心とする絵画同好会「パレット会」に参加し、絵画に熱中した。1915年(大正4年)、東京美術学校に入学し、岡田三郎助の教室で学んだ。その後、第8会光風会展、第2回帝展に初入選し、第3回帝展では「涼しきひま」で特選を受賞して、以後、帝展への無鑑査出品の資格を獲得した。1923年(大正12年)、フランスに留学し、1928年(昭和3年)まで滞在。この間、サロン・ドートンヌ会員となった。戦後は光風会展を中心に活動を行い、1950年(昭和25年)、日本芸術院会員となった。
 実弟の中村琢二(なかむら・たくじ、1898−1988)もまた、画家として知られる。東筑中学(現在の東筑高校)から中学修猷館に転校し、兄や児島善三郎の影響で絵画に興味を持った。熊本の第五高等学校に入学したが病気のため退学し、その後、岡山の第六高等学校をへて東大経済学部を卒業した。昭和に入って、フランスから帰国した兄研一にすすめられて画家を志し、1930年(昭和5年)、第17回二科展に出品して入選。以後、6年間、連続入選した。1938年(昭和13年)からは一水会展に出品し、1943年(昭和18年)、一水会員となって以後、1988年(昭和63年)、90歳で生涯を閉じるまで一水会展に作品を発表しつづけた。

福岡二科系の総帥―伊藤研之
 伊藤研之(いとう・けんし、1907−1978)は中学修猷館を卒業後、早稲田大学に進学。1931年(昭和6年)、第18回二科展に「風景」で初入選した。1933年(昭和8年)、大学を卒業し、洋画家を志した。1940年(昭和15年)、二科展で特別賞、1948年(昭和23年)、二科賞を受賞し、1952年(昭和27年)、二科会の会員となった。長年、二科会福岡支部長をつとめ、福岡の洋画壇を牽引した。また、九州文化推進会議の主要メンバーとして貢献し、1967年(昭和42年)に結成された福岡文化連盟の初代理事長となった。1970年(昭和45年)、西日本文化賞を受賞。また、第1回福岡市文化賞を受賞し、その功績が讃えられた。

雄渾な壁画―寺田竹雄
 寺田竹雄(てらだ・たけお、1908−1993)は、中学修猷館を中退してアメリカに留学した。カリフォルニア大学を卒業し、帰国。1936年(昭和11年)、第23回二科展に「アメリカ風景」で初入選した。1945年(昭和20年)、二科会の会員となり、1969年(昭和44年)、「熱い国の女達」で東郷青児賞、1976年(昭和51年)、「アラビアの女」で総理大臣賞を受賞した。また、国立競技場や佐久市庁舎の壁画を手がけるなど、たくましく雄渾な人びとを題材に作品を制作した。その業績により、1983年(昭和58年)、日本芸術院賞を受賞した。

朱貌社―上田宇三郎、赤星孝、久野大正、山田栄二、宇治山哲平
 1946年11月、福岡に「西部美術協会」が結成された。洋画家の坂本繁二郎、岸田勉、彫刻家の冨永朝堂らが創立委員となり、福岡とその周辺の美術家たちが日本画・洋画・彫刻・工芸といったジャンルを越えて参加し、翌年から西部美術展を開催。雑誌「西部美術」を発行した。この活動を通じて自然に親しくなった三十代前半の新進気鋭の美術家が語らって組織したのが「朱貌社」であった。メンバーは5人、すなわち日本画の上田宇三郎(うえだ・うさぶろう、1912−1964)、洋画の赤星孝(あかぼし・たかし、1912−1983)、久野大正(ひさの・ひろまさ1913−1987)、山田栄二(やまだ・えいじ、1912−1985)、宇治山哲平(うじやま・てっぺい、1910−1986)である。彼らは1947年から1953年まで、ほぼ毎年、福岡天神の岩田屋デパートを会場に「朱貌社展」を開催した。結社としての明確な主張は掲げず、お互いの活動を励まし刺激し合って心のささえとした。
 上田宇三郎は福岡市の生まれ。旧制福岡中学を中退し、京都に出て、同郷の帝展系の画家・平川晃生の家に寄宿し日本画を学んだ。戦争末期、戦災に遭って帰郷。戦後は表現派風の日本画家としてユニークな地歩を築いた。
 赤星孝は福岡県糟屋郡古賀町(現在の古賀市)に生まれた。本名は孝夫。福岡中学をへて武蔵野美術大学に進学。1940年、第10回独立展で独立美術協会賞を受賞した。戦後はもっぱら海外で活躍し、1975年、郷里に戻った。
 久野大正は福岡市天神町(てんじんのちょう、現在の中央区天神)の生まれ。大名尋常小学校をへて福岡商業学校を卒業し、戦時中は上海に。敗戦後、帰国し、福岡市内に居住。濃密な抽象的油絵を得意としたが、晩年は水墨画に接近。「如月会」を結成主宰し、ユニークな水墨の世界を披露した。
 山田栄二は福岡市上新川端町の生まれ。冷泉尋常小学校をへて県立中学修猷館を卒業し、1934年、第4回独立展に初入選。1938年の第8回独立展で独立美術協会賞を受賞。晩年はパリに暮らした。ちなみに、山田栄二は戦争末期、陸軍の西部軍報道部に白紙徴用され、「九州文学」同人の火野葦平らと宣伝広報活動に従事し、長崎に原爆が投下された直後、命により詩人の東潤(ひがし・じゅん)、写真家の山端庸介(やまはた・ようすけ)と一緒に被爆地に向かい、30枚近くのスケッチを残している。このスケッチは現在、長崎の原爆資料館に保管されている。
 宇治山哲平は大分県日田市の生まれ。本名は哲夫。旧制日田中学をへて日田工芸学校を卒業し、日田漆器鰍ノ就職。1934年、福岡市立姪浜尋常高等小学校の図画教員となり、福岡市内に転居。翌年、第10回国画会展に木版画を出展し初入選した。1937年、福岡日日新聞社に入社し、整理部絵画班に勤務。戦後は郷里の日田市に戻り、また関西に移住したあと、1961年、大分県立芸術大学教授に招聘され、大分市に転居した。明るいタッチの幾何学的抽象画を得意とした。
 なお、福岡県立美術館図録「上田宇三郎と朱貌社の仲間たち」(1992年)がある。

色彩の躍動するフォルム―寺田健一郎
 寺田健一郎(てらだ・けんいちろう、1931−1985)は福岡市薬院に生まれ、1949年(昭和24年)、西南学院高校を卒業。つづいて西南学院専門学校第2部(夜間)に入学し、西南学院大学商学部に編入学。在学中に美術部に所属し、1953年(昭和28年)、福岡市天神に共同アトリエ「青の家」を構えた。この間、二科展に出品を続け、入選。1957年(昭和32年)頃から菊畑茂久馬らと前衛美術集団「九州派」を結成し、百道(ももち)浜の海の家を借りて共同制作を試みた。読売アンデパンダン展、九州アンデパンダン展、九州派グループ展、九州派街頭展などのイベントに参加する一方、二科展にも出品し、1959年(昭和34年)、第44回二科展で特選を受賞した。九州派を離脱し、その後は、もっぱら二科系の画家として歩み、また、エッセイストとしても活躍したが、1985年(昭和60年)、ガンに冒されて病没した。福岡市美術館図録「寺田健一郎展」(1987年)がある。

奴隷系図―菊畑茂久馬
 菊畑茂久馬(きくはた・もくま、1935− )は長崎市の生まれだが、1941年(昭和16年)、福岡市に移り、市立春吉国民学校に転入学。1947年、市立警固小学校を卒業し、警固中学をへて、1953年、福岡中央高校を卒業。1956年、独立美術展に初入選。1957年、桜井孝身、オチ・オサム、寺田健一郎らと前衛美術家集団「九州派」を結成した。「グループQ18人展」「九州派グループ展」「九州派街頭展」などに参加。1961年、国立近代美術館で開催の「現代美術の実験展」に出品した作品「奴隷系図」で注目され、その後、「天動説シリーズ」などを発表して、福岡市文化賞・福岡県文化賞を受賞した。また、美術評論にもすぐれ、その文業の大半は『菊畑茂久馬著作集』(海鳥社)全4巻に収録されている。北九州市立美術館図録「菊畑茂久馬展」(1988年)などがある。

駆け抜けた前衛―九州派の美術家たち
 1957年(昭和32年)、福岡市とその周辺に在住する美術家たちが、前衛美術集団「九州派」を結成した。メンバーは、桜井孝身(さくらい・こうしん、1928− )、オチ・オサム、菊畑茂久馬(きくはた・もくま)、寺田健一郎、俣野衛(またの・まもる)、働正(はたらき・ただし)、田部(旧姓・石橋)光子(たべ・みつこ、1933− )、山内重太郎(やまうち・じゅうたろう)ら。当時は読売アンデパンダン展を中心とする〈反芸術〉運動が美術界に起こり、関西の「具体美術協会」の活動を先駆として全国各地で前衛美術運動がさかんだった。「九州派」もまた、〈反芸術、反東京、反体制〉を主張し、街頭パフォーマンスを含めて度肝を抜く派手なデモンストレーションを展開した。その軌跡は福岡市美術館図録「九州派展」(1988年)や田代俊一郎著『駆け抜けた前衛―九州派とその時代』(花書院)などに詳しく辿られている。

福岡の日本画―水上泰生、冨田溪仙、横尾芳月、小早川清
 水上泰生(みなかみ・たいせい、1877−1951)は福岡市に生まれ、東京美術学校日本画科に入学した。1913年(大正2年)、第7回文展に「桐」が初入選。翌年の文展には「琉球の花」、翌々年の文展には「樺太の夏」を出品した。写生的な花鳥画を得意とした。
 冨田溪仙(とみた・けいせん、1879−1936)は福岡市に生まれた。元黒田藩御用絵師の衣笠探谷に狩野派の絵画を学び、その後、京都に遊学して、四条派を学んだ。1899年(明治32年)、第7回絵画共進会に「鯉」が初入選し、日本画壇にデビュー。また彼の祖父が交遊したという仙香iせんがい)和尚に傾倒した。彼の画業は横山大観に認められ、また駐日フランス大使の詩人ポール・クローデルと知り合うなど、第一級の近代日本画の描き手として高く評価されている。
 横尾芳月(よこお・ほうげつ、1897− )は美人画の名手。1917年(大正6年)、上京し、第7回帝展に「阿蘭陀土産」が初入選。妖艶な美人画が清新なインパクトを与えた。また、1932年(昭和7年)、福岡出身の画家による「筑前美術会」を結成した。
 小早川清(こばやかわ・きよし、1899−1948)は福岡市に生まれ、19歳のとき上京し、鏑木清方に師事し、美人画を学んだ。1924年(大正13年)、第5回帝展に「長崎のお菊さん」が初入選。異国情緒あふれる美人画を多く描いた。

博多山笠―西島伊三雄
 博多駅筑紫口に三角錐の噴水塔がある。壁面に童心あふれる博祇園山笠の陶板画が描かれている。同じタッチのユニークなポスターや福岡市営地下鉄の駅マークのデザインでも有名なグラフィックデザイナーの西島伊三雄(にしじま・いさお、1923−2001)の作品である。彼は福岡市の生まれ。高等小学校を卒業し、15歳で図案の勉強を始め、1947年(昭和22年)、フリーデザイナーとして独立した。1965年、福岡文化連盟の創立に参加し、また1971年、九州グラフィックデザイン協会を創立。いずれの会でも中心メンバーとして活躍し、福岡博多の庶民文化を愛した。一目見たらわかるほど特徴的な、ほのぼのとした童画が人気を集め、また博多山笠の図に代表される福博の風俗画も多く描いた。『西島伊三雄画文集 すんまっせん』(1993)がある。


〔筑豊地区〕

水墨画の名手―山喜多二郎太
 山喜多二郎太(やまきた・じろうた、1897−1965)は鞍手郡若宮町に生まれ、その後、福岡市に転居。福岡工業学校卒業後、東京美術学校に進学し、同校を卒業した。藤島武二に師事し、1920年(大正9年)、第2回帝展に「子供」が初入選し、1934年(昭和9年)の第15回帝展で、「二人の女」が特選を受賞した。1927年(昭和2年)には中国にも遊学し、洋画に水墨の技法を取り入れた画風を研究。晩年は水墨画に持ち味を発揮した。また、戦後は光風会の理事や審査員を歴任した。

都会の憂愁―織田廣喜
 織田廣喜(おだ・ひろき、1914− )は嘉穂郡の生まれ。1932年(昭和7年)、上京し、日本美術学校に入学。卒業後の1926年(大正15年)、二科展に「未完成」を出品し、初入選した。1968年(昭和43年)、第53回二科展に「小川の女たち」「サンドニの少女」に出品し、総理大臣賞を受賞した。都会的でロマンティックな作風で、国際的にも活躍した。

>織田廣喜美術館>>★写真

四百字のデッサン―野見山暁治
 野見山暁治(のみやま・ぎょうじ、1921− )は嘉穂郡穂波町に生まれ、東京美術学校油絵科を卒業した。在学中の1942年(昭和17年)、第20回春陽会展に「髪をすく少女」が初入選。フォービズム的な作風を示したが、戦後はキュービズム的な作風に変化し、第12回自由美術家協会展に「鰍C峡」を出品し、協会賞を受賞。さらに1958年(昭和33年)、「岩上の人」で第2回安井賞を受賞した。以後、国際的に活躍し、1968年(昭和43年)、東京芸術大学助教授(のち教授)となった。小説やエッセイにも才能を発揮し、エッセイ集『四百字のデッサン』(1978年)で第25回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。『祈りの画集―戦没画学生の記録』(1977年)などの共著もある。

炭坑画―山本作兵衛、千田梅二
 山本作兵衛(やまもと・さくべえ、1892−1984)は嘉穂郡笠松村鶴三緒の生まれ。父親は石炭運搬の川舟の船頭だった。立岩尋常小学校を卒業し、飯塚高等小学校を中退。まもなく筑豊の炭鉱で炭坑夫となり、以後、あちこちのヤマで働いた。幼い頃から絵が好きで、暇を見つけてはよく絵を描いたいたという。晩年は自分の孫に炭鉱生活の様子を伝えたいという動機から、仕事の合間をみつけて画用紙に向かった。技法的には稚拙なものだが、巧まずして独特の世界が表現されており、炭坑夫の魂の記録として、筑豊の記録作家の上野英信、田川図書館長の永末十四雄(ながすえ・としお)、画家で評論家の菊畑茂久馬らによって高く評価され、世間の注目を浴びた。山本作兵衛の絵は田川市石炭資料館に多く収集保存されている。
 千田梅二(せんだ・うめじ、1920−1997)は富山市の生まれで、中川一政に師事して画家を志望したが、戦争によって中断。戦後、筑豊の炭坑夫となり、また上野英信と知り合っても、手づくりの共著『絵ばなし集 せんぷりせんじが笑った!』(1954年)『ひとくわぼり』(1955年)を上梓し、また坑内唄を採録した木板画集『炭坑仕事唄板画巻』(1956年)を作製し、注目された。
 このほか筑豊の炭坑画家としては、井上為次郎(いのうえ・ためじろう、1898−1970)、島津輝雄(しまづ・てるお、1927−1975)、うえだひろし(1933− )らがいる。井上為次郎は宗像市南郷の生まれ。炭坑労働者自身が労働現場を絵画で表現した最初の一人といわれる。島津輝雄は飯塚市二瀬の人。鞍手町の室井鉱業新目尾(しんしゃかのお)鉱の坑内現場係をつとめ、閉山後、記録画に取り組んだが、48歳で死去。うえだひろしは熊本県球磨郡の出身。日炭高松炭鉱の炭坑夫となり、上野英信・千田梅二らと出会って文化運動に参加した。図録「ヤマの記録者たち」(福岡県鞍手町歴史民俗資料館、1993年)がある。

>山本作兵衛>>作兵衛写真集 ★写真
>田川市石炭資料館 ★写真
 田川市大字伊田の三井田川炭鉱伊田坑跡地は現在、石炭記念公園として整備されており、敷地内に田川石炭資料館がある。鉄筋コンクリート二階建で、一階の展示室には炭鉱で使用された採掘用具や機械や炭鉱労働者の坑内再現人形などがあり、二階には山本作兵衛の絵や昭和初期の挿絵画家の斎藤五百枝(さいとう・いおえ)の炭鉱漫画などが展示されている。ちなみに、この三井伊田坑は大煙突をそなえ、「炭鉱節」発祥の地としても知られる。
 なお、鞍手郡宮田町には貝島大之浦炭鉱の広大な露天掘跡地があり、現在は満々と水を溜めた池になっている。近くに宮田町石炭記念館(宮田町大字上大隈573)がある。かつて貝島炭鉱が設立した私立大之浦小学校の校舎跡を再利用した建物である。直方市には「直方石炭記念館」(直方市山部御館山692‐4)がある。建物は1910年(明治43年)に建設された筑豊石炭鉱業組合直方会議所(のち筑豊石炭組合救護訓練所としても利用)を修理復元した木造二階建。石炭関係の資料が収集展示されている。田川郡方城町には「旧三菱方城鉱業所赤レンガ建物群」が記念館として保管されており、嘉穂郡穂波町大字平常にはレンガ造りの巨大な巻き上げ機台座が町指定有形文化財として残されている。


〔北九州地区〕

フューザン会―山下鉄之助
 山下鉄之助(やました・てつのすけ、1887−1969)は企救郡(現在の北九州市)に生まれ、豊津中学に進学したあと、1907年(明治40年)、上京して東京美術学校に入学。同級に萬鉄五郎らがいた。卒業後、帝国劇場の舞台装置を担当し、また、武者小路実篤らとも交遊し、1912年(大正元年)、萬鉄五郎らのフューザン会の創設に参加した。1916年(大正5年)、大分県立大分中学に赴任し、同校に在職中、教え子に佐藤敬や林房雄らがいた。この間、帝展に入選3回。戦後は民間の絵画サークルの指導をし、後進の育成に専念した。

花と女性―田中繁吉
 田中繁吉(たなか・しげきち、1898−1994)は、遠賀郡芦屋町の地主の家に生まれ、東筑中学(現在の東筑高校)に入学。さらに東京美術学校に進学し、油絵を専攻した。1922年(大正11年)、「ロミちゃんの庭」で帝展に初入選を果たし、1926年(大正15年)から2年間、フランスに留学。キスリングの影響を受け、花や、豊満な女性像を好んで描いた。1933年(昭和8年)、「三人裸像」で帝展特選となった。

マヴォの闘士―柳瀬正夢
 柳瀬正夢(やなせ・まさむ、1900−1945)は、本名は正六(まさむ)、愛媛県松山市に生まれた。1911年(明治44年)、門司市に転居し、私立門司尋常小学校に転入。1914年(大正3年)、上京して日本水彩画会研究所で学び、同年、日本水彩画展に入選した。翌年、家族の生計を助けるため門司に呼び戻されたが、第2回院展に「光りと風の流れ」が初入選。1918年(大正7年)、画家への情熱が再燃して再度上京、本郷洋画研究所で学んだ。読売新聞社で政治漫画などを書き、また、未来派美術協会に参加。1923年、ドイツから帰国した前衛派の村山知義を中心に尾形亀之助らと前衛美術団体「マヴォ」を結成し、翌年、雑誌「マヴォ」を創刊した。

シュールな世界―寺田政明、多賀谷伊徳、田渕安一、平野遼
 寺田政明(てらだ・まさあき、1912−1989)は八幡市の出身で、上京して太平洋美術学校で学んだ。松本竣介や麻生三郎らと知り、1932年(昭和7年)、第2回独立展に「風景B」が初入選した。以後、「エコル・ド・東京」(1936年)、「創紀美術協会」(1938年)、「美術文化協会」(1939年)、「新人画会」(1943年)などの団体の結成に参加し、戦後は自由美術家協会に参加して作品を出展した。1964年(昭和39年)、主体美術協会を結成し、その超現実主義的な世界を探究しつづけた。
 多賀谷伊徳(たがや・いとく、1918−1995)は、田中繁吉と同郷の芦屋町の生まれ。独学で油絵を描き始め、また、差別反対ストライキに加わって東筑中学を退学した。1936年(昭和11年)、「新九州美術協会」を組織し、2年後、寺田政明を頼って上京した。「池袋モンパルナス」とよばれる画家集団と交遊し、1939年(昭和14年)、第9回独立展に「気穴持つ生物」を出品し初入選した。シュールリアリズムの作風が持ち味で、戦後は東京中心の画壇を去って、郷里とヨーロッパを頻繁に往復し、独自の世界を展開した。
 田渕安一(たぶち・やすかず、1921− )は、小倉市(現在の北九州市)に生まれた。1945年(昭和20年)、東大に入学し、美術史を専攻。猪熊弦一郎に師事し、1947年(昭和22年)、第11回新制作展に初入選し、第13回新制作展に出品した「腰掛けた三人」で岡田賞を受賞した。その後、フランスのソルボンヌ大学に留学し、表現主義的な抽象画を描いた。
 平野遼(ひらの・りょう、1925−1992)は、1949年(昭和24年)、第13回新制作展に「やまびこ」で初入選を果たし、翌年、帰郷して小倉にアトリエをもった。1967年(昭和42年)、安井賞展に出品した頃から注目を集め、やがて無所属の画家として中近東の砂漠をテーマに独自の領域を開発していった。


〈彫刻〉
彫刻の世界―山崎朝雲、中野素昂、冨永朝堂、原田新八郎、豊福知徳
 山崎朝雲(やまさき・ちょううん、1867−1954)は幕末の博多櫛田前町(現在の福岡市博多区)に生まれ、維新後の1884年(明治17年)、市内の仏師・高田又四郎について彫刻を学び、やがて京都に出て独立して仏師となった。以後、1895年(明治28年)の第4回内国勧業博覧会に出品した「養老孝子」が高村光雲に認められ、1896年(明治29年)、上京して高村光雲に入門。翌年、「朝雲」の号を用いて日本美術協会展に出品し、入選した。1898年(明治31年)、東京彫工会彫刻会競技会に出展した「母子」で金賞を受賞して脚光を浴びた。その後、福岡市東公園内の「亀山上皇像」の木彫原型「元寇記念像」を制作し、また岡倉天心を会長とする日本彫刻会の結成に参加した。文展審査員、帝展審査員を歴任し、1927年(昭和2年)、帝国美術院会員となり、1934年には帝室技芸員に推された。戦後は日本芸術院会員となるなど、日本木彫界の第一人者として活躍し、1954年(昭和29年)、東京で没した。
 中野素昂(なかの・そこう、1897−1985)は豊前市の出身で、東京美術学校彫刻科を卒業。同校の先輩で、後年、長崎原爆公園の平和祈念像をつくる北村西望(きたむら・せいぼう)らに親しみ、1928年(昭和3年)、第9回帝展に「立命」で初入選した。官展系の彫刻家として有名で、代表作に東京豊島区役所にある「希望」、北九州市戸畑区大橋公園の青年像「大気」などがある。
 冨永朝堂(とみなが・ちょうどう、1897−1987)は福岡市に生まれた。上京して山崎朝雲に師事し、1919年(大正8年)、日本美術協会展に初入選。1924年(大正13年)、第5回帝展に木彫「雪山の女」を出品して初入選し、以後、官展に出品をつづけた。もっぱら歴史的な題材を扱い、1932年(昭和7年)の第13回帝展では「五比売命」で特選を受賞。翌年の第14回展でも「踊女」で特選を獲得し、以後、無鑑査出品の資格を得た。戦後は郷里に住み、日展に出品をつづけ、1958年(昭和33年)、日展会員となった。禅や茶道に親しみ、その精神を生かして創作し、晩年は九州産業大学教授をつとめるなど、後進の育成に力を注いだ。
 原田新八郎(はらだ・しんぱちろう、1916−1989)は、糸島郡前原町(現在の前原市)の生まれ。東京美術学校彫刻科を卒業し、1942年(昭和17年)、「若い男」で第5回文展に初入選。戦後は日展に入選をかさね、1958年(昭和33年)、無鑑査となった。福岡市内の平尾山荘にある野村望東尼のブロンズ像は彼の1968年(昭和43年)の作品である。
 豊福知徳(とよふく・とものり、1925− )は久留米市に生まれ、戦後、彫刻家を志して冨永朝堂に師事した。1950年(昭和25年)、新制作派展に「男のトルソ」で初入選を果たし、2年後に上京。1957年(昭和32年)、新制作協会の会員となった。1960年(昭和35年)、ベネチア・ビエンナーレ展に出品のためイタリアに渡り、そのままミラノに定住した。以後、国際的な舞台で活躍し、数々の賞も獲得している。


〈工芸〉
伝統陶芸の世界―上野焼、高取焼、小石原焼、その他
 福岡県下で代表的な伝統陶芸は上野焼(あがのやき)と高取焼(たかとりやき)である。豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際に日本に連れてきた朝鮮人陶工たちを始祖とする窯で、ともに日本三大茶人の一人の小堀遠州が好んだ「遠州七窯」の一つに数えられている。上野焼は、豊前小倉藩主で、千利休から茶禅の道を学んだ茶人大名の細川忠興(ほそかわ・ただおき)が1602年(慶長7年)、釜山出身の陶工・尊楷に命じ、御用窯としてつくらせた。1632年(寛永9年)、細川氏が熊本に転封となったので尊楷は陶工を二分し、上野には三男の十時孫左衛門らを残した。細川氏のあとを受けて小倉藩主となった小笠原忠真(おがさわら・ただざね)も上野焼を藩の御用窯として庇護し、江戸時代を通じて繁栄した。明治維新で藩の庇護がなくなって衰退したが、第二次大戦後、復興の気運が高まり、今日の隆盛に至っている。
 高取焼は黒田長政が朝鮮から連れてきた陶工の八山(のち高取八蔵重貞と改名)に命じてつくらせた窯である。発祥の地はは直方市鷹取山の麓の永満寺宅間窯(直方市大字永満寺字宅間)で、のち高取山北川渓谷の内ケ磯(直方市大字頓野字二ノ瀬)、さらに山田市唐人谷の山田窯へと移った(この三代の陶器は「古高取」とよばれる)。1630年(寛永7年)には飯塚市大字中の白旗窯に移り、小堀遠州が好んだのはこの白旗窯製のものである。その後、さらに変遷をかさねて、朝倉郡小石原村の鼓窯、福岡市早良区田島の大鋸谷窯、同早良区鹿原皿山の東皿山窯となったが、いずれも明治の廃藩置県で庇護を失い、しだいに衰退した。現在、福岡市早良区にある高取焼は市の無形文化財に指定されている。
 小石原焼の起源は、はっきりしない。古くから英彦山権現の器を焼いていたという説のほか、高取焼の三代目・八之丞が飯塚市の白旗山窯から移ってきたとする説、黒田藩主の黒田光之が伊万里から陶工をつれてきて開かせたとする説の三つがある。現在の小石原村には小石原焼51軒、高取焼3軒の窯元があり、五月の連休と十月十日前後に開催される「民陶村祭り」はおおぜいの客をよび、にぎわっている。
 その他、朝倉郡夜須町の安野焼は明治4年、大内久三郎が田川市に開窯し、直方市をへて昭和18年、夜須町に移転した。筑後市の赤坂焼は1812年(文化9年)、次郎吉が筑後赤坂(現在の筑後市羽犬塚)に開窯したのがはじまりとされ、1827年(文政10年)久留米の有馬藩の御用窯となって栄えた。浮羽郡浮羽町の一の瀬焼(朝田焼とも)は文禄・慶長の役の際に朝鮮人陶工を連れてきて開いたとする説と、伊藤五郎太夫が明(中国)から磁器の製法を学んで帰り、窯を開いたとする説がある。八女郡星野村の星野焼(十籠焼とも)は八女地方特産の茶葉を保存する葉茶壺の製作で発展したが、近代になって衰退し、1969(昭和44)再興された。このほか山門郡瀬高町と柳川市に窯元のある蒲池焼(柳川焼とも)。北九州市の企救焼は上野焼の流れをくむ窯で、起源も上野焼と同様に古い。三池郡二川町の二川焼は江戸時代末頃に肥前の陶工がはじめたと伝えられる。柳原焼は久留米藩主9代目・有馬頼徳の御庭窯。わずかの期間で廃絶した。

>高取山 ★写真
 高取山(標高631メートル)は直方市と田川郡赤池町の境に位置し、山頂には黒田藩の国境警備目的の六端城の一つ、高取城があった。「黒田節」で有名な黒田藩の重臣・母里太兵衛(ぼり・たへえ、もり・たへえ、?‐1615)が城主だった。高取城は幕府の一国一城令(1615年)で取り壊された。
>小石原焼伝統産業会館 ★写真
 小石原焼と高取焼の古窯が展示されており、また工房の再現や技法の紹介などの施設がある。窯元の作品も多数展示されており、陶芸の体験工房も用意されている。

近代陶芸の精彩―滝一夫、城下久実、高鶴元
 滝一夫(たき・かずお、1910−1973)は父親の任地の糸島郡一貴山村(現在の二丈町)で生まれ、県立中学修猷館を卒業後、上京。1938年(昭和13年)、東京美術学校彫塑科を卒業した。商工省陶磁器研究所瀬戸試験場や京都市陶磁試験場で釉薬(ゆうやく)の研究に従事。1940年(昭和15年)、紀元二千六百年奉祝美術展の工芸部に入選した。戦後の1950年、パリのチェルヌスキー美術館で開催の現代日本陶芸展に作品「黒象嵌掻落仏像文化瓶」を出品し、一躍脚光を浴びた。1952年、商工省陶磁器研究所を退職し、同年、第1回現代日本陶芸展で朝日新聞社賞を受賞。1954年、日展特選。翌年、北斗賞を受賞した。1956年、佐賀大学助教授となり、2年後、教授昇格。
城下久実(しろした・ひさみ、1920−1977)は久留米市の生まれ。県立中学明善校(現在の明善高校)に入学後、大阪に引っ越し、四条畷中学を卒業。上京して東京美術学校彫塑家塑像部に入学し、1944年卒業。1953年、福岡県展彫刻部で県知事賞を受賞。その後も日展工芸部、日本現代工芸美術展に初入選。のち日本現代工芸美術家協会の会友になった。1968年の九州現代工芸美術展第1回展以後、同展の審査員となり、また大学の講師もつとめて後進の育成に貢献した。
 高鶴元(こうづる・げん、1938− )は、田川郡赤池町の上野焼の窯元の家に生まれた。1957年、佐賀県立有田工業学校窯業科を卒業し、家業を継いだ。1960年、新日展に初入選。1965年、独立し、糟屋郡久山町に自分の窯を開いた。1967年、西部工芸展で日本工芸会賞を受賞。1968年と1969年、2年連続して日本伝統工芸展で日本工芸会長賞を受賞し、日本工芸会の会員となった。1970年、毎日陶芸展で大賞を受賞。1975年、日本陶磁協会賞を受賞。1980年、アメリカのハーバート大学に招待されて陶芸の指導に出かけるなど、国際的に活躍。大胆なアイデアのなかに伝統工芸の技術を生かし、各地の美術館やホールなどで彼のインパクトのある作品を目にすることができる。


〈漫画〉
漫画家王国―長谷川町子、松本零士、萩尾望都、長谷川法世、小林よしのり
 福岡県は漫画家王国である。いま簡単に名前だけ列挙しておくと、「サザエさん」の長谷川町子、「男おいどん」や「銀河鉄道999」の松本零士、「ポーの一族」の萩尾望都、「博多っ子純情」の長谷川法世、「おぼっちゃまくん」「ゴーマニズム宣言」の小林よしのり、「クッキング・パパ」のうえやまとち、「マカロニほうれん荘」の鴨川つばめ、「まんだら屋の良太」の畑中純、「JUNK BOY」の国友やすゆき、「湘南爆走族」の吉田聡、「ハートカクテル」のわたせせいぞう、「CITY HUNTER」の北条司らがいる。このメンバーを見ただけで、いかに福岡県が現代漫画界に優秀な人材を輩出しているかがわかるだろう。

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[芸能・音楽]

●オッペケペ節―川上音二郎
●浪曲師―桃中軒雲右衛門
●草創期の映画人―大河内伝次郎、杉狂児
●破天荒な映画人―古海卓二
●映画スター―高倉健、草刈正雄、陣内孝則
●新劇人、絵本作家―米倉斉加年
●マルチ演劇人―つかこうへい
●童謡のまち―河村光陽
●日本の歌謡曲―古賀政男、中村八大、大川栄作
●歌手・タレント王国

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オッペケペ節―川上音二郎
 1888年(明治21年)秋、大阪千日前の寄席で、一人の男が風変わりな唄を大声で歌った。男は、後ろ鉢巻きを締め、派手な陣羽織を着用し、日の丸の扇子(せんす)を振っている。こんな歌詞である。
  権利幸福嫌いな人に 自由湯をば飲ませたい
  オッペケペ オッペケペ オッペケペッポーペッポッポー
  堅い上下(かみしも) 角とれて マンテルズボンに人力車
  貴女や紳士のいでたちで 外面(うわべ)の飾りはよいけれど
  政治の思想が欠乏だ 天地の真理がわからない 心に自由の種をまけ
  オッペケペ オッペケペッポーペッポッポー
 この男は川上音二郎(かわかみ・おとじろう、1864−1911)、芸名を「自由亭○○(まるまる)」といった。芸名からして人をくっている。政府の権力や、金持ちの横暴、旧時代の因習を痛烈に皮肉り揶揄(やゆ)する歌詞に、観客は大喜びである。やがてこのオッペケペ節は全国に流行し、文明開化の明治の御代に、一世を風靡する。
 川上音二郎は幕末、福岡藩の博多対馬小路(つましょうじ)の船問屋の子に生まれた。家出して維新後の東京に向かい、やがて自由民権運動に奔走し、自由党の壮士として関西や九州で演説をして回った。しばしば逮捕入獄されたが、運動が下火になると、大阪で落語家に入門し、寄席の高座に座った。オッペケペ節はこのとき思いついたものである。歌詞は友人の壮士演説の内容を借用し、歌う節(ふし)は先輩落語家のものを真似たという。
 ついで音二郎は一座を結成し、壮士芝居を試みた。関西では失敗したが、東京に進出したところ、大入り満員の大成功をおさめた。福岡出身の貴族院議員・金子堅太郎も応援し、壮士芝居流行の時代をつくったが、やがて下火になり、音二郎は欧米巡業を計画。宴席で知り合った芸妓・奴(やっこ)を舞台に起用し、貞奴という芸名をつけた。1899年(明治32年)、一座は神戸港を出航し、アメリカ各地で巡業したあと、ロンドン、パリとまわって大成功をおさめ、1年半後に帰国した。帰国後はシェークスピアの「オセロ」や「ベニスの商人」の翻案劇を上演し、これが日本の新派劇の源流となった。

>オッペケペ節 ★写真(花田所有)

浪曲師―桃中軒雲右衛門
 九州博多は商人の町。日本有数の芸どころ。博多で成功すると全国で成功する、と芸人は評判した。浪曲師の桃中軒雲右衛門(とうちゅうけん・くもえもん、1873−1916)は群馬の生まれだが、芸を磨こうと、1902年(明治35年)、博多に乗り込んだ。熊本出身のアジア主義者・宮崎滔天(みやざき・とうてん)が東京で雲右衛門に弟子入りし、九州博多へ行くよう手びきしたのである。当時、九州では、熊本出身の軍談語り・美当一調(びとう・いっちょう)が大活躍中で、雲右衛門は彼をライバルとし、芸をみがいた。雲右衛門の芸は博多でも好評で、約3年間、在福した。

草創期の映画人―大河内伝次郎、杉狂児
 大見得を切る国定忠治の役で一躍有名になった大河内伝次郎(おおこうち・でんじろう、1898−1962)は、築上郡岩屋村(現在の豊前市)の出身である。1925年(大正14年)、マキノ御室撮影所の製作映画でデビューした。当初の芸名は室町次郎。伊藤大輔監督とのコンビで「忠治旅日記」3部作に出演し、一躍、人気スターとなり、国定忠治シリーズは日本映画史上に残る名作との評判をとった。戦後は脇役として活躍し、生涯の出演総数は約300本にのぼる。
 杉狂児(すぎ・きょうじ、1903−1975)は福岡市地行の生まれ。本名は杉禎輔。中学を中退して上京し、奇術師の松旭斎天勝の一座に入門したが、関東大震災後、マキノ等寺院撮影所に入社した。翌年、東亜キネマ映画に杉京二の芸名でデビュー。1925年(大正14年)の「踊れ若者」で初主演。同年、マキノ映画「或る日の仇討」に主演する際、芸名を杉狂児と改め、以後、コメディアン的な演技を得意とした。その後、撮影所をいくつか替わり、1932年(昭和7年)、日活に移籍し、「のぞかれた花嫁」など歌謡映画がヒットし、人気スターとなった。

破天荒な映画人―古海卓二
 古海卓二(ふるみ・たくじ、1894−1961)は北九州市八幡出身の映画監督。オペラの台本書きからスタートし、27歳で映画監督。以後、43歳までに計70本近い映画を撮影したといわれる。1920年(大正9年)、人気女優の紅沢葉子と結婚し、横浜の自宅には内田吐夢、岡田時彦らが寄宿し、さながら梁山泊の観を呈したという。いくつもの映画会社を渡り歩き、1931年の市川歌右衛門プロの争議の際は右翼と日本刀でわたりあい、解雇されるなど、派手な騒動を立てつづけに起こした。牧野教育映画に招かれて京都に移ったが、やがて牧野省三と対立し、その後は流浪の人生を送った。第二次世界大戦末期には陸軍の西部軍管区報道部に白紙徴用され、火野葦平らと一緒に活動した。火野葦平の長篇小説『革命前夜』には彼をモデルにした人物も登場する。

映画スター―高倉健、草刈正雄、陣内孝則
 「日本侠客伝」、「網走番外地」、「幸福の黄色いハンカチ」、いずれも高倉健(たかくら・けん、1931− )の主演映画の題名である。無口で不器用で誠実で、かけがえのない存在感のある演技、それが彼の魅力だろう。彼は中間市の出身。東筑高校をへて明治大学を卒業し、1955年(昭和30年)、東映に入社した。東映製作の〈任侠シリーズ〉の看板スターとなり、ストイックなヒーローの役がよく似合う。
 草刈正雄(くさかり・まさお、1952− )はファッション・モデル出身のTVタレントで、映画俳優として活躍している。小倉市(現在の北九州市)の生まれで、小倉西高校定時制を中退し、上京。父親はアメリカ軍人で朝鮮戦争で死亡し、中学時代に新聞配達をするなど生活苦をしいられた。1969年(昭和44年)、モデルにスカウトされ、エキゾチックな風貌が人気を呼んだ。テレビではCMタレントとして売り出し、映画は1974年(昭和49年)、「卑弥呼」でデビュー。「神田川」「沖田総司」などで好演し、人気スターとなった。
 陣内孝則(じんない・たかのり、1958− )は大川市の出身。1980年(昭和55年)、ロック・グループ「ザ・ロッカーズ」を結成し、歌手デビュー。2年後、石井聰互(いしい・そうご)監督作品「爆裂都市」で映画初主演。以後、ミュージカルにも出演し、マルチ・タレントとして活躍している。

>石井聰互
 1957年(昭和32年)、福岡市生まれ。映画監督。日本大学芸術学部中退。「逆噴射家族」で第8回サルソ映画祭グランプリを受賞した。

新劇人、絵本作家―米倉斉加年
 俳優で絵本作家の米倉斉加年(よねくら・まさかね、1934− )は福岡市の出身。劇団民芸の演劇研究所に学び、1964年(昭和34年)以来、劇団民芸に所属。「桜の園」「ゴドーを待ちながら」などの舞台演劇に出演する一方、テレビ・ドラマ、映画でも活躍し、また絵本作家としても才能を発揮している。

マルチ演劇人―つかこうへい
 つかこうへい(つか・こうへい、1948− )は、「つかこうへい劇団」を率いる演劇人であり、また小説『蒲田行進曲』(1981年)で直木賞を受賞した作家でもある。在日韓国人2世として嘉穂郡嘉穂町に生まれた。本名は金原峰雄。慶応大学文学部を中退したが、在学中から学生演劇に熱中し、1970年(昭和45年)、「郵便配達しばし」でデビュー。2年後、「熱海殺人事件」で岸田戯曲賞を最年少で受賞した。喜劇仕立ての芝居のなかに、庶民の哀感、若者の誠実な情熱、人間のやさしさが盛り込まれているのが、つかの演劇の魅力といえる。

童謡のまち―河村光陽
 童謡「かもめの水兵さん」で有名な作曲家の河村光陽(かわむら・こうよう、1897−1946)は赤池町の出身。小倉師範学校を卒業し、1933年、「日本旋律による童謡作曲の仕方」を出版。1930年以降、NHKで童謡の作曲・編曲・指揮に携わり、のちコロムビア、ポリドールの専属をへてキングレコードの専属となった。「かもめの水兵さん」「仲よしこみち」「グッドバイ」「船頭さん」「リンゴのひとりごと」「うれしいひな祭り」「赤い帽子白い帽子」などの作曲家として有名だ。ちなみに彼の娘は河村順子(かわむら・じゅんこ、1925− )。幼いころ、「かもめの水兵さん」を歌って人気者となった。彼の出身地・赤池街は、町制施行50周年を迎えた1988年、「童謡のまち」を宣言。毎年「童謡まつり」を開催し、焼き物と童謡の里づくりを目指している。

>「かもめの水兵さん」 ★赤池町にある「かもめの水兵さん」の歌碑の写真

日本の歌謡曲―古賀政男、中村八大、大川栄作
 ギターの音色を響かせる古賀メロディは、もはや日本の歌謡曲の代表となった観がある。1931年(昭和6年)、佐藤千夜子の歌で「影を慕いて」をレコーディングし、さらに日本コロンビアから、「酒は涙か溜息か」「キャンプ小唄」「影を慕いて」を藤山一郎の歌で吹き込み、これがヒットする。作曲家・古賀政男(こが・まさお、1904−1978)の誕生である。
 古賀政男は大川市の出身。幼くして父親が亡くなり、兄を頼って京城(現在のソウル)に行き、1923年(大正12年)、明治大学に入学。在学中、流行のマンドリン・クラブを組織した。「影を慕いて青鞜」などのヒットで日本コロンビア専属の作曲家となり、1940年(昭和15年)、「誰か故郷を思わざる」が大ヒット。戦後も、「湯の町エレジー」(歌・近江俊郎)「トンコ節」(歌・久保幸江ほか)「ゲイシャワルツ」(歌・神楽坂はん子)などのヒット曲を量産し、1959年(昭和34年)、日本作曲家協会長に選出された。現在、郷里の大川市大字三丸の生家近くに「古賀政男記念館」がある。
 中村八大(なかむら・はちだい、1931−1992)は、中国の青島の生まれで、小学校時代は東京で過ごし、敗戦とともに久留米市に引き揚げた。その後、上京して早稲田高等学院に編入し、早大に進学。在学中から天才ジャズ・ピアニストと注目された。卒業後、永六輔と知り合い、1959年(昭和34年)、永六輔の詞と中村八大の作曲で「黒い花びら」を完成し、当時若きロカビリー歌手だった水原弘に歌わせてレコーディングした。これで第1回日本レコード大賞を受賞。さらに、坂本九の歌う「上を向いて歩こう」(1961年)、梓みちよの歌う「こんにちは赤ちゃん」(1963年)などのヒット曲を産んだ。
 演歌歌手の大川栄作(おおかわ・えいさく、1948− )は、古賀政男と同郷の大川市の出身。18歳で古賀政男の内弟子となり、1969年(昭和44年)、「目ン無い千鳥」をリバイバル・リリースしてヒット。その後、彼の33枚目のレコード「さざんかの宿」が大ヒットし、演歌歌手として不動の地位を獲得した。

>古賀政男記念館 ★記念館の写真 ★「影を慕いて橋」の写真
 大川市は古賀メロディによるまちづくりをすすめており、市内にはセンサーにふれると古賀政男の作曲したメロディが聞こえる「影を慕いて橋」や「丘を越えて橋」などがある。

歌手・タレント王国
 福岡県出身の歌手、タレント、俳優は、きわめて多い。名前だけ列挙すると、女性の歌謡曲歌手では赤坂小梅(川崎町)、中尾ミエ(福岡市)、小柳ルミ子(福岡市)、西川峰子(赤村)、松田聖子(久留米市)、森口博子(福岡市)、酒井法子(福岡市)、中村あゆみ(福岡市)、氷川きよし(福岡市)、浜崎あゆみ(福岡市)。男性では井上陽水(糸田町)、郷ひろみ(須恵町)、チューリップの財津和夫(福岡市)、海援隊の武田鉄矢(福岡市)、甲斐バンドの甲斐よしひろ(福岡市)、チャゲ&飛鳥のチャゲ(北九州市)と飛鳥涼(大野城市)、チェッカーズ(久留米市)らがいる。
 映画俳優では天本英世(北九州市)、千葉真一(福岡市)、横内正(北九州市)、細川俊之(北九州市)、生田悦子(福岡市)、白都真理(福岡市)、黒木瞳(黒木町)、富田靖子(志免町)、鳥越マリ(福岡市)、牧瀬里穂(福岡市)。タレントでは小松政夫(福岡市)、タモリ(福岡市)。その他、講談師の神田紅(福岡市)、ジャズ・ピアニストの山下洋輔も少年時代の一時期を田川市で過ごした。また、MISIA、椎名林檎、広瀬香美らも福岡出身の人気歌手として若者たちに人気がある。