村越 才助
(生没 不明) 元江戸幕府御鷹匠同心 元宮内省鷹匠
幕府瓦解後、大名家(前田 、宇和島 伊達宗徳)に仕える。
静岡に隠居した、徳川慶喜公の命を受けて静岡へ、鷹術の指導
及び実猟に携わる。(「徳川慶喜と華麗なる一族」祖田浩一著)
に詳しい。
写真を見てもわかるが、江戸時代の鷹匠の姿がそこにある。
頭にかぶっているのは、ポーポー頭巾、頭巾の下は丁髷がゆって
ある。 背中のぶちなど、まさに江戸時代のままだ。
(生不明〜昭和12年4月16日富山県にて80歳で死去)
元宮内省 鷹匠
幕府雑司が谷組 鷹匠同心の家に生まれる。
大名家の鴨場に勤め、宮内省にも少しの間勤める。
越谷鴨場(埼玉鴨場)を、会津藩の鷹匠 伴正臣氏と共に共同設計する。
三菱創始者 岩崎 弥太朗の鴨場等、多くの鴨場作りに参画する。
昭和初期、大阪にて鴨場を作ろうとしたが、頓挫して上京する。
その頃、丹羽有得 丹羽茂彦両名が弟子入りした
鷹匠として、後世まで名を残す。
仙太朗氏の弟 村越 文次朗(むらこしぶんじろう)も、鷹匠として
宮内省に勤務し、その後、村山貯水場(現 多摩湖)に、鴨場が
出来たのを機に移る。その頃、田無市の富田 俊男氏が弟子入りする。
加納 定次朗
(生没不明) 元黒田藩 鷹匠 元宮内省 鷹匠
父も黒田藩 鷹匠であった。
日露戦争の時、放鷹調査委員が設定され、岡山県知事より贈られた、
山帰り(親)ハヤブサを仕込む。
日本で、親ハヤブサを仕込むのは、非常に珍しい。
剣道の名手でもあった。黒田藩の鷹匠の流れが途絶えてしまったのは、
残念である。 その事は、(「全集日本動物誌」黒田長禮著)に
詳しい。
丹羽 有得
(明治34年4月8日〜1993年2月23日死去)
昭和5年頃、新聞記事にて、村越 仙太郎を知り、弟子入りを
許される。その後、兵役、終戦と大変な時期を体験した。
鷹への情熱が消えぬ時、大原 総一朗の知遇を得て、
「日本鷹狩クラブ」を設立、多くの弟子を育てる。
目黒 弘
(生不明〜昭和46年1月28日死去)
大学在学中に、茨城県在住 丹羽 茂彦を知り、弟子入りを
許される。 小鳥屋を営みながら 鷹狩りに、熱中する。
オオタカにて、雁(この当時は雁はまだ狩猟鳥だった)を、捉える
事に 成功する。 若くして病に、倒れ、帰らぬ人に、なった。
昭和30年〜40年代と、実猟の灯を、けさなかった
最大の功労者とおもっている。
丹羽 茂彦
(生没不明)
昭和初期、村越 仙太郎氏に、弟子入り、その後、全国を回り、
昭和18年頃、茨城県鹿島郡 息栖村に、鴨場を、設立する。
昭和31年頃、目黒 弘氏が、弟子入りする。
ちなみに、(「日本鳥類狩猟法」堀内 讃位著)の新刊の、鷹を、
据えてる写真の、丹羽 茂彦は、別人で、ある。
伊藤 喜平
(生没不明)
若い頃より、鷹に魅せられ、飼育、仙台市の目黒 弘氏とは、
同じ宮城県で、仲がよく、鷹狩りに、熱中する。
昭和30年〜40年代に、鷹狩りを、していた、数少ない人である。
高橋 進
(1939〜1992)
若い頃、鷹に、魅せられ、ギターリストとして、仙台市の公演中
目黒氏の、小鳥屋に、立ち寄った縁で、目黒氏に、弟子入り
文通にて、鷹の仕込みを、習い、鷹狩りにも、同行する。
オオタカの人工繁殖に、成功、鷹に関しては、
天才的なセンスが、あった。
西尾 俊通
(昭和24年8月24日〜 現在56歳)
森 覚之丞研究会 主宰
昭和50年名古屋の「日本鷹狩クラブ」の、丹羽 有得氏に、
転居して、弟子入り、翌年より、高橋 進氏にも、師事
以後、実猟と、吉田流鷹書の、研究に尽力する。
江戸時代の、吉田流復活が、最大のテーマ。