アルマンド・ギターラ
(伝説的オーケストラ奏者〜元ボストン交響楽団)

私が大学1年生の時(1982年12月)、
この伝説の大オーケストラ奏者が大阪芸術大学にやって来た。

室内楽か管弦楽の授業の単位の一環として
“ギターラのトランペット公開レッスン”が開かれ、
演奏学科管弦打楽器専攻生は
全員聴講することが義務となっていた。

私の当初の予定では
余裕で“高みの見物”をさせてもらうはずであったのだが、
なぜか1年生の私が受講生の1人に選ばれ、
大勢の先輩方や同級生の前でレッスンを受けなくてはならない
羽目になってしまったのである。

しかしこのことが結果的に
その後の私の方向性を大きく決定付ける要因となった。

 当時の私は、翌年(1983年)に参加することが決まっていたクラウド・ゴードン国際ブラス・キャンプに備えてシングル・タンギングの方法をいわゆる(ゴードンが言うところの)“Kタング・モディファイド(K Tongue Modified−以下、KTMと呼ぶこととする)”というやり方に変更し練習し始めたところであった。

 アルマンド・ギターラの大阪での一連の公演(リサイタルや一般の公開クリニック)と比較的近い時期(少し前)の1982年11月19日、大阪のヤマハ・ミュージックセンター御堂筋に於いてトランペット奏者の杉山正氏をまじえた『古えの超絶ラッパを聞いて呆れる会』が開かれた。クラウド・ゴードンに関する情報を得るためにこの会に出席した私は、杉山氏から「どうせ向こうへ行ったら“KTM”に変えなきゃならないんだから、今のうちからやっといたほうがいいよ」という助言を受け、そうすることに決心したのである。 ---“KTM”と併せて“Kタング(K Tongue)”の練習もやり始めた --- しかし当時は情報も殆んどなく半信半疑で、まさに試行錯誤の繰り返しであったように記憶している。

KTM”に関しては、
身近に模範を示してくれる人もなく、
自分が正しくできているのかどうかもよくわからない状態であった。

当時、この“KTM”に関する情報は、
私の周りには全くといっていいほどなかったのである。


大学で先輩や同級生に話しても、
「なんじゃ、そりゃ?そんなこと聞いた事もないわ!」とか、
挙句の果てには、
「おまえ、もしかしたら何か変な流派
(宗派)の奏法(宗教)にでも引っ掛かってんのとちゃうか?」、
「おまえ、変わっとんなぁ〜。大丈夫かぁ?」などと
まるで私が奇人変人であるかのように言われたこともあった。



しかし当時の私には、とりあえずやってみるしかなかったのである。



KTM”に取り組み始めて約半月後、
アルマンド・ギターラの大阪に於けるソロ・リサイタル&公開クリニックがあった。

ソロ・リサイタルは
1982年12月2日に毎日国際サロン、12月18日に帝塚山短期大学音楽ホールで
それぞれ行われた。

私は、毎日国際サロンの公演に行った。

一般の公開クリニックも確かこの日程に近い日におこなわれていたが、
残念ながら貧乏学生の私には、
リサイタルとクリニックの両方のチケットが買うことができず、
たいへん興味はあったのだが、
クリニックの方を泣く泣く断念した記憶がある。

 アルマンド・ギターラは、アメリカを代表する伝説のオーケストラ奏者の一人として有名で、28年間ボストン交響楽団に在籍したのち、1979年からは国際的なソロ活動に専念していたそうである。また、ミシガン大学の教授でもあったそうだ。高校生の時、私は1960年代後半に録音されたクラウディオ・アバド指揮のボストン交響楽団によるスクリャービンの“法悦の詩”を聴いて、そのソロ・トランペットに強く感銘を受けたことがある。その奏者がこのアルマンド・ギターラであったということを、私はこの来日ではじめて知ったのである。

 リサイタルでは、既にご高齢(失礼ながら・・・)であったにも関わらず、終始圧倒的なパワーをみせつけられた。プログラムは、G.P.テレマンのD-durの協奏曲、H.トマジの協奏曲、H.L.クラークの波間の花嫁、J.N.フンメルの協奏曲(E-durで)等であった。アメリカに行けばあのようなモンスター(怪物)がいっぱい居るんだろうなぁと思って家に帰ったことを思い出す。 ---翌年の渡米はもちろん楽しみではあったのだが、正直のところ、このリサイタルを聴いて少しだけ不安になったのも事実である---

このリサイタルの後に
このアルマンド・ギターラが“大阪芸大に来るらしい”という噂を耳にしたが、
どうせ1年生の私には無縁のことだと思っていたし、
もし噂が本当でも、
“大学で無料(タダ)でギターラの公開レッスンが見れるんやったらお得やな”
程度にしか思っていなかった。


しかしながら、
当時の私には、翌年の渡米と“KTM”等のことで頭の中が一杯で、
はっきり言って、実際問題それどころではなかったのである。

 そんなこんなで“KTM”や“Kタング”に悪戦苦闘していたある日、私は大学で森下先生に呼び出され、「こんど、アルマンド・ギターラという人が、うちの大学に来て公開レッスンをするから、おまえレッスンを受けろ!」と言われた。噂は本当であった!しかも“高みの見物”をさせてもらう予定まで狂わされてしまった・・・えらいこっちゃ!!・・・こうして演奏学科のトランペット専攻生の中から私を含めて3名がギターラのレッスンを受けることになったのである。

 4年生の一人の先輩はネルーダのコンチェルト、2年生のもう一人の先輩はアーバンのラスト・パートの4番のエチュードで公開レッスンを受けることになった。一方、1年生の私は一体何をすればよいのかと森下先生に尋ねると、「別に何も用意せんでもええのとちゃうか?音階でも吹いてみたら?身一つでスケールとかタンギングとか基本的ないろんなことを適当に見てもらったらええやん。好きなようにやってみぃ!」と言われた。--- ただでさえタンギングのやり方を変えたばかりで上手く吹けるかどうか心配なのに、その上、何の準備もさせてもらえないなんて・・・これは私に対するイジメか嫌がらせなのか?と最初は思った --- 今振り返れば、森下先生は、私がタンギング等で迷っていた事もよくご存知で、ギターラのレッスンを受けることで何らかの手掛かりを得る機会を与えてくれようとしていただいたのではなかったかとも思えるのであるが、真意は定かではない。 

正直のところ、私はギターラのレッスンを受けたくなかった。

音楽大学内の公開レッスンなのに
何の曲もエチュードもさせてもらえないということは、
音大生(一応)としては屈辱的に思えたし、
だからといって
何か曲やエチュードを与えられたとしても
タンギングの方法を変えたばかりで試行錯誤の状態では
たいして上手く演奏することもできなかったはずに違いなかったからである。



公開レッスンに向けて
曲やエチュードをさらって仕上げるという目標が持てるという点で、
実際、一緒にレッスンを受けることになっている4年生と2年生の先輩方が羨ましかった。

それに引き換え私は、
何の目標を持つこともできず(ゆえに心の準備もできない)、
また、正しくできているかどうかもわからない“KTM”や“Kタング”と日々苦闘しながら
ただいたずらに公開レッスンの日が来るまでの時間を過ごし、
当日大勢の人達の前で醜態をさらけ出さなければならないかと思うと
非常に憂鬱で逃げ出したい気持ちだった。

でも結局、逃げ出すことができないまま公開レッスン当日を迎えることになったのである。

 公開レッスン当日、私は異常なまでに緊張していた。過日のソロ・リサイタルの時に見たあのアメリカの伝説のモンスターが、ことごとく私のすべての価値観をブチ壊しに来るのではないかという恐怖感と妄想に襲われていたのである。 --- 大芸大の校舎の向こうから、腕を袖に通さずに黒いコートを背中にまとったギターラの姿が見えた時、まさに“黒船に乗ったペリー来襲!”という感じに思えた。 ---

 公開レッスンは、1年生の私から始まった。ギターラに「何か吹いてごらんなさい!」と通訳者を介し異なる言語(たんなる英語なのだが・・・)で話しかけられているにも関わらず、それまでの緊張が嘘のように消え去り、また何か大きく包み込まれたかのような安心感を得たことを覚えている。 --- ギターラという人物の懐の深さと包容力がそう感じさせたのだと思う --- 私は、「音階を吹きます!」と答えてC-durのスケールをゆっくりと一音ずつタンギングをして吹いた。緊張が完全に取れていたせいか、いつもより調子が良かった。それからいろいろなことを指示され、それらを順に吹いていった。まるで、お釈迦様の掌の上で遊ばせてもらっているかのように伸び伸びと吹くことができた。当初、“音大生でありながら曲やエチュードをさせてもらえないような屈辱的なレッスン”になるのではと予想していたのとは正反対に、むしろそういう意味では体裁の整った非常に内容の充実したレッスンをやっていただけたのではないかと思えるほどであった。

 レッスンの最後に、「何か質問はないか?」と聞かれたので、私は質問を二つした。

 まず、「私は、高い音を出すのが苦手で、どのような方法を用いどのように克服すればよいでしょうか?」という質問をした。するとギターラは、「私が今からするように真似してみなさい。」と言い、(楽器を使わずに)歯と歯の間から舌を出し、舌と上顎の狭い隙間から強く息を吐き出し“シ(ス)ィーッ!”というような風きり音を発した。私もそのように真似してやってみせるとギターラは「それができるんだったら高い音は必ず吹けるようになります。」と答え、この質問に関してはこれで終わった。 --- あまりに簡単な回答だったので、当時、私は軽くあしらわれてしまったのだと思った。(しかし、今考えると極めてシンプルでかつ奥が深い絶妙な模範回答ではないかと思える。) ---

 次に、「私は、実は来年の渡米に備えて数週間前からシングル・タンギングのやり方をそれまでやってきた方法とは違うやり方に変えているのですが、それがどうも正しくできているのか、それとも間違っているのか、よくわからないのですが・・・どうなんでしょうか?」と質問してみた。「正しくできています。音を聞けばわかる。ただ、不慣れなだけだ・・・よく練習して早く熟れることだ!」とギターラは答えてくれた。 --- なんと!不慣れなことまで見抜かれていたのだ!・・・しかし私は、散々悩んできたタンギングの方法などについて、この時はじめて踏ん切りをつけることができたような気がした。また、正しいやり方でやることと上手くできるということは別問題であるのだということも自覚することができた。 --- “私は、間違っていなかった!このやり方でやって行こう!”、こう決意したのであった。


 私のレッスンが終わると引き続き、2年生と4年生の先輩のレッスンがおこなわれた。エチュードや曲を演奏し、音楽的な注意点を指摘してもらいながら進められていくような、いわゆるオーソドックスな音大生の公開レッスンであった。(聴講していた殆んどの人があまり関心を持っていなかったかもしれないが、・・・)お二人とも要所要所でアタックについてかなりしつこく指摘されてやらされていたことが、私には強く印象に残った。


 公開レッスン終了後、森下先生とトランペット専攻生によるギターラを囲んでのしばしの歓談があった。そこで、ギターラは森下先生に向って「貴方は、なぜアタックに問題がある学生に難しい曲やエチュードをやらせ、問題が無い学生に何もやらせなかったのですか?」と聞いた。それに対して森下先生は、私の方を指して「彼は1年生だから基本的なことを見ていただけるよう特に何もさせませんでした」、2年生の先輩の方を指して「彼は2年生なので有名なアーバンの教則本からのエチュードをやらせました」、4年生の先輩を指して「彼は4年生だからコンチェルトをやらせたのです。」と答えていた。 --- いくら通訳者を介しての歓談とはいえ、“何か話が噛み合っていないなぁ”と私は思った。しかし、私は密かに心の中でほくそ笑んでいたことは言うまでもない。(アタックの良し悪し等について、森下先生にも周りの人達にとっても、さほど問題に思っていなかったのかもしれないが・・・当時の私には重大な問題だった!) ---

この時に受けたギターラのレッスンによって私は、
タンギングの方法については、迷うことなく取り組むことができるようになった。

間違いなく
現在の私の土台となっていることは言うまでもない。



その翌年(と翌々年)、
私は、クラウド・ゴードン国際ブラス・キャンプに参加することになったのだが、
ギターラに関して妙な廻り合わせとも思える出来事があった。

 私が参加したクラウド・ゴードン国際ブラス・キャンプに、当時フィラデルフィア管弦楽団の首席トランペット奏者のフランク・カデラベックが参加したことがある。期間中、共に同じ合宿生活をしていたのだが、カデラベックは夜にソロ・リサイタルをするために招かれている特別ゲストという立場で、一方私は単なる受講生という全く違う立場でありながらカデラベックは、わだかまりなく気さくに話しかけてきてくれたりした。アメリカのメジャー・オーケストラの首席奏者が、私のような大阪の田舎(実際、大阪芸大は大阪のやや田舎にある)の音大生相手にもトランペットの事や練習の話などをいろいろとしてくれたのである。

 カデラベックとの会話の中で私は、「あなたが今までに一番感銘を受けかつ影響を受けたオーケストラのトランペット奏者は誰ですか?」という質問をした。 --- 私の語彙力の都合もあり、大して気の利いた質問はできなかった。こんな質問をしても、おそらく“アドルフ・ハーセス”あたりと答えるのではないかと予想していたし、仮に予想通りの回答が返ってきても次に会話を繋ぐことができずに会話がここで途切れてしまうだろうなぁ・・・と思いつつもこの質問をしてみるしかなかったのだった。 --- するとカデラベックは、何と「アルマンド・ギターラを知ってるか?!あれほど驚異的なオーケストラのトランペット奏者を私は他に見たことがない。」と答えたのだ!意外な回答に驚いたが(逆に嬉しくなり)、このあと会話は途切れるどころか盛り上がり、私は私の持てる語彙の限りを尽くして、“ギターラが自分の大学(大阪芸大)に来て公開レッスンをしたこと”や“私のタンギングについてギターラが答えてくれたこと”等を伝えた。「ギターラが“正しい”と言ったのなら間違いない。ギターラに“正しい”なんて言われるということは凄いことだ!」とカデラベックは答えてくれた。 --- まさか、こんなところでギターラの話題がでるとは思ってもみなかったが、・・・これも神様か仏様のお導きではないかとさえ思った。 --- 

私がアルマンド・ギターラと直接関わった時間は、
実際には、
ほんの数時間に過ぎなかったのだが、
その後の私の喇叭人生に大きな影響をもたらしていることは
間違いのない事実である。


アルマンド・ギターラの記憶の中には、
私のような人間の存在など、おそらく一片のかけらも残っていないに違いない。

しかし、
私には、この“アルマンド・ギターラ”という名前をけっして忘れることはできないのである。


“金管奏法に秘密なし” へ戻る

“クラウド・ゴードン国際ブラス・キャンプ” (次)へ

“初期のパイパーズは最高の教科書だった!” (前)へ