スカラベの思想

退屈な光景

 近来の社会は情報が高度化し、交通機関が飛躍的に発達したため、世界や日本の各地域は急速に均質化して、のっぺらぼうになったのだという。そうかも知れない。けれども、そうとだけいって、それですむのか。
 わたしたちの住む場所のすぐ隣の地域にも、見知らぬ光景は、ふんだんにあるのではないか。そこには、そこの空間がひろがり、そこの歴史の時間の堆積があって、そこだけの個性が息づいている。それなのに、それがそうと見えないのは、じつは場所の均質化の問題などではなく、わたしたちの視線の側に、より根本的な原因があるのではないか。
 テレビが「ふるさと」の自然や風物をレポートし、タウン誌が「都市」の情報をたれ流してくる。自治体や観光地の案内パンフレットを見るがいい。みんながマス・メディア作成のレディ・メイド視線を借用して自己紹介しているものだから、どれもが同じようにしか見えてこない。なんて退屈な光景なのだろう。
 つまり、退屈なのは、わたしたちの住んでいる場所ではなくて、わたしたちのステロタイプ化された均一な視線なのである。鋳型どおりのパンフレット視線で眼前の風景を眺め、新聞テレビの解説どおりに社会や世界を把握し、ハウツー人生論をまねて自分の人生を粉飾する。レディメイドのステロタイプ人生は、さしあたり安楽だろうだが、あくびがでるほど退屈きわまりなく、息がつまる。

〈円〉と〈楕円〉

 なんでこうなるのか。動物集団にボスがいるのと同じく、ヒト共同体にも統括機能をもつ中心点は必要なのだろう。そこで王様が登場したり、首都が出現したり、マス・メディアが誕生することになるが、それらが単独で肥大化しすぎると(ナチスの帝国みたいに)、はなはだ危険である。異物を混入しないヒト共同体は必ずや崩壊する。
 批評家の花田清輝は戦時下に執筆したエッセイ「楕円幻想」のなかで、中心点が一つしかない〈円〉よりも、二つの中心点をもつ〈楕円〉の魅力を語っている。

 「いうまでもなく楕円は、焦点の位置次第で、無限に円に近づくこともできれば、直線に近づくこともできようが、その形がいかに変化しようとも、依然として、楕円が楕円である限り、それは、醒めながら眠り、眠りながら醒め、泣きながら笑い、笑いながら泣き、信じながら疑い、疑いながら信ずることを意味する。これが曖昧であり、なにか有り得べからざるもののように思われ、しかも、みにくい印象を君にあたえるとすれば、それは君が、いまもなお、円の亡霊に憑かれているためであろう。焦点こそ二つあるが、楕円は、円と同じく、一つの中心と、明確な輪郭をもつ堂々たる図形であり、円は、むしろ、楕円のなかのきわめて特殊のばあい――すなわち、その短径と長径ととがひとしいばあいにすぎず、楕円のほうが、円よりも、はるかに一般的な存在であるともいえる。ギリシア人は単純な調和を愛したから、円をうつくしいと感じたでもあろうが、、楕円の複雑な調和のほうが、我々にとっては、いっそう、うつくしい筈ではなかろうか」。

 一つの中心点が「きわめて特殊」な〈円〉を描かないためには、もう一つの中心点に、それに拮抗する力がそなわっていなければならない。そうやって二つの異なる中心点が拮抗しつつ連係したとき、いびつな〈円〉が修正されて、もっと自然な〈楕円〉が復活する。「矛盾しているにも拘らず調和している」、そういう〈楕円〉社会のことである。
 かりそめにいま手書きで、まるく円を描いてみるといい。必ずやそれは楕円になっているだろう。コンパスなどの機器を使用しないかぎり、純粋な〈円〉は描けない。そのように、わたしたちが自分の身体を寄せ合って共同体を形成しようとするなら、やはり〈楕円〉社会となるのが、「はるかに一般的」なのである。

スカラベ・サクレ

 二つの異質な中心点をもつ〈楕円〉社会を形成するため、もう一つの中心点に力をつける必要があるとして、では、その力はどうしたらつくか。おそらく今日にあっては、自前の情報量の多寡がそれを決定する。いかに自前の情報を集積し、自前のデータ・ベースを作成し、それを外側へと発信していくかが、中心点の力の正体なのである。
 「中央」の情報(=力)を「地方」がコピーしたり、「地方」の情報(=力)を「中央」が無視したり身勝手にアレンジする。地方分権などと称してミニ政権の独立を夢見たり、「ホタルの里」などと名乗って「ふるさと創生」しても、それは中央(=都市)の、しょせん補償機能でしかない。無意識に、いわゆる裏返しの一極(=都市)化をやっているようなものだから、事態はますます悪化する。「ふるさと創生」事業で出現したのは、「ふるさと」という名前の都市用レジャー施設だけである。まるで大政翼賛会イベントの再演である。だから、かくも退屈な光景が蔓延する。
 この事態を更新するためには、さしあたり手さぐりをしながら最初の一歩を踏み出すしかないだろうが、ここに、ふたたび花田清輝の意見を援用しておくなら、彼のエッセイ「スカラベ・サクレ」には、ファーブルの『昆虫記』の冒頭に登場する聖なる「糞虫(ルビ=くそむし)」の生態が、こんなふうに戯画化して語られている。

 「スカラベ・サクレもまた、シジフォスのように、わき眼もふらず、けわしい勾配を糞の玉をころがしながら、登っていく。ちょっと足を踏みはずすか、またはその平衡を乱すたった一つの砂粒にでもぶっつかると、玉は、たちどころにごろごろと、谷底にむかってころがり落ちてしまう。玉のころがっていくはずみでひっくりかえったスカラベ・サクレは、しばらくもがいているが、やがて起きあがり、ふたたび玉を押すために勾配をくだっていく。こういうしぐさを、なんべんも、なんべんも――無限に繰返すところは、まったくシジファスの神話と変りがない」。「のみならず、かれの懸命になってはこんでいる重荷が、石塊ではなく、糞の玉だということも注目に値いしよう。なるほど、地上から不浄をとりのぞく仕事は、神聖な職業であり、それゆえにこそかれは、われわれのあいだで『神聖な甲虫(ルビ=スカラベ・サクレ)』と呼ばれているのであろうが――しかし、また同時に、その職業が、われわれのあいだで、かくべつ、高級な職業だとおもわれていないことも事実である」。

 いかにも、わたしたちの地域文化資料の発掘収集の試みも、目下のところ、「かくべつ、高級な職業だとおもわれていない」だろう。けれども、それはあくまで既成の中心点が作成した価値基準に照らしてであり、もう一つの中心点の新基準からするなら、あるいは「糞」は金にならないともかぎらず、いや、むしろ糞を金とする錬金術を、もう一つの中心点が獲得できたら、すばらしいではないか。なんべんも、なんべんも起きあがり、神聖な職業に従事するスカラベが地球上に大繁殖して、そのうち日本や世界の各地から、巨大な糞がごろごろ転がってきたら、どんなに楽しいことだろう。
 わたしたちの会が「スカラベ」を名乗るのは、この夢のためである。

おもしろ探検ネットワーク

 これはしかし、「反・中央」志向の村起こし蜂起でも、ある「地方」の独立王国の創設宣言でもない。わたしたちは各自それぞれに生まれて、それから今日まで体験してきた、さまざまな時間と、ありとあらゆる場所の集積のなかに、いま現在を生きている。それは、たった一人の自分だけの位相にほかならず、その意味で、わたしたちの一人ひとりは、あくまで個人である。そして個人の中心は個人であるのが当然であろうから、そこに立っていたい。だから、これは個人の自立の宣言であるとはいえるが、そんな大義名分など、じつは必要としていない。おもしろいこと、おもしろそうなこと、おもしろくすること、そんな探検の野心を連係しあって、雑種の楕円を描きたい。
 この会の扱う対象領域を、明治以降の時期の文化資料とし、地理上のエリアを九州・山口・沖縄に限定したのは、ほんの便宜的な措置にすぎず、わたしたちは自分という中心点の形成をめざしていると基本的には考えたい。個々人の自前の視線を獲得し、自前のデータ・ベースを作成し、そこから自分と世界の地図を更新したいのである。
 したがって、このネット・ワークは、一致団結のヒト集団を意味するのでなく、ゆるやかに相互連携しあう情報収集と発信のシステムである。比喩的にいうなら、一つの中心点で情報共同体を形成し、もう一つの中心点で個人の存在を保障する。それぞれの中心点は、さまざまな固有名に置き換えてかまわない変数である。中央と地方とか、都市と田舎とか、本土と沖縄とか、福岡と佐賀とか、あるいは男と女、大人と子ども、個人と集団など、さまざまな組み合わせが可能だろう。どんな鏡に向き合うかで、自画像の描き方もかわってくる。いや、さまざまな鏡と向き合わないと、一枚の自画像も描けず、しかしたった一つだけだと単調で偏屈になってしまう。
 もう、ホタル観光も、観光ホテルも、これ以上はいらない。いつまでも東京や欧米なんかとだけ向き合ったり、あるいはその裏返しの、オリエンタリズムの日本ヴァージョンでもってエキゾチック・アジアなんかやってる場合じゃないと思うのだ。もっとわくわくする未知の光景が、すぐ隣にも、いっぱいあるはずだから、それらを楽しく探検したい。楽しいことは、いいことだ。
 かくて「西南日本おもしろ文化資料探検ネットワーク」の会は、ここから出発する。目下、探検隊員募集中。「糞」情報、探索中。なかなか、おもしろくなりそうじゃないか。

(花田俊典)

楕円幻想再考、およびスカラベ構想のこと
(スカラベの思想2)



 ありていにいって〈展望〉など、見あたらないのだ。太田豊太郎なら、「大洋に舵を失ひし舟人が、はるかなる山を望むがごときは、相沢が余に示したる前途の方針なり」、と述懐もできようが、わたしには残念ながら「相沢謙吉がごとき良友」もいないので、「前途の方針」も、見つからない。けれども、日々の不満なら、ないわけではない。以下、脈絡もなく、思いつきで、いくつか書きつけてみる。
 @講談社版『日本近代文学大事典』全6巻の改訂新版が欲しい。その後に明治書院版『日本現代文学大事典』は出たけれど、これは企画時点の時勢だったのか作品本位で、読めばわかるあらすじなんかに、せっかくの字数を費やして、作家の事跡が極端に少ない。やはり雑誌や結社や文学史上の事項にそれぞれ一巻をあてた講談社版と対になって、はじめて役立つものである。
 Aパソコンの日本語ワープロ・ソフトの縦書きスタイルが、あまりにお粗末である。ソフトを開発してる理科系人間の頭脳には、ほとんど日本語の縦書きなど想定されていない、としか思えない。
 B図書館や各種文学館に専門の学芸員が欲しい。考古学は各市町村に専門員が配置されて、古墳が出土するたびに発掘調査しているし、美術館にはこれも専門の学芸員がいて、資料の収集と研究にあたっている。これに比し、けっして文学書が少なくない公共・大学付属の図書館には司書はいても、文学に通じた専門員はいない。市町村立の図書館の大半は、行政職員が数年おきに配置転換でぐるぐる回転し、各人は誠実にだろうが、しかし適当に処理しているだけである。
 C国立国会図書館や日本近代文学館のような資料の宝庫が関東あるいは東京地方以外の地方にも欲しい。現物の収集が困難なら、せめて全蔵書の目録と各点ごとの目次と奥付をオン・ラインで閲覧できるようにして欲しい。
 と、まあ、こう愚痴りだすとキリがないので、ここらでやめておくが、これらはそれにしても古色蒼然とした不満であり、われながらこうくり返すことにも根気がいるほどだが、しかし、これらの不満がかくも古色蒼然となるまで未解決のまま放置されていることに、ことあらためて目を向けておく必要もあろうかと思うのである。

 どこかで、誰かの、仕方がない、という声が聞こえる、無理だよ、と。いや、そんなことがあるものか。以下、これらの不満のサンプルを順を追って再考してみよう。
 @の事典の改訂新版が実現しないのは営業上の理由によるのだろう。近現代文学の研究者数は減少していないだろうから書き手は確保できても、買い手が望めないのだろう。たぶん文学が人気がないからである。またぞろ若者の活字離れなどとしたり気な嘆きが聞こえそうだが、そんなことはない。書店の光景を眺めると、いつも書店は若者たちであふれ返っている。若者たちは、けっして活字から離れているのでなく、ジュンブンガクとか文学ケンキューなどというジャンルの活字から離れているだけで(それはそうだろう、わたしたち自身にも思いあたらないでもないのだから)、ミステリーとか時代小説とかカタログ誌とかは群がるように読みあさっているのである。なぜなら、それがつまり楽しく面白いからである。いくら映像メディアと比較して活字メディアがまだるっこしくても、わくわくするほど面白ければ、まだるっこしい思いをしてでも若者たち、いや老若男女は、それを求めるのである。ということはつまり、文学は面白くないのである。誰の責任か。便宜的な呼称を用いるなら、作家と編集者と評論家と研究者とが面白くないからである。作家の書くものは人生をまっとうに生きることともオタクの趣味とも神出鬼没の伝奇ロマンともつかぬ何ともドーデモいいような手さきのこしらえものが多く、編集者はそんな作品こそが現代文芸誌ブンガクだと思い込み、評論家と研究者とは対象を面白く立ちあがらせる力量に欠けている。ただし、面白いとは、なにも大衆娯楽的なエンターテインメントのことをいうのではなく、なんというか、それと向き合うことで生の昂揚感をかき立てられるような感覚をさすのだが、その意味からいうと、チョー難解でも、それが面白く手ごたえがあるものなら、フーコーでもカラタニでも、やはりよく売れるのである。文学を面白くなくし、低調にし、事典の改訂版を不可能にしている責任の一斑は、したがって、このわたしたちにある。いまさら、わたしたちとは誰か、などという反問がここに返ってくるなら、もはやそれは勝手にシンドバットである。ひとり岡目八目で寝ころんでいるがいい。いいじゃないの幸せならば、で、わたしは邪魔しない。
 Aのパソコン問題は、これはもう簡単である。理科系頭脳人間には、世の中にいかに縦書き人間が多いかということがわかっていないだけのことだ。TYの娯楽タレントや、アメリカ人の大半や、最近の都市型ピープルみたいに、自分たちの住んでいる狭い世界が世界の全体だと思い込んでいる素朴で無邪気な田舎者なのである。新聞も週刊誌も一般書の大半もみんな縦書きなのだから、そのことを根気づよく知らせるしかない。縦書き文章の業界が連帯して、ソフト製造業界にくり返し申し入れればいいのである。新JISで外された●〔鴎の正字〕外の「●〔同前〕」の字や、里見●〔弓篇に子〕の「●(同前)」の字をJIS規格文字に入れるよう、肝心の日本近代文学会とか昭和文学会とかが、どうしてこれを組織として要望しないのだろう。なにもここでは、ブンガクは一人で闘うものだなどとイキがる必要はないのである。
 Bの学芸員の問題については、一般の図書館などは文学書だけを収蔵しているわけでなく、それぞれの分野で専門の学芸員を置くのは無理だという良識的な意見もあろう。けれども、それなら美術館に義務として置かれて、文学館にそれが置かれないのはどうしてか。憶測でいうのだが、古墳が見つかったら、それを調査し、ときに保存すべき義務があると国民に強いる法律を、ときの政府が自発的に制定したわけでもなかったろう。そこには考古学の専門家集団がその理を説き、根気づよく訴えて、行政を動かしてきた過去の歴史の経緯があり、それはまた美術の分野においてもそうだったろうと想像するのである。それに比して、わたしたちの先輩は、いったい何をしてきたか。せいぜい大東亜戦争に際して皇国の文学の由緒正しきを力説したに過ぎなかったのではないか。もちろん美術も聖戦絵画を奨励し、考古学も大東亜文化圏の構築に手をかしたけれども、こと発掘調査の法制化や学芸員問題などに関しては、したたかに成果をも、もぎ取っているのである。わたしたちの先輩だけでなく、かつて三好行雄が懸念しながら提唱し、その後も前田愛がその懸念を再提起しながら疑義を呈した〈作品論〉の、その後のなしくずしのオタク化に手をかした、わたしたちの現状そのものは、あまりに対社会的に脆弱にすぎるのではないか。書店に並ぶ一人の若者の心にすら、わたしたちのことばは届いていないのではないか。わたしたちの向き合っている文学というものが、もっとアクチュアルな垂鉛をおろしはじめたとき、これらの問題はさまざまなレベルでおのずから付随して要請されてくるだろうと見積もるのである。
 Cは関東あるいは東京地方以外の地方の要求だろうから、これ以上、ここにつけ加えることはない。ただ、やろうと思えばやれるのである。総理大臣が業務命令を出せば、簡単に出来ることである。それをやらせる力がわたしたちにないだけのことである。

 というわけで、わたしは要するに最近、いささか反省しているのである。それでもって今度、ファーブルと花田清輝にあやかって「スカラベの会」なる組織を同好の仲間たちと立ちあげることを計画している。マスコット・キャラクターの「スカラベ」は聖虫・糞ころがしの学名。さしあたり九州・山口・沖縄というエリアをひと括りにし、その近現代の文化資料を調査・収集・報告し、その個々人の糞ころがしレポートを集積してデータ・ベース化しようというのである。いわば西南日本おもしろ探検ネット・ワークのキー・ステーション機構である。なんだか楽しそうだから、というのがその動機のすべてなのだが、ただし、これには若干の後付けの理論武装もないわけではない。
九州とか西南日本というエリアで本格的な文学館なり文化資料センターの創設を望む気持ちは、当該地の在住者ならずとも、たとえば東北や北海道にもそれがあったらと望むと同じく、ひとしく誰にもあるだろうが、その実現となると困難というより物理的に不可能に近く、それならいっそ情報上の架空の図書館をつくろうというのである。つまり、判明している限りの情報(人名・雑誌名・その他各分野の項目に及ぶ)を網羅し、その現物の所蔵場所なり人名の詳細文献リストなりを各項目に逐一付記していくのである。将来的にはこのデータを各地の公共図書館で閲覧に供し、同時にインターネットでも公開する。いずれかの方法でアクセスし、現物が見たかったら、その所蔵者(公共図書館、 るいは閲覧に応じる個人)に申し出て、それを手にしたらいいのである。これが全国各地のブロックで実現したら、どんなにわくわくすることだろう。とくに珍しい資料は、出土品や美術品がそうしているようにレプリカを作製し、各ブロックの主要図書館に配布しておけばいい。あるいは奈良女子大学の図書館が明治初期の烈女伝物語をそうしているように、著作権とか版権とかの問題がクリアできるなら、インターネット上のホームページで写真版公開すればいいのである(漱石や鴎外や芥川の旧蔵書の手沢本も早急にそうすべきだと思う)。
で、ここからは後付けの理屈になるのだが、花田清輝(まことに残念ながら花田俊典と同県人でも何の血縁関係もない)に、戦時下の執筆になる「楕円幻想」と題する有名なエッセイがあって、そこで彼は中心点が一つしかない〈円〉よりも、中心点が二つある〈楕円〉の魅力を語っている。「いうまでもなく楕円は、焦点の位置次第で、無限に円に近づくこともできれば、直線に近づくこともできようが、その形がいかに変化しようとも、依然として、楕円が楕円である限り、それは、醒めながら眠り、眠りながら醒め、泣きながら笑い、笑いながら泣き、信じながら疑い、疑いながら信ずることを意味する。これが曖昧であり、なにか有り得べからざるもののように思われ、しかも、みにくい印象を君にあたえるとすれば、それは君が、いまもなお、円の亡霊に憑かれているためであろう。焦点こそ二つあるが、楕円は、円と同じく、一つの中心と、明確な輪郭をもつ堂々たる図形であり、円は、むしろ、楕円のなかのきわめて特殊のばあい――すなわち、その短径と長径ととがひとしいばあいにすぎず、楕円のほうが、円よりも、はるかに一般的な存在であるともいえる。ギリシア人は単純な調和を愛したから、円をうつくしいと感じたでもあろうが、矛盾しているにも拘らず調和している、楕円の複雑な調和のほうが、我々にとっては、いっそう、うつくしい筈ではなかろうか」。
 一極集中とか中央集権とか、そんな常套句で〈国家〉や〈東京〉を撃ったつもりの論法があるが、人間が群れて共同体を形成すると必ずや中心点をこしらえるのであるから、一極集中や中央集権それ自体は非難するに及ばない。群の大小が無限連鎖するにつれて中心点も移動する。アメリカと日本とか、東京と九州とか、福岡県と鹿児島県とか、鹿児島市と指宿市とか、どのような組み合わせでもかまわないのだが、その場合、一つの中心点が「きわめて特殊」な〈円〉を描かないようにするためには、もう一つの中心点に、それに拮抗していく力がそなわっておかなければならない。その力はどうしたらつくか。イワシの頭なら信心すれば足りるが、この場合は、自前の情報量の多寡がそれを決定するだろう。文化帝国主義の鍵は、いかに自前の情報を集積し、各地に発信し、そこを統率するかにかかっているが、しかし異物を混入しない情報は必ず動脈硬化をひき起こす。もう一つの中心点の力が要請されるゆえんだが、さて、このスカラベ構想の利点は、なにしろ情報がすべてなのであるから、パソコン一台と若干の経費さえあれば、それは各人の自宅の机上にも移行する。データ・ベースの再編が「日本」地図を塗り替える、と大言壮語してみたところで、さて、そういえば近代文学大事典の新版もホームページ上に作成し、日本語と英語バージョンで世界中にタダで提供したら、いかがなものか。「大洋に舵を失ひし舟人が、はるかなる山を望むがごとき」シロモノにすぎないか。

(花田俊典 「昭和文学研究」第36集「研究展望欄」掲載)