これまで私の見てきた高岡さんの作品の系列の中で、一番造形的にひかれ、しかも考えさせられるものとして、「知の柱」という作品がある。縦に長い形で、底部は割った石そのままの肌を残して、ちょうど球根のようにふくらんで、極めて安定した形に作られている。しかしその上に伸びてゆく形は、ちょうど武器の矛のように、平たく薄く磨き上げられて、人間の叡智を象徴するように、シャープに仕上げられている。その疎と密、塊と面、そして自然と人間の作りといった対象が、この造形をこの上なく印象的にしているのである。旭川彫刻美術館前に設置された「知の柱」は、対に向かい合った二本、その間に緊張した空間を作っていて、バリ島のヒンズーの門を思いおこさせる。さらに柱が7本集合した作品「SUMMIT」が、新潟市の地域産業振興センターに設置されている。これは先進七ヶ国の首脳会議のことをあらわしているのであろうが、造形の巧みさに、さらにプラスαが作動してくるところが面白い。サミット首脳たちは横一列にならんで、記念撮影するのが恒例だがこれら七本の柱も、ぴっしりと横一列にならべられている。
 この柱は高岡芸術の中のでも、重要なポイントとして、制作の節目にあらわれてくるように思われる。個の柱の群像はもっと前にも作られており、展示の場所に応じて、円形に配置したり、不定形に置いたりして、すでに自由な空間を作っていたのである。
 さてここで、「知の柱」の魅力について問われたとしたら、おそらく上部の鋭い形に磨きあげられた肌にあるとする人が多いであろう。しかし先日、高岡さんに会ったとき、考えようによっては、この魅力を否定するように、石を磨くということについて、それが造形を甘くしてくる懸念のあることを話してくれた。つまり人間のわざが、自然の持つ強さを、たわめてしまうのではないかということである。私はその作品を思い浮べながら、高岡さんが心の中に、常に自然の力を見極めながら、それに対決する人間の力を認識しようとしているのを感じた。
 高岡さんの「時を内包した形」(1994年作)と題した作品がある。これは石を刻む高岡さんの全ての作品についてもいえることであろう。彫刻の素材としての石は、何百万年、何億年という想像を越えた「時」を持ちつづけてきたものであり、その集積の上に、堅確にしてずっしりと重さを持った正に「神の手」になるものと考えられるであろう。
 私の息子の一人は地質学者のはしぐれで、かつて彼とともにヨーロッパの主だった自然史博物館をまわったことがある。息子を主体とした旅で、美術館を見ないという約束であった。しかし、美術館を見ないでもいい驚愕の感動を覚えた。この悠久の時間に形成されてきた石のすがたは、この百年くらいの美の軌跡を、ああでもないこうでもないとあげつらっている者にとって、想像を絶した密度と変化を示していたからである。やはり神の手になるものに違いない。
 さらにここで引用したい事例がある。版画の鬼才棟方志功さんは、その版画について、「間違えてさえ、本物になる」といっている。これは自らの作品を「版画」といわず「板画」(いたが)と称していることに関係がある。棟方さんの肉筆は奔放に走りすぎて、表現にゆるみを覚えさせるのに対して、版画は媒体としての板による抵抗を生じて、かえってそれが客観である板にそうことで、その真価が止揚されてくるということである。
 このような棟方方式に言えばにいえば、高岡さんが自らの研磨について、「間違えてさえ」とする懐疑をいだいたとしても、石の客観的な力にそってゆく哲学をしっかり持つことで、それは人々をひきつけてやまない魅力のポイントとなってゆくのである。

text 本間正義 
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