チモフェイ・ドクシツェル
(ロシアが誇る世界的ソロイスト、ボリショイ劇場管弦楽団)

私にとって
チモフェイ・ドクシツェルは
神のような存在である。


私は今までに生のドクシツェルを二度この目で見たことがある。

一度目は
1979年6月23日東京の日本都市センターホールにおけるソロ・リサイタル、
二度目は
1979年10月3日大阪フェスティバルホールにおける
ボリショイ劇場管弦楽団(Y.シモノフ指揮)・日本公演の時である。

当時、私は高校2年生だった。

 私が、ドクシツェルを初めて聞いた(知った)のは高校1年生の時のあるFM放送(確かNHKではなかったような気がする・・・)の番組だった。番組のタイトルは忘れてしまったが、世界の有名トランペット奏者の演奏を聞き比べるという趣向の番組だった。ゲストに故・中山富士夫(東京芸大教授)氏と大蔵滋夫(新日本フィル)氏を招き、世界の有名奏者の演奏を聞きながら解説やコメントをするといったものだった。

 放送の中ではドクシツェルの当時発売直後のLP『超絶のトランペット』から“熊蜂は飛ぶ(リムスキー・コルサコフ)”、“ホラ・スタッカート(ディニーク/ハイフェッツ編)”、“チゴイネルワイゼン(サラサーテ)”等、モーリス・アンドレの来日記念盤LP『ポップス・コンサート』から“熊蜂は飛ぶ”、“ホラ・スタッカート”とドクシツェルと同じ曲目を聞き比べ、ゲストの両氏が「どちらも甲乙つけ難い驚異的名人だ!」と唸っていた記憶がある。

 また同放送で、トーマス・スティーブンスの輸入盤LP『The Contemporary Trumpet』から現代作品の“Times(Frank Campo)”、“Variation Movements(Robert Henderson)”等が紹介された。特に、Frank Campoの“Times”では当時日本で流行(?)のペダルトーンが使われていて、大蔵氏のスタジオ内でのペダルトーンの実演を交えた解説に私は興味津々でラジオに釘付けになっていた。

 当時は、今よりもかなり充実した内容の音楽番組(トランペットに関しての)が放送されていたように思える。

      
LPジャケット写真:左から『ドクシツェル/超絶のトランペット』、『アンドレ/ポップス・コンサート』、『Stevens/The Contemporary Trumpet』

この放送がきっかけとなり私はすっかりドクシツェルのファンになってしまった!

これ以後に発売された日本盤LPレコードは全て購入し、
また入手可能な輸入盤LPレコードも買い集め、
私の高校時代はまさに“ドクシツェルのLP貧乏”の時代でもあった。

収録内容が同じでもジャケットの写真や図柄が違うだけでついつい買ってしまうし、
CDの時代になってもそれは今現在も続いている。

いつの間にかまるでコレクターのようになってしまったのだが、
輸入盤の解説によると私の知らない録音がいくつかまだ存在するようで
私のドクシツェル・コレクションは未だ不完全だ・・・悔しい!

 高校2年の6月、ようやく念願が叶いドクシツェルの生の演奏を聞くことが出来た。ソロイストとして単独の来日で、残念なことに大阪公演はなく、東京公演を聞きに行くしかなかった。1979年6月23日東京・日本都市センターホールにおけるソロ・リサイタルである。確か、ステージに向かって前から7列目で中央からやや上手寄りの座席だったように記憶している(すぐ真近で見ることが出来た)。

   
1979年6月〜7月のチモフェイ・ドクシツェル来日公演のプログラム

 ドクシツェルの演奏は、私に消すことの出来ない強烈な印象を残した。その衝撃は、コンサートの1曲目の出だしの音からはじまった!曲目は、J.S.Bachの“es-mollのプレリュード”だった。この曲はゆっくりとした吹き伸ばしから始まる曲で、私はこのたった一発の音で既にノックアウトされてしまったのである。・・・なんと表現すればよいのか難しいのだが・・・あえてその時思ったことを言葉に表すとすれば、“地面が無くなったような”または“まるで異次元空間にでも放り出され自分自身の存在する座標を失い心地よく夢を見させられているかのような”といったところだろうか?ステージに登場してきた時から何か空気が変わったような気がしていたが、音の質はもちろんのこと桁違いの音楽性と説得力、また人間的に大きく包み込まれる優しさを感じさせられた。どの点をとっても私の想像をはるかに絶するもので、トランペットでこれほど人の心を動かすことが出来るのかということをまさに思い知らされた瞬間であった。そう、“天の声”というのが一番ふさわしいのではないかと思う。

 コンサート終了後、楽屋を訪ね握手をしてもらいあらかじめ用意していた色紙にサインをしてもらった。この色紙は今も私の宝物として、喇叭吹奏道竹浦塾・大阪本部道場の壁に飾っている(下の写真)。 --- その時楽屋で少しだけドクシツェルが使っている楽器を触らせてもらった(吹かせてもらったわけではない)が、楽器はラッカーのベンジでマウスピースはバックの6Cだった。 --- 忘れることの出来ない思い出である。

 次にドクシツェルを見たのは同じく高校2年の10月だった。単にY.シモノフ指揮のボリショイ劇場管弦楽団の大阪公演を聞きに行ったのだが、当日ホールのロビーでプログラムを買うまでまさかドクシツェルの演奏が聞けるとは思ってもみなかった。事前の広告やチラシでは、オーソドックスなロシア(当時はソ連)のオケの演奏会用の曲目が予定されていたのだが、プログラムが急遽変更されドクシツェルがソロイストとして演奏することになった。曲は、ガーシュウィン/ドクシツェル編曲の“ラプソディー・イン・ブルー”だった。

 私は学生用の2階席の最後列の1列だけに用意された1番安いチケットで入場したのだが、1階席を覗くとなんと最前列が全部空席になっていた(オケの演奏会なのでワザと空けていたのかもしれないが・・・)。私は、ドクシツェルの出番は1部の2曲目なので1曲目のプロコフィエフの“ロミオとジュリエット(抜粋)”が終わって次の曲までの間にあそこ(1階席の最前列でドクシツェルの立ち位置の近く)へ行くしかないと思い、勇気を出して実行した。ドクシツェルを右斜めに見上げる僅か数メートルの距離のところ(ドクシツェルのほぼ足元に近い)で聞くことに成功した!

   
1979年ボリショイ劇場管弦楽団日本公演プログラム〜10/3大阪公演はプログラムB〜


上記プログラムに折り込まれていた曲目変更の告知

 演奏はドクシツェルの実音Fのトリルからのグリッサンドで“ラプソディー・イン・ブルー”が始まった。3ヶ月ちょっと前に東京で聞いた時と同じ衝撃が再び私に襲いかかってきた!自分の目の前で現実にこのような現象が本当に起こっているのかどうか、これは夢ではないだろうかと何回も確かめたほどだ!

 音の響き・色・艶、アタックの鮮明さと桁違いの軽さ、そして正確さ、演奏中の姿勢、またステージ上での存在感とマナーの良さ等、トランペット奏者たる者はこのようにあるべきであるという指標を見せつけられているような感じがした。 --- この演奏を聴きながら私は、・・・(念のため)私はドクシツェルに直接習ったことは一度もないのだが・・・まるでこの先の私の人生の残りの一生分の課題を与えられたかのような思いがした。

 “ラプソディー・イン・ブルー”の演奏が終わって、ドクシツェルへの喝采が鳴り止まずアンコールを3曲やったように記憶している(曲順は定かではない)。“ホラ・スタッカート(ディニーク/ハイフェッツ編)”、“ナポリの踊り(チャイコフスキー)”、“セレナード(グノー)”の3曲だった。

 ドクシツェルの演奏が終わり、私は(ホールの係員に注意される前に)2階席の最後列の自分の元の座席に戻り、演奏会後半(2部)のチャイコフスキーの“交響曲第6番”を聴いた。

 数ヵ月後、この1979年ボリショイ劇場管弦楽団日本公演の東京公演(場所:東京文化会館)の模様がNHK教育の番組“芸術劇場”で放送された。もちろん私はビデオに録画し今も大切に保存している(最近、DVDに焼きなおした)。貴重な宝物の一つである。

以後、私は単なるファンにとどまらず熱烈なるドクシツェルの“信者”となったのである。


私にとって神のような存在であるドクシツェルは
いったいどのようにしてあのようにトランペットを演奏できるようになったのか?
非常に興味のあるところだが・・・当時の私には手掛かりなど
見つかるわわけはない。




それから20年以上すぎて、・・・
私は手掛かり(になるかもしれない)の一つの資料を入手した。


“Timofei Dokshiser, Russian Trumpet Virtuoso
/Biography in English”
のビデオテープ

 数年前、私は東京で“Timofei Dokshitser, Russian Trumpet Virtuoso/Biography in English”というビデオテープを入手した。内容は、文字通り“ドクシツェルの伝記”でドクシツェル自身が語っている言葉(おそらくロシア語)をナレーターが英語に吹替えているといったもので、合間に貴重な演奏の映像等も収録されている。

 このビデオでドクシツェルが語っている話の中で、非常に興味深くまた感銘を受けたものがあるので是非ご紹介したい。 --- もしかすると、ドクシツェルの“演奏の秘密”を解き明かす一つの手掛かりになるのではないかと私は思う。

 まずドクシツェルが習った二人の先生についてこのように語っている。以下は、ドクシツェル自身が語っている言葉(日本語訳)の引用である。

 『私はある学校に入学しました――いや、実は二つの学校に入学したのであって、一般的な学校に通いながらグネーシン音楽大学の附属学校にも通っていました。私の最初のトランペット教師は、ボリショイ劇場の有名なトランペット奏者だったイワン・アントノビッチ・ワシレフスキーでした。彼は私にとって先生であるだけでなく友人でもありました。彼とは、彼が死ぬまで親しくしていました。ボリショイ劇場では一緒に演奏もしました。ワシレフスキーは卓越した教師で、非常な短期間に素晴らしい演奏技術を生徒に教え込む方法を会得していました。彼の弟子たちは、教わった技術をその後の一生にわたって活用していくことができたのです。ワシレフスキーはレッスンで必ずアーバンの教則本を細かいところまで利用しており、教則本のさまざまな箇所から何百万個もの練習課題を課していました。彼は大成功を果たしました。彼の弟子たちはあっという間に技術が向上し、その成功に感激して更なる向上を目指していきました。ワシレフスキーから学んだことは今も私とともにあり、今度は私が次の世代のトランペット奏者に伝えようと努力しています。
 陸軍を除隊後、私はモスクワ音楽院の附属学校である中央音楽学校に入りました。才能のある生徒のための特別なクラスがありましたが、ここにはユダヤ人は入れませんでした。私はユダヤ人であるにもかかわらず入れましたが、それは私の二人目の先生であるミハイル・インノケンティエビッチ・タバコフの特段の要求のおかげでした。タバコフの教育方法は、ワシレフスキーとかなり違いました。彼は、技術にはそれほど注意を払わず、その代わりに音楽表現に心を砕き、特に音の美しさと解釈に力点を置いていました。タバコフ自身はロシア全国に名を知られた非常に優れた演奏家でした。ボリショイ劇場管弦楽団のトランペットのソリストでした。スクリャービンの《法悦の詩》にはたいへん印象的なトランペットのフレーズがありますが、スクリャービンがこれを書いたのは、タバコフの比類のない演奏を聞いたためだったのです。』

 ドクシツェルの演奏の中には、卓越した技能を開発する能力を持つワシレフスキーと高度な音楽性と表現力を兼ね備えたタバコフという二人の優秀なトランペット奏者の精神が生き続けているということがわかる。またドクシツェルがワシレフスキーについて語った言葉を聞いて、ワシレフスキーはおそらく(Claude Gordonがよく言うところの)“いつ、何を、どのように(HOW to practice, WHEN and WHAT to improve.)”を会得し実践してしていたに違いないと私は思った。

 発達・発育など絶えず変化していく肉体的要素に、適切なタイミングで上達するために必要な技術的要素をどのように加え、さらに研ぎ澄まされ洗練されていく音楽的感性と融合させていくということが、このドクシツェルのいわば“奏法の秘密”とでもいうべきものではないだろうか?

 また、モーリス・アンドレとの交流について述べているところがあり、ドクシツェルの物事を学ぶ謙虚な姿勢が伺え感銘を受けた。先程と同様、下記に引用する。

 『私たちは約20年前にパリで出会い、お互いを抱擁し、対話を持ちました。彼がまず何かを吹いて、次に私が吹く、という具合です。 --- (中略) ---
 ある時、パリで、モーリス・アンドレがたいへん立腹して私のところにやってきました。「奴らは馬鹿だ。何もわかっていない」と言うのです。通訳を介して何が起こったのかと尋ねました。彼の説明では、ドクシツェルがモーリス・アンドレのもとに「勉強しに」来たとパリの新聞に書かれている、と言うのです。確かに私は彼のクラスを訪問していましたが、それは彼の弟子たちに会い、対話をするためだったのです。私たちは話し合い、当然ながら楽器も吹きました。その場にいた記者たちが、その状況を勝手に解釈して書きたてたのです。私はモーリスに「なに、心配するな、恥ずかしいことは何もない。あなたの弟子になれたら誇りに思う」と言いました。これは当たり前のことだと思います。私たちは皆お互いから学ぶのであって、誰でも何か独自のものを持っているものです。』

 最後の言葉(『私たちは皆お互いから学ぶ〜』)は、奇しくも私の“喇叭吹奏道竹浦塾”の基本理念に一致するものであり、私はこのドクシツェルの教えにしたがって日々精進しなければならないとさらに決意を固くする次第である。

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