Paul Graham氏によるエッセー"What Business Can Learn from Open Source"の翻訳です。完成しました。
なお私は、ビジネス・オープンソースともに縁遠いので、的はずれな訳をしていても全然気づいていない場合があります。コメントは大歓迎ですので、些細な点でもご指摘ください(__)なお、Livedoorブログのシステムでは制限文字数に達したためにホームページスペースにHTMLファイルをおいています。コメントをしていただける場合は、simoom634+cmt@gmail.comあるいはここでコメントをしてください。お願いいたします(__)
Amateurの部分はlionfan様の訳を参考にしています(Thanks to lionfanさん)。が、自分は英文学の学生のために原文に忠実に訳さないと気が済まないみたいです。lionfanさんの訳の方が伸び伸びしている気がします。
基本的に二人とも同じ解釈になっていると思うのですが、"Like open source, blogging is something people do themselves, for free, because they enjoy it. "の"for free"をlionfanさんは「自由に」と訳されていますが、私は「無料で」という意味で取りました。理由は、"bloggers compete with people working for money"と書かれていてるからです。「ブロガーは報酬のために働く人々と競争している」とあるので、ブロガーについて"for free"と言うのであれば、それは「無料で」、つまり「報酬をもらうことなく」という意味になるのではないかと考えました。何か他の意見があれば、コメントまでお願いいたします(__)
また、lionfanさんの翻訳記事ポール・グレアム「良い後回し、悪い後回し」でのShiroさんの以下のコメントに助けられました(thanks to Shiroさん)。
"If you get inspired by some project, it can be a net win ...": "net win"が落ちたらまずいです。「ぜんぶ放り投げたとしても、トータル得られるものは大きいんだ」とかなんとか。2文後も"net"が訳文にあまり出てないです。
作業日誌:
- 2006/08/06: Amateursの前まで終了
- 2006/08/10: Amateursの1/3程度まで終了
- 2006/08/12: Amateursまで終了
- 2006/08/22: Workplacesの1/3程度まで終了
- 2006/09/08: Workplacesまで終了
- 2006/09/10: Bottom-upまで終了
- 2006/09/18: Startupsまで終了
- 2006/09/23: Notesが終了
- 2006/09/24: Livedoorの文字数制限を回避するために外部のホームページスペースに翻訳を表示するようにした
- 2006/09/24: リンクの追加などをした
似たようなことを言っている本・記事
ビジネスがオープンソースから学べること
2005年8月
(このエッセーはOscon 2005で行った講話から生まれた)
最近になって、会社はオープンソースに対してより多くの関心を払うようになってきた。10年前までは、マイクロソフトがサーバーにまで独占を拡大するのではないかという危機感があったように思えたのにも関わらずだ。【注1】今では、オープンソースがマイクロソフトの独占拡大を妨げていると言っても差し支えなさそうに思える。最近の調査から、52%の会社がWindowsのサーバーをLinuxのサーバーと取り替えていることがわかっている。[1]
より重要なことと私が考えるのは、それら52%の会社がどのような会社なのかということだ。Google、YahooそしてAmazonはサーバーでWindowsを採用していないのだから、サーバーでWindowsを走らせようと提案する人はサーバーについて自分たちが知っていることを説明するように準備せねばならないだろう。
しかし、オープンソースからビジネスが学ぶべき一番重要なことはLinuxやFirefoxについてではなく、オープンソースがLinuxやFirefoxを生み出した力についてである。結局、こうした力が皆さんが用いるソフトウェアよりも多くのことに影響を与えるであろうからだ。
これらの根底に横たわっている力を、オープンソースとブログを比較することで理解することができるだろう。ひょっとしたらお気づきかもしれないが、オープンソースとブログには共通点が多い。
オープンソース同様に、ブログは人々が報酬を要求することなく自分からやりたがることだ。なぜなら、人々はブログを楽しんでいるからだ。オープンソースのハッカーのように、ブロガーはお金のために働く人々と競争をし、しばしば勝っている。質を確保する方法も同じだ: ダーウィンの進化論である。会社は、従業員がめちゃくちゃにすることを妨げる規則を通して質を確保している。しかし、ユーザー【注2】が互いにコミュニケーションがとれる場合には、そのような規則は必要ではない。人々はただ自分が望むものを生み出せばいいのだ。良いものは広がり、悪いものは無視されるようになる。そして、どちらの場合でも、ユーザーからのフィードバックが一番良い仕事をより良くすることになる。
ブログとオープンソースが共有しているもう一つのことはウェブだ。人々はこれまでいつも報酬を要求することなく偉大な仕事を進んで行ってきたが、ウェブの前まではユーザーに到達したり、プロジェクトで共同して働くのは困難だった。
アマチュア
ビジネスが学ばなければならない目新しい原則の中でも最も重要なのは、人々は自分たちが好むものには非常に一生懸命に取り組むということだと私は思う。けれど、それは何も目新しいことではない。それでは、なぜ私はビジネスは人々は自分たちが好むものには非常に一生懸命に取り組むということを学ばなければならないと主張するのだろうか。私が「ビジネスはこのことを知らない」と述べるとき、私はビジネスの構造がこのことを反映したものになっていないと言いたいのである。
ビジネスは依然として旧態依然としたモデルを反映している。そうした旧態依然としたモデルは、フランス語で「仕事」を意味する単語"travailler"により典型的に示されるものだ。"travailler"には英語の親戚の"travail"【注3】がいて、"travail"は「拷問」を意味する。[2]
しかしながら、このことは仕事に対する最終的な説明にはなっていない。社会が豊かになっていくにつれて、食物について学んだことととてもよく似たことを仕事についても学んだのである。我々は現在、最も健康的な食物は我々の農民の先祖たちが貧しかったために食べることを強いられた食物だということを知っている。豪華な食物に似て働いていない状態が望ましいものに思えるのは、十分な余暇がないときだけだ。私が思うに、ちょうど我々が一定量の食物繊維を摂取するようにできていて、摂取できなければ気分が悪くなるように、我々は仕事をするようにできているのだ。
やっていることへの愛のために働く人々につけられた名前がある。「アマチュア」である。その言葉はいま非常に悪い言外の意味を持っているために、その語源的な意味が我々には明白であるにもかかわらず、「アマチュア」の語源的な意味を忘れてしまっている。「アマチュア」は元来、むしろ称賛する言葉だったのである。しかし、20世紀にあるべきものはプロフェッショナルなものであり、アマチュアは定義によりプロフェッショナルではないのだ。【注4】
そのために、ビジネスの世界はオープンソースから得られた「愛のために働く人々は金のために働く人々をしばしば凌駕する」という教訓に非常に驚くことになったのだ。ユーザーがIEからFirefoxへとブラウザを切り替えたのは、Firefoxのコードをハックしたかったからではない。切り替えたのは、FirefoxがIEよりも優れたブラウザだからだ。
マイクロソフトがIEを優れたブラウザにしようとしていないと言いたいのではない。マイクロソフトだってブラウザをコントロールすることは独占を維持するための手段であることを理解している。問題になっているのは、OSで直面しているのと同じ問題なのだ。つまり、モチベーションのあるハッカーの集団が報酬なしにつくるOSを凌駕するのに十分なだけの給料を払うことができないということだ。
職業人であるということが常に過大に評価されていたのではないかと思う。お金のために働くという字義通りの意味だけではなく、形式にこだわることと公平のような言外の意味に置いてもだ。【注5】その当時、例えば1970年には思いもよらなかっただろうが、職業人であるべきだという考えは、20世紀にたまたま存在していた事情によって促された流行だったと思う。
そうした事情の中でも最も強力だったものの一つが、「チャンネル」の存在だった。同じ言葉が製品と情報についても用いられることは、何かを明らかにしているだろう。流通経路と、テレビ・ラジオがそれだ。【注6】
職業人であることがアマチュアであることに対して非常に優位であるかのように思わせていたのが、それらのチャンネルの狭さだった。プロのジャーナリストとしてのジョブは数が少なかったために、競い合いが平均的なジャーナリストたちはかなり質の良いものだということを保証していた。それに対して、誰でもバーで時事問題について意見を表明することができる。そしてそのためにバーで意見を表明する平均的な人は、そのテーマについて書くジャーナリストと比較して、ばか者のように聞こえることとなる。
ウェブ上では、考えを表明する障壁がずっと低くなっている。お酒を注文する必要はなく、子供たちを中に入れさえしてくるのだ。多くの人々がオンラインで自分の意見を表明していて、そうした人たちが書いているものの平均的なレベルは予想通りあまり良いものではない。このことによりメディアの中の幾人かの人々は、ブログはたいした脅威ではなく、単なる流行に過ぎないと結論づけてきた。
実際の所、流行になっているのは出版業界が使っている意味での「ブログ」という言葉である。「ブロガー」という言葉で意味されているのは、ウェブログの形式で意見を表明している人ではなく、オンラインで意見を表明している人のことを指すのだ。それはウェブが意見を表明するための標準的なメディアになったときに問題になることだろう。だから私はオンラインで意見を表明する人を意味する別な言葉を提案したいと思う。「ライター」なんてどうだろう?
平均的に質が低いためにオンライン上の記事を退ける出版業界の人々は重要な点を見逃している。だれも平均的なブログなんて読まないということだ。チャンネルが幅をきかせる古い世界では、平均的な質について話す事は何らかの意味があった。なぜなら、それが好むと好まざるとに関わらず手に入れたものだったからだ。しかし、今では望めばどんなライターの記事も読むことができる。だから、オンライン上で書かれたものの平均的な質と、出版業界は競争しているのではない。出版業界はオンライン上にある一番の記事と競争をしているのだ。そして、マイクロソフトのように、出版業界も負けつつある。
私は読者としての経験からそのことを知っている。ほとんどの出版物はオンライン上にあるけれど、私は2〜3の個人のサイト上にある、新聞や雑誌社のサイトで読んだ報道されていたことについての記事を読んでいるからだ。
そして、例えばニューヨークタイムズの記事を読むとき、私はけしてニューヨークタイムズのトップページから記事を読むことはしない。ほとんどの記事を私はGoogle NewsやSlashdot、Deliciousのようなウェブ上の記事を集約してくれるサイトを通して見つけている。記事を集約してくれるサイトは旧来のチャンネルを通すよりもずっと優れていることを示している。ニューヨークタイムズのトップページは、ニューヨークタイムズのために働く記者によって書かれた記事のリストだ。それに対して、Deliciousは興味深い記事のリストだ。そして、二つの間にほとんど重なる部分がないことに気づけるのは、現在になって初めてその二つを横に並べて比較できるようになったからだ。
出版業界のほとんどの記事は退屈だ。例えば、大統領が有権者の多数がイラクに侵攻することを間違いだと考えていることに気づき、国民に対して演説をして支持を促した。どこに目新しいことがあるんだ?私はその演説を聴いてはいないが、大統領が言ったことそのままいうことができたと思う。そのような演説は、字義的な意味でニュースとは言えない。その中に目新しいことが何もないからだ。[3]
そして、事件についてのほとんどの「ニュース」でも名前と場所を除けば目新しいことはない。子供が誘拐された・トルネードが発生した・フェリーが沈没した・蛇にかまれた人がいる・小さい飛行機が墜落した。これらのことから世界について何が学べるだろうか。全く何もない。メディアはデータ上の点を広げているのだ。それらの「ニュース」を関心を引くものにしているものが、それらの「ニュース」を関連性のないものにしているのだ。
ソフトウェアでも、プロがそんなくだらないものを作るのに対し、アマチュアがより優れた物をつくるとしてもそれは驚くことではない。チャンネルにより生き、チャンネルによって死ぬ。「寡占」【注7】に依存すれば、突然に競争にさらされたときに克服するのが困難なひどい習慣に沈み込むことになる。[4]
仕事場
ブログとオープンソースソフトウェアのもう一つの共通点は、どちらもしばしば家で取り組まれているということだ。それは驚くべきことではないように思えるが、そうではない。自分の住まいでアマチュアの活動として行われるブログとオープンソースソフトウェアがしばしばプロを打ち負かすということは構造的に、家で作られた航空機がF18型戦闘機を迎撃したというのと同じことになるんだ。会社は何100万ドルもかけてオフィスを作るのは、そのオフィスを仕事場とするという理由からだけだ。しかし、仕事場として設計されてすらいない自分の家で働く人々が、結局の所より生産性が高くなっているのだ。
このことは、私たちの多くが疑っていたことを証明している。平均的なオフィスというのは、仕事をするにはひどい場所だということだ。そして、オフィスをひどくしているものの多くは、私たちがプロフェッショナリズムと関連づけているまさにその性質なんだ。仕事に関係のないものがオフィスに一切無いことは効率を示唆する思われているが、効率を示唆することと実際に効率的であることとは違う。
平均的な仕事場の雰囲気と生産性の関係は、車の側に描かれている炎とその車の速度との間の関係と同じだ。【注8】そして、荒涼としているようにオフィスが見えるだけじゃあない。実際にそこで働く人々も同じようにひどくなってしまうんだ。
こうしたことはベンチャー企業では異なっている。しばしばベンチャー企業はアパートの一室から始まる。ベージュの仕切りに釣り合うオフィス用品の代わりに、中古で買った家具の寄せ集めがあって、人々は変則的な時間に、とてもカジュアルな服装で働いている。「注意されやしないか」と心配なんてしないでオンライン上で見たいものを見ている。明るく、あたりさわりのないオフィスの言葉は、意地の悪いユーモアに置き換わる。そうしてどうなるかわかるかい?おそらくこの段階の会社が一番生産性が高いはずなんだ。
ひょっとするとそれは偶然ではないのかもしれない。プロフェッショナリズムのいくつかの要素はトータルでマイナスになっているのかもしれない。
私からすれば、伝統的なオフィスの一番やる気を削ぐものというのは、ある時間帯にオフィスにいなければならないということだ。大抵の場合、本当にその必要がある人は会社にはほとんどいないが、決まった時間に社員が働く理由は、会社が社員の生産性を測ることができないからなんだ。
勤務時間の背後にある基本的な考えは、働かせるということができないとしても、少なくとも楽しむことを妨げることができるというものだ。【注9】社員が一日のうちの一定の時間会社にいなければならず、そしてそこにいる間は仕事には関係のないことをするのが禁止されていた場合、社員は働いているということになるんだ。理論上は。実際の所は、多くの時間を働いているわけでもなく、楽しんでいるわけでもない、どっちつかずの状態で過ごしているんだ。
どれぐらいの仕事をしたのかが測れるのであれば、多くの会社は勤務時間を固定する必要はないだろう。ただこんな風に言えばいいことになる: 「これが君がやらねばならないことだ。いつでも好きなときに、好きな場所でやってかまわない。仕事上会社の別な人と相談することが必要であれば、会社に来る必要があるだろうが、そうした状況でもない限り君が仕事をどこでやっても我々は気にしない」。
その状況は実際にはあり得ないように思えるかもしれないが、それが私たちが自分たちの会社に働きに来た人々に言っていたことなんだ。【注10】決められた勤務時間なんて無かった。私は午前11時前に出勤することは一度もなかった。けれど、私たちはこういうことで、親切であろうとしたわけではない。私たちが言いたかったことはこうだ: 「長い時間会社にいることで私たちを欺こうとするな」。
会社に出てきて働くモデルの問題は、それが士気をくじかせるからではなく、仕事をしている振りをしている人が実際に仕事をしている人の邪魔をすることにある。会社に出てきて働くモデルが主要な理由となって、大会社ではあまりに多くのミーティングがあるのだと私は確信している。一人あたりで考えれば、大規模な会社はほとんど何も達成してはいない。それでも、その会社の社員たちは日に少なくとも8時間はその場にいなければならない。一方では多くの時間が費やされていて、他方ではほとんど何も達成されていないというのであれば、何事かに時間が費やされていなければならない。そしてミーティングがその余剰時間を埋める主要な仕組みになっている。
一年間私は規則正しく9時〜5時で働く仕事に就いていたことがあり、私は今でもミーティングの間に覚えた奇妙でくつろいだ感覚を良く覚えている。規則正しく9時〜5時で働く普通の仕事に就いたという目新しさのために、自分がプログラミングをすることと引き替えに給料をもらっているということを私は非常に意識していた。普通の仕事というのは驚くべきものに思えた。それはまるで自分のデスクの上に自分が何をしていようとも2分毎に1ドル札をはき出す機械があるかのようだったんだ。トイレにいる間でさえもだ!しかし、その想像上の機械は常に動いていたので、私は常に働かなければならないのだと感じていた。そのためにミーティングはとてもくつろぐように感じられた。ミーティングはちょうどプログラミングのように仕事としてカウントされていたけれど、ミーティングはずっと楽だった。ただ座って注意深くしている振りをしていればよいのだから。
ミーティングというのはネットワーク効果【注11】のあるアヘンのようなものだ。小規模ではあるがEメールも同様だ。時間というコストがかかるだけでなく、断片化というコストもある。【注12】ミーティングやEメールは一日をあまりに小さな単位に分割してしまって、一日を有益なものではあり得なくしてしまう。
何事かにどれほど依存するようになったのかを知るには、それを急に取り除いてしまうという方法がある。だから大企業に次のような実験をするよう提案したい。ミーティングをしない―つまり、みんな自分のデスクで一日中座って、邪魔されることなく誰と相談しなくともできる仕事に費やす―日を設けるという実験だ。ほとんどの仕事ではいくらかコミュニケーションを取ることが必要だろうが、多くの会社員は自分一人でできる8時間かかる仕事を見つけることができると私は確信している。その日を「仕事日」と呼んでくれてもいい。
うわべだけの仕事の別な問題というのは、それが本物の仕事よりもよりよく見えることが多いということだ。私が何か書いたりハックしたりするとき、実際にキーボードをたたいているのと同じだけの時間を考えることに使っている。半分は座って紅茶を飲み、残りの半分は近所を散歩している。この時間が重大な局面なんだ―この時間にアイデアが生じるのだから―しかし、ほとんどのオフィスでは私はこうしたことをすることに罪悪感を感じる。他の人はみんな忙しそうにしているからだ。
何か比較するものを手に入れるまである習慣がどれほど悪いものなのかを判断することは困難だ。そして、それが一つの理由となって、オープンソースといくつかの場合ではブログさえもが重要となるのだ。オープンソースやブログが、本物の仕事がどのようなものなのかを我々に示していることになるんだ。
私たちはその時8つの新しいベンチャー企業に投資していた。ある友達がそれらのベンチャー企業がオフィスをどのように間に合わせているのかと尋ね、「私たちはそれらのベンチャー企業が見つけられたアパートならばどこでもいいからそこで仕事をするように期待している」と私が答えたとき、友達は驚いていた。しかし、そのように私たちが提案したのはお金を取っておくためではない。そのように提案したのは、それらのベンチャー企業が作り出すソフトウェアが良いものであってほしかったからだ。ひどい、インフォーマルな環境で仕事をすることは、ベンチャー企業が気づかずに行っている正しいことの一つなんだ。オフィスに移るとすぐに仕事と生活が分離していく。
それはプロフェッショナリズムの重要な信条の一つだ。仕事と生活は分離していなければならない。しかし、その点については誤りであると私は確信している。
ボトムアップ
オープンソースとブログから学ぶことができる三つ目の教訓は、アイデアは根底の層から生じるのであって、最上位の層から降りてくるわけではないということだ。オープンソースとブログは両方ともボトムアップ式に働いている。つまり、人々は自分たちが望む物をつくり、一番良いものが広まるんだ。
何かに似ているように聞こえるのではないかなぁ?それは市場経済の原則と同じだ。皮肉にも、オープンソースとブログは無料で行われているけれど、それらの世界は市場経済と似ている。それに対してほとんどの会社では、自由市場の価値について話し合っているにも関わらず、本質的には共産主義国家のようにして運営されているんだ。
企画を支配する二つの力がある。それは、(1)次にすることについての考え(2)質を確保すること だ。チャンネルの時代には、その二つは最上位の層から降りてきていた。例えば新聞の編集者は記事を記者に割り当ててから、記者たちが書いてきたものを編集していた。【注13】
オープンソースとブログは、物事はそのような方法でなくてもうまくいくことを示している。アイデアや質の確保ですら、ボトムアップで生じうるのだ。そして、どちらの場合も結果が単に許容できるというだけではなく、より良いものになるのだ。例えば、オープンソースソフトウェアが市販のソフトウェアよりも信頼できるのは、それがオープンソースだからだ。誰でも間違いを見つけることができるからなんだ。
同じことが書くことでも起きる。出版が近くなるにつれて、オンラインで発表していない『ハッカーと画家』の中のエッセーのことで非常に心配になっていたことに気づいた。いったんエッセーのページビューが数千を超えると、そのエッセーについて私はかなり自信を持てるようになる。しかし、オンラインで発表していなかったエッセーは言葉そのままの意味で何桁も詳細に読まれた回数が少ないことになる。それはまるでテストしないでソフトウェアをリリースするかのようだ。
そうした状況がかつて何かを発表する場合のあり方だった。10人の人に原稿を読んでもらうことができれば幸運な方だった。しかし、私はオンラインで発表することにとても慣れてしまったので、古いやり方は不安を抱くほど信頼できないものに思える。それはまるでGPSに慣れ親しんでから、全くの推測航法【注14】で船を操縦することに似ている。
オンラインで発表することについて私が好んでいるもう一つのことは、自分が望むことを書くことができ、望むときに発表することができるということだ。今年の初めに、私は雑誌に最適なように思える記事を書いたので、その記事を私が知る編集者に送った。返事を待っていると、驚いたことに採用されなければいいと自分が望んでいることに気づいた。そうすれば、その記事をすぐにオンラインで発表できる。仮に採用されてしまえば、読んでもらうまでに何ヶ月も待たなければならない。それだけでなく、私は一語一語について25才のリライトマンと争って、記事が台無しになるのを防がなければならないことになるだろう。[5]
多くの社員は自分が勤める会社のために偉大な物をつくりたいと思っているが、多くの場合経営者はそうすることを許さないものだ。社員が経営者の所まで行き、利益を出すためにこの製品を作らせてくださいと言い、会社側が拒否した話を何度も聞いたことがあるだろう?一番有名な例は十中八九スティーブ・ウォズニアック【注15】だろう。ウォズニアックは当初、自分を雇っていたHPのためにマイクロコンピュータを作ろうとしていた。しかし、HPの経営陣は拒否した。ヘマさの度合いで言えば、このエピソードはIBMがDOSのために非排他的なライセンスを受け入れたことに匹敵する。しかし私は、こうしたことはいつでも起きていると考えている。あまりこうしたことについて聞いたことがないのは、自分が正しいことを証明するためにはウォズニアックがやったように会社を辞めて起業しなければならないからだ。
ベンチャー企業
私が思うに、これらがオープンソースとブログビジネスに示すことができる三つの大きな教訓だ。つまり、(1)人々は自分が好むことに取り組むとき、より一層一生懸命に取り組むということ(2)標準的なオフィス環境というのは非常に非生産的であるということ(3)ボトムアップの方がしばしばトップダウンよりもうまくいくということ。
このあたりで管理者たちがこんな風に言うのではないかと想像できる: この男は何を言っているんだ?部下のプログラマーたちが自分の家で自分のプロジェクトに取り組んでいるときの方がずっと生産的だと私が知ることで、どんな利益があるっていうんだ?あいつらをここにいさせて、バージョン3.2に取り組ませる必要がある。さもなきゃ、リリース日に間に合わせられっこない。
彼の言い分ももっともだ。特定の管理者が私が詳しく述べてきた力から引き出すことができる利益というのはほぼゼロに近いからだ。私が「ビジネスがオープンソースから学ぶことができる」と言うとき、あらゆるビジネスを念頭に置いていっているわけではない。遺伝子プールが新しい状況について学ぶことができるのと同じように、ビジネスも新しい状況について学ぶことができると言っているんだ。会社は賢くなりはしないと言っているんじゃあない。ただ愚かな会社が倒産していくと言いたいんだ。
ビジネスがオープンソースとブログから得られる教訓を我がものとしたならば、ビジネスはどのようになるだろうか?ビジネスの将来を予見することを妨げる大きな障害は、働いている人々は雇われていなければならないという想定だ。しかし、その下で何が起きているのかを考えてみてほしい: 会社はいくらかお金を持っていて、従業員が給料以上の価値ある何かを作ることを期待して給料を払う。でも、そうした関係を取り結ぶ別なやり方もある。給料としてお金を払う代わりに、そのお金を投資金としてあげてしまってはどうだろうか?そうすれば、オフィスに来てプロジェクトに取り組む代わりに、望むところであればどこでも自分自身のプロジェクトに取り組むことができるようになる。
私たちのほとんどが代わりになるようなものを知らないので、伝統的な雇用者-被雇用者関係よりもどれほどうまくできるのかがわからない。そのような習慣というのは非常にゆっくりと発展するものだ。現在の雇用者-被雇用者関係は依然として主人-奴隷関係というDNAのかなりの部分を持っているんだ。[6]
私はどちらの側もやりたくはない。客のためならば懸命に働くだろうが、上司に何かをしろといわれるのには憤慨する。そして、上司であるということもまたぞっとするほどいらだたしいものだ。半分ほどの場合は、誰かにしてもらうように頼むよりも自分でした方が簡単だからだ。勤務評価をしたりされたりするぐらいなら、ほとんどどんなことでもやるだろう。
その将来性のない発端【注16】の上に、雇用は長年多くの粗末なモデルを発端にしたことで生じたまずい出来事を集積してきた。修飾の面接で聞いてはならないことのリストは今や非常に長くなってしまっているので、便宜上それは無限に続くのではないかと思っている。オフィスの中では、慎重に振る舞わなければならない。誰かが会社を裁判の犠牲にするようなことを言ったり、したりするといけないので。そして、誰かを首にしてしまえば、誰も助けてはくれない。
会社がその社員を首にしたことで訴えられることよりも雄弁に、雇用が一般的な経済的関係ではないことを示すものはない。純粋に経済的な関係であればどんな関係であれ、やりたいことを自由にすることができる。ある納入業者から鋼管を買うのをやめ、別の納入業者から買い始めたいと思っても、その理由を説明する必要はない。誰からも不当に納入業者を変えたとして責められることはない。「正当」というのは、対等な人々の間の取引にはないある種の温情主義的な義務をほのめかしているんだ。
雇用者の側に課されるほとんどの法的な制約は被雇用者を保護することを意図している。だが、対等の立場の人がおらず、そして相手からの反応がない状態でなければ、一方的に相手に影響を与えることはできない。社員を子供の立場に置くのでもない限り、雇用する側がその社員に対してある種父親のような責任を持つことを期待することなんてできないんだ。そして、そうした期待というのは進むにはひどい道のように見える。
次に比較的大きな都市に行ったとき、一番大きな郵便局に立ち寄って、そこで働く人の身振り・表情なんかを観察してほしい。郵便局員たちはみな一様に、子供たちがやりたくないことをやらされているときと同じように、むっつりとすねて憤慨している。郵便局員の労働組合は一世代前の郵便局員からすれば非常にうらやましい、賃上げと出来高制限を勝ち取っているが、そうしたことを勝ち取ったからといってちっともうれしそうには見えない。温情主義的な関係の受け取る側にいることは、どれほどその関係が居心地がよいものでも、その人から自信を失わせてしまうものなんだ。ティーンの子に聞いてみればわかる。
雇用者-被雇用者の関係に私が不都合を見いだすのは、私がそれよりも良い関係のどちらの側の経験もあるからだ。その関係とは、投資家-起業家関係だ。その関係に痛みがないと主張するつもりはない。私がベンチャーを経営していたとき、投資家について考えると夜も眠れなかったものだった。そして今では私は投資家なので、投資したベンチャーのことを考えると夜も眠れなくなってしまう。解こうとしている問題が何であれ、その問題が持つ痛みは依然としてそこに存在する。しかし憤慨が混じっていなければ、あまり痛まないものだ。
私は不運にも、結果的にそのことを証明づけることになる制御実験となる出来事に参加したことがある。Yahooが私たちのベンチャーを買収した後で、私はYahooに勤めることになった。私は依然と変わらない仕事をしていた。上司がいるという点を除いては。そして恐ろしいことに、私は子供のように振る舞い始めたんだ。上司がいるという状況が私が持っていることを忘れていたボタンを押したんだ。
雇用に対して、投資が持つ大きな利点というのは、オープンソースとブログの例が示すように、自分たち自身のプロジェクトに取り組む人々は桁外れに生産的だと言うことである。そして、ベンチャー企業は以下の二つの点で自分たち自身のプロジェクトに取り組んでいることになる。その二つの点というのはどちらも重要なものだ。つまり、創造性の面で自分たち自身のものだというだけでなく、経済的な面でも自分たち自身のものなんだ。
Googleは私がこれまで説明してきた力と調和している大企業という極めてまれな例である。Googleは仕事用の仕切りボックスでぎっしりしたオフィスよりも、ずっと生産性が高くなるように一生懸命に取り組んでいる。Googleはすごい仕事をした従業員に大きなストックオプションを与えることで、ベンチャー企業の報酬を再現させている。Googleは従業員であるハッカーたちに労働時間の20%を自分たち自身のプロジェクトに使うのを認めさえしている。
人々に自分たちの時間の100%を自分たち自身のプロジェクトに使わせ、彼らがつくりだした物の価値を概算する代わりに、実際の市場価値をあげてはどうだろうか?不可能だって?実際の所、それこそがベンチャーキャピタリストたちがやっていることなんだ。
そうすると私は、誰ももはや雇用されることはないだろう―みんなベンチャーを始めるだろう―と主張しているのだろうか?もちろん違う。しかし、現在ベンチャーをしている人よりもずっと多くの人々が、ベンチャーをするようになりうると主張しているんだ。現在の所、とても賢い学生でさえも仕事に就かなければならないと考えながら、どんな形であれ学校を去っている。【注17】実際は、彼らがやる必要のあることは何かを価値あるものにするということなんだ。仕事に就くことはそうする一つの方法だが、ずっと野心的な人々は大抵雇用者からよりも投資家からお金を得ることで今後はより裕福になることだろう。
ハッカーたちはビジネスはMBAを取った人々のためのものだって考える傾向にある。けれど、経営学をベンチャーでやることになるわけではない。やることになるのはビジネスを創造することなんだ。そして、その第一段階はほとんど製品を生み出すこと―つまりハックだ。それは困難な部分だ。人々が非常に好む何かを取り上げ、それから利益を得る方法を考えることよりも、人々が好む何かを作り出す方がずっと困難なんだ。
人々をベンチャーを立ち上げることから遠ざけるもう一つのものはリスクだ。子供と住宅ローンのある人は、ベンチャーを立ち上げる前に二の足を踏むだろう。しかし、ほとんどの若いハッカーにはそのどちらもない。
そして、オープンソースとブログの例が示すように、たとえ失敗するとしてもベンチャーをずっと楽しむことになるだろう。オフィスに出向いて言われたことをやる代わりに、自分自身で選んだことに取り組むことになるんだから。自分で設立した会社にはずっと多くの痛みがあるかもしれないが、会社勤めをするのと同じぐらいには痛まないものだ。
長い目で見てそれこそがオープンソースとブログの基礎をなしている力がもたらす一番大きな影響だろう。つまり、最終的に古くなった温情主義的な雇用者-被雇用者関係をやっかい払いし、純粋に対等な者の間の経済的な関係に取り替えることになるということだ。
原注
- [1] -- 2005年1月31日付けのBusiness Week誌のカバーストーリーに掲載されたForrester Researchによる調査の結果だ。OSを変更するためにサーバーを取り替える必要があると信じてしまう人もいただろう。
- [2] -- travaillerという言葉は後期ラテン語のtrepaliumから派生した言葉だ。このtrepaliumがこのように呼ばれるのは、それが三つの杭で構成されているからだった。私はその杭がどのように用いられたのかまでは知らない。"travel"も、このtravaillerと同じ語源を持つのだ。
- [3] -- その意味では、もし大統領が記者会見を行って予想外の質問に遭遇するとすれば、それはずっと大きなニュースということになるのだろう。
- [4] -- 新聞各社が持つ競争力のなさの程度を示すものは、非常に多くの人が依然として新聞を読ませるために新聞を取らせようとすることだ。私はまだ新聞を取らせようと試みるブログを見つけることがある。
- [5] -- 編集者はその記事を受け入れてくれたが、私が最終稿を送るのに非常に時間をかけてしまったために、編集者がその原稿を受け入れてくれる予定になっていた雑誌のコーナーが誌面改変のために消えてしまった。
- [6] -- 「上司」という言葉はオランダ語で「主人」を意味する"baas"から派生したものだ。
Sarah Harlin, Jessica Livingston, そしてRobert Morrisに感謝する。このエッセーの原稿を読んでくれたので。
訳注
- 注1 - 背景にはおそらく「オープンソース」で一番最初に連想するのがLinuxという事情があるのだろう
- 注2 - 原文では"audience"という訳語が当てられている。おそらく意図としては、「ユーザー」("user")という言葉は「プログラムを制作した側と使用する側のコミュニケーションが成り立っていない」ということを前提にするから避けたのだと思います…たぶん(→サジェスチョンをお待ちしています(__))。ここでは理解のしやすさ優先で「ユーザー」と訳してみました。
- 注3 - "travail"は『リーダーズ英和辞典』によれば、「辛い仕事」という意味だ。
- 注4 - ちょっとわかりにくいので解説すると、(1)「アマチュア」には現在悪いイメージがある (2)「人々は自分たちが好むものには非常に一生懸命に取り組む」ことを知っている「我々」からすれば「アマチュア」はむしろいい意味になることが容易に理解でき、そして語源的に見れば「アマチュア」はもともといい意味だった (3)けれど、「アマチュア」は悪いイメージが先行しているために、語源的な意味が忘れられてしまっている
- 注5 - おそらく、アメリカでは「職業」には「形式にこだわること」・「公平」のような言外の意味があったのだろうと思われます。
- 注6 - 「チャンネル」は何かを伝達するときの、その経路となるもののこと。
- 注7 - ここでは本来の意味での寡占という意味ではなく、「プログラミングを職業とする少数の人が作り出すソフトウェアしかユーザーは興味を持たないはずだという意識」を意味する。
- 注8 - マンガの車の描写を念頭に置いているのだと思われる
- 注9 - 未成年が、こっそりたばこを買う権利が同じような問題を提起しているように思います。
- 注10 - Paul GrahamはVia Webというベンチャー企業の社長だった
- 注11 - http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CD%A5%C3%A5%C8%A5%EF%A1%BC%A5%AF%B8%FA%B2%CC?kid=66452によれば、
潜在的な顧客にとっての物やサービスの価値が、既にその物・サービスを利用している顧客の数に依存すること。より多くの顧客が物・サービスを利用するにつれてその物・サービスの価値が増す場合、その物・サービスには、正のネットワーク効果があるという。例えば、ビデオテープの規格、パソコンのOS、キーボードの配列、通信ネットワーク、クレジットカードのブランド等に見られる。
だそうだ。 - 注12 - 「コスト」と訳してはいるが原文では"direct cost"と表現されている。直訳すれば「変動費」ということになる。経済辞典によれば意味は「特定の製品の製造または販売のために直接費消されたと認識しうる原価要素をいう。個別費ともいい,一般に生産量が変化するにつれて変化する費用(変動費)の性質を有する。直接費は,具体的には,直接材料費・直接労働費・直接経費からなる製造直接費と販売直接費とに分れる。」とある。つまり、「ミーティングをするためには個々人が時間を合わせ、さらに一定時間同じ場所にとどまらなければならない」と述べたいのだと思われる。
- 注13 - 編集者が記事を記者たちに割り当てることで記者たちが何を書くのかを指示することで次に話題になるべきものを指示し、そして書いてきたものを編集することによって質を確保していた…ということだと思われる
- 注14 - 荒天・濃霧時に地形地物目標によらずコンパス・速度計・飛行[航海]時間をもとに自機[自船]の位置を推測する
- 注15 - スティーブ・ジョブスと共にAppleを起業した人
- 注16 - つまり主人-奴隷というモデル
- 注17 - 原文では、"leave school"とある。この表現は「卒業する」・「退学する」のどちらの意味も持つためにこのように訳している。