ジェローム・カレとスーパーチョップス

ニューヨーク武者修行時代・・・

Dr.チャールズ・コーリンの紹介で
私は、ジェローム・カレ(※)に出逢って、さらに新しい世界を見ることになったのでした。





(※)ジェローム・カレという日本語のカタカナ表記は、
実は、
のちに日本で紹介するにあたって私が決定した名前です。

Jerome Calletという名前は、
英語圏の人々の発音をそのままあえてカタカナ表記にすると
“ジェローム・キャレット”のようになります。
ジェローム本人もそのように名乗っています。

ジェロームの名字の“Callet”というのは
元々フレンチ・ネームから由来していると聞かされていたので、
おフランスっぽく発音した表記の方が
プロモーション的にも
ある意味で高級感とインパクトを与えてくれるのではないかという事で、
ジェローム本人の承諾を得て、
英語表記:Jerome Callet、日本語(カタカナ)表記:ジェローム・カレ
と正式に決定したのでした。





チャールズ・コーリンから手渡されたメモには、
Jerome Calletという名前と住所と電話番号が書かれていた。


“Jerome Callet??どっかで聞いた覚えがあるような・・・”


私が学生時代、ピエール・ティボーが草津のアカデミーで
教材として使っていた本の著者と同じ名前だった。

また、その頃のパイパーズ誌で桐朋学園の田宮堅二教授が
記事の中でその名前(Jerome Callet)と教則本のことに触れていた記憶もあった。

クラウド・ゴードン国際キャンプに1983年に一緒に参加した
東京パンチョスのトランペットの方が、
そのキャンプの前にニューヨークに行って習ったという人の名前のようで・・・


そんな記憶の人と同一人物かどうかも分からないまま・・・


私は、ジェローム・カレを訪ねて行きました。

ジェロームは、快く私を迎え入れてくれました。


「今、ちょうどGrand Prixという新しいトランペットの試作品ができたところなので試してみないか?」

と言われた。
(どうやらこの人は楽器を作る人らしい。先の教本の著者とは別人かも・・・と思った。)


私は、ジェロームにたいして(どちらかというと)これ見よがしな吹き方で吹いて見せた。

当時の私は、以前に鳴らすことができなかったハイノート等が鳴るようになっていて
(嬉しさのあまり)ある意味で有頂天になっていて、、、生意気で威圧的に吹いていました。

早い話が、態度が悪かったと思います・・・今考えるとお恥ずかしい限りですが、、、


すると、ジェロームは私に向かって、

「もっと強く吹いてみたらどうだ?!そんな感じではその楽器の性能の良さがわからないぞ!」

と言った。

(私は、結構本気で吹いていたのですが・・・)

私は、その時ジェロームのことを“なんて負けず嫌いのオッサンなんだ”って思っていました。



なんだかんだ言いながら、その楽器(Grand Prixの試作品)を買うことになり
帰りにジェロームから教則本とビデオテープをもらいました。


「家に帰って、このビデオを見ればさっき私が言っていた意味がわかるだろう。」

とジェロームは言いながら私に手渡したのだった。


これが、私とジェロームの最初の出会いで
その時ジェロームは一切トランペットを吹きませんでした。



(日本に帰国し)家に帰った私は、さっそく貰ったビデオを見ることにした。

そして、愕然とした!!

まさにジェロームが、
ピエール・ティボーや田宮教授が採り上げていた教本の著者で、東京パンチョスの方がゴードンのところへ行く前に習ったという人と同一人物に違いないということを確信した瞬間だった。

また、私自身にとっては、(おそらく)5メートル位に伸びていた鼻っ柱をへし折られた瞬間でもあった(笑)。


そして私は、すぐにニューヨークへ戻りジェロームを訪ねたのでした。


「あの時、なぜあなたはトランペットを吹いて見せてくれなかったのか?」

と私が聞くと、

「もしかするとただ単に楽器を買ってくれるかもしれないお客さんかなと思っていたし、もし本当に上手くなりたいと思う人ならば、ビデオを見てきっと直ぐに戻ってくるだろうと思っていたのさ。」

とジェロームが答えた。

「あなたのせいで私は、大阪〜ニューヨーク間の航空運賃を一往復分ムダに使うはめになった。あなたは私を弟子にとり、トランペットを教え上手くさせて、少なくともその航空運賃分(損失分)を取り戻せる(稼ぎ出せる)ようにする義務がある。」

と言って弟子入りを申し込んだ。するとジェロームは、こう答えた。

「たったそれだけでいいのか?今にもっと稼げるようになれるさ!!私に任せろ!」


ここからジェロームと私の真の師弟関係が始まり、早速レッスンしてもらうことになった。


私が初めてジェロームのレッスンを受けた時の第一声は、

「私のアプローチ法は一般に教えられているものとは違って実にユニークで、演奏で使う息の流れのすべてにたいしてココ(唇を指して)で抵抗をつけることにある。」

というものでした。


私は、ジェロームに言われるままにC(B♭)スケールを吹いた。

「もっと強く、1オクターブ上がる時には息の圧力が倍になるイメージを持って〜」

などと言われながら、口の両端(頬っぺたのところ)をムギュと掴まれると自分が吹いた音が劇的に変化したのだ!

まるで息の圧力の束を唇の中央付近で受けとめてエネルギーが倍増したような感じがした。


「口の両端の力を抜いて、唇の中心が最もグリップしているような感覚を持たなければならない。そのためには、あと口の中の上下の歯の間隔ももっと開ける必要がある。」

「これまでにトランペットを吹くための大体の技術は習得しているようだが、このセッティングに関しては注意深く練習してもらわなければならないだろう。」


等々、いろいろと注意を受けた。



これが、私にとってのSuperchopsの始まりである。



同時に、これが私の中で


「唇のことは忘れること。放っておけば、正しい練習をしているうちに自然に正しく機能するようになる。」

というゴードンの神話が崩れ落ちた瞬間でもあるのです。(ゴードンについてのすべてが崩れ落ちたのではありません。アンブシュアのセッティングに関してだけです。お間違いのないよう願います。)

確かに、クラウド・ゴードンが述べているように、正しい練習をしていればアンブシュアは自然に正しくなって、ある程度以上、上達することはできるかもしれないが、これがトランペットの演奏のすべてのゴールではないのではないかというふうに実体験に基づき私は考えるようになったのです。

(ゴードンが言っていることがゴールだと信じている人には申し訳ありませんが・・・)

息の圧力の調節が上達した先には、最も効率よく振動が得られるようなアンブシュアのセッティングは、必ずしも(ゴードンが述べるように)自動的に正しく習得できるわけではなく、ある程度意識して習得しなければならない場合もあるということを知ったわけです。

これが、

私が考えるクラウド・ゴードンとジェローム・カレのアンブシュアとそのセッティングに関する認識の唯一の相違点であるのですが・・・。

  

私は、1988年にジェローム・カレに弟子入りしてから
日本とニューヨークを頻繁にに往復するようになりました。
(少なくとも年に4〜5回以上の割合で)


渡米1回につき、その滞在中はほぼ毎日およそ10日間連続でレッスンを受けていました。

朝9時〜昼12時の3時間、午後1時〜夕方4時の3時間、1日計6時間のレッスンだった。


そのような日々が約3年間続いたのち、

(1990年4月にジェローム・カレの初来日を挟んで)


1990年9月15日

私は、ジェローム・カレから正式に“Superchopsクリニシャン”として認定されました。

http://www.rappa.co.jp/link/ninntei.html

  

1日6時間にわたるジェロームのレッスンは、確かにハードなものではありましたが、私にとっては実に充実した時間を過ごせたと思っている。

なぜならば、

ジェロームから言われることが、次々と現実に自分の実力として出来るようになっていき、どんどん上手くなっていく手応えを感じていたからです。


べつに自慢話をしようと思っているわけではありませんが・・・
ジェロームのレッスンが実に簡単に思えるほどに、どんどん吹けるようになっていったのです。


ジェロームに出会う前、私は、1日およそ16〜17時間の練習を約3年間続けてきたのだが・・・その時の苦労が一体何だったのかと思ってしまうほど簡単にできてしまったのでした。

一度はへし折ってもらっていた私の鼻が再びグングンと伸びていったのです・・・(笑)
(もう本当にどうしようもない大バカヤローです。)


さすがのジェロームも私のこの結果には少々驚いた様子で、自身の理論がまさに証明された結果なのだと勘違いしてしまうほどでした。(その時は、私もそう思っていましたが・・・)


その後、私は渡米のタイミングがうまく合う時にはいつもジェロームにニューヨーク・ブラス・カンファレンスやIAJEのカンファレンスにまるで商品サンプルのように連れ回されるようになりました。

ジェロームは、各カンファレンス会場で自分の楽器の展示ブースを出していた。

本来、それらの展示ブースはお客さんがいろいろな楽器を試奏できるようにあるのだが、ジェロームのところの展示ブースでは、いつも(隣近所の展示ブースの迷惑を顧みず)ジェロームの奏法レクチャーが始まる。

ジェロームとある一人の有名プレイヤーとの奏法談義(立ち話)から一人ずつ話に加わり、徐々にギャラリーが増えていき、気がつけば最終的にいつも数十人規模のクリニックが始まっているのだ。

そのクリニックの最後の方でいつもジェロームは、

『私の奏法のアプローチは実にシンプルで誰でも簡単にできるのだ。』
『私は、たとえ言葉の通じない猿にでさえトランペットを吹けるようしてみせる!』

と決まり文句のように言っていた。
そして、会場でぶらぶらしている私を呼び止めこう言うのだ。


JC:『オー!タイジーロー!!ちょうどいいところに来たな。』
(私の心の声:「来たんやのうて、いつもお前が呼んどんのや!」)


JC:『すぐに楽器を出してきて、この人たちに大音量のハイGを吹いて聞かせてやれ!』
(私の心の声:「おれは今日はまだ音出ししてへんのに、またそんなことさせるんかぁ?」)

また、私は“おれは言葉の通じない猿かぁ?”と思いながらも

「OK!!」と言って、そのように吹いて見せていた。


私が吹き終わるとジェロームはギャラリーに向かって


『私がトレーニングしてやったのだ。』
(私の心の声:「おれはお前に調教されてんのか?」)

といつも自慢げに話していた。


このようなことが、いつも台本に書かれているかのようにおこなわれていた。


毎回、私はまるで猿のような扱いを受けて実に不愉快な思いをしていた。

しかし!!

吹き終わった後のギャラリーの人々の私にたいする態度がまるで手のひらを返したように尊敬の念の眼差しに変貌していたので不愉快どころか逆に気を良くしていた部分もあった(根が単純なもので・・・)。

クリニック終了後、みなさん私に群がり口々に、「どんな楽器とマウスピースを使っているのか?」、「日頃どんな練習をしているのか?」等々、質問を浴びせてくる。(これがまた快感になっていったりもした。)

挙句の果てに、歩いている私の肩や背中をペシペシと触ってきたりする。
(まるで、花道から登場するプロレスラーや力士のような気分だった。)

この当時、私はジェロームの楽器とマウスピースのアメリカ国内の売り上げに相当貢献していたはずである。

そうして再び伸び始めた鼻っ柱の成長を促進することになっていったのです(大笑)。
(もうここまで来ると救いようのない単純なる大バカモノです。)


まさに“ジェローム・カレのSuperchops”の賜物である。

私は、それまで自分で積み重ねてきた努力とは関係なしに、なにもかもジェロームのアプローチのみでそのような成果をあげることができたのだと思い込んでしまっていたのです(*)。ジェロームも同様にそう思い込んでいました(*)。

(*)注意:後々この思い込みは大きな間違いであることに気が付かされることになります。
(私の心の声:まぁ、早い話が師弟共々ドツボにはまったっちゅうことですわ。)



このような修業時代(と言っていいのだろうか?)を過ごしているうちに、私は、ジェロームを日本に招聘する企画を思いつきました。


“こんなに簡単なアプローチで上達できるような奏法を日本に紹介することができれば、きっと興行的にも一大イベントになるに違いない”と考えたのです。

しかしその一方で、私の心の中には、

“もし、このオッサンを日本に連れてきて誰もがあまりにも簡単に上達してしまったら、おれの立場がなくなってしまうなぁ〜。長い間苦労した道のりは何だったのだろうか?やってられへんなぁ〜。困るなぁ〜。”

という心配も正直のところかなりありました。


しかしながら、

思わず目先の利益に目が眩んだ(笑)私は、1990年4月にジェロームを日本へ招聘することにしたのです。


日本全国各地(大阪、名古屋、長野、前橋、東京、金沢、輪島、福岡etc.)における公開クリニックとプライベート・レッスンをおこなったが・・・

多くの話題と注目を集め、イベント的には成功したかもしれないが、、、
一方で私が心配していたようなこと(誰もが簡単に上達してしまうようなこと)はなかった。


ただ誰も上手くいった人がいなかっただけなら話はまだマシで、Superchopsに関して勝手な解釈や誤解からくる誹謗中傷が飛び交うようにもなってしまいました。


ジェローム本人の前では、

「非常に勉強になりました。」、
「考え方が変わりました。」、
「世界(視野)が広がりました。」等々と

感謝の言葉を述べていた受講者の一部の人ですら、いざ本人が帰国していなくなれば、

「あんな奏法、音楽では使えないね!」
「フォルテシモは出せてもピアニッシモはでないのでクラシックでは使えない。
(悪い意味で)ジャズ屋さんの奏法だね。」、
「受講してみたけど自分には合っていないみたいだ。」等々と

言われていたようであった(後から聞かされることが多かった)。


ニューヨークでレッスンを受けていた時、私には非常に簡単に思えたハズなのに・・・?

ピエール・ティボーをはじめ世界の著名なプレイヤーも大勢ジェロームのレッスンを受けてこの奏法を実践していると聞かされていたのに・・・なぜ??

さまざまな???(はてな)が私の頭の中に飛び交っていきました。


(ジェロームは、その頃、そんな誹謗中傷や私の疑問など何も知らず
暢気に日本におけるクリニックの成功を喜んでいたのでした。)


実は、このようなさまざまな疑問の数々を解決することもできないまま、、、

1990年9月15日、私はSuperchopsの認定クリニシャンになってしまったのです。


ここから、

世間一般的に殆んど知られていない私自身の真の奏法に関する取り組みと試練のスタート地点となったのです。

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