金管ハンドブック(フレッド・フォックス著)

私が高校1年生の時(1978年)、
大阪・梅田のヤマハで発売直後のこの本を見かけ購入したようにおぼえている。
(当時、梅田の大阪駅前第1ビルの1Fにヤマハの楽譜の専門フロアがあった。通称、“梅ハ”と呼ばれていた。)

“ESSENTIALS OF BRASS PLAYING by Fred Fox”
の日本語版
『金管ハンドブック −奏法のすべて−』(パイパーズ刊)である。

著者のフレッド・フォックス氏は、
ワシントンD.C.ナショナル交響楽団、ミネアポリス交響楽団、ロサンゼルス・フィルハーモニック
パラマウント、R.K.O.両スタジオ等のソロ・フレンチホルン奏者を歴任し、
南カリフォルニア大学、サンタバーバラ・ペパーダイン両大学音楽アカデミーで教鞭をとった後、
カリフォルニア州立大学金管楽器科教授を務められた人だそうだ。


当時この本は、その表紙の色からか
金管楽器界の“赤いきつね”と称されていて、
一方で、前述の『トランペットのテクニック(D.デール著)』が“緑のたぬき”と
呼ばれていたように記憶している。
(一般的に定着していたかどうかは定かではないが・・・少なくとも私の仲間内ではそう呼んでいたような気がする)


先の『トランペットのテクニック』や『金管楽器を吹く人のために』等とは違って論文調ではなく、
一見、非常に親しみやすく読みやすそうに見え、
また日本語版の副題に“奏法のすべて”と書かれているので、
マジオ金管教本』以来、私の中でもやもやし続けていた“奏法の謎”について
今度こそ何かを掴めるのではないかという期待感を持って
何回も読んだものである。


しかしながら、
高校生だった私にはやはり、
書かれている内容を理解するには非常に難しすぎたと言わざるを得ない。

なぜなら本書には、
お手軽で親しみやすそうなハンドブックという表面上の姿とは裏腹に、
当初想像していたよりもはるかに高度な内容で、
理解しさらに体感できるようになるためには少なくとも何年間もの積み重ねが必要になる
のではないかと思われるような、
まさに“金管奏法に関する本質的な要素(エッセンシャル)(原題の直訳)
が盛り込まれていたからにほかならない。

 この本の中で最も重要なポイントは、“気柱というものの存在を認識し、それを自在にコントロールできるようになり、アンブシュアを正しく機能させなければならない”ということではないだろうかと思われる。

 気柱について、要約すると『唇の振動の結果つくられる音(というかたちの振動)は、2方向へ同時に伝わり、肺の底からベルの先に達する“振動する気柱”をつくりあげる。それゆえ、できる限り豊かな音を得るためには、唇から肺の底に達する“振動する気柱”をコントロールすることが、何をおいても重要になる。』という事になるのであるが、これだけでは何のことやらごく普通の人にとっては非常にわかり辛いものがあると思われる。 --- 実際、当時の私には当然のごとくわからなかった --- 金管楽器に限らず、木管楽器や声楽における発声のメカニズム等の息をつかっての演奏はいずれも、肺の底に達する空気柱を振動させて音を出していて、この振動の支え方はすべてに共通しているはずであるということは音響学的に確かなことであろうが、実際に目で見えるわけでもなく、また直接触ったり捕まえたりして確認することもできないということが、一番わかり辛い要因になっているのではないだろうか?つまり“気柱”という概念は、演奏者のある程度以上の熟達(完成)によってのみ、その演奏中にはね返ってくる感触から(間接的に判断して)初めて認識できる可能性があると思われる要素なのである。

 本書は、“気柱”にはじまり、いろいろな演奏に関する要素が含まれる項目が順に並べられ解説されていて、調べたいところ(読みたいところ)だけをサッとかいつまんで読むことができるような、さもお手軽なハンドブックのように仕上げられている。しかしながら、読み方によっては解釈や理解の深さに大きな差が発生する可能性があるように思われる。

 “気柱”およびその他の要素の項目を同列にして読み流し、単に金管奏法に関する便利な解説書として使われていることが多かったのではないかと思われる。

高校当時の私は、
この本を一通りは読んでみたけれど、
やはり
いろいろな項目の中から
“オープン・スロート”、“ハイ・ノート制覇の鍵”、“横隔膜の支え”、“アンブシュアの経済学”、
“唇の動き”、“アンブシュアを研ぐ”、“リムと唇の接触点”、“上唇と下唇の接触点”等の
特に自分自身の興味のそそる項目に絞って
繰り返し読み、場合によっては実際にに吹いて実験してみたりしていた。


結果的には、
“奏法についての何か”が見えてきたわけでもなく、
また、
急激にめざましい進歩を体感できたわけでもなかった。


数年後の浪人時代に、
このフレッド・フォックス氏に師事したトランペット奏者の
佐藤哲夫氏の記事“我が青春の軌跡”が
パイパーズ創刊号に載っていて(『マジオ金管教本』のところでも少し触れたが)、
興味深く何回も読んだのであるが、漠然とした事しか書かれおらず、
私自身の中で“奏法の秘密”だけが、ますます深まっていくばかりだったように記憶している。
(当時私は、佐藤氏がきっと何か重要な秘密をわざと隠して出し惜しみしているに違いないと思っていた)

まぁ、私の高校〜(一浪を経て)〜大学の頃程度の脳みそと演奏技能で考え解釈した話なので、
ある意味でそんなもんだったかなと今では思える。

 本書は、まず“気柱”という最も大局的な命題を掲げ、続いてその“気柱”を体感しコントロールできるようになる為の具体的なアイディアが順に述べられている、と考えて読むとよりわかり易くなるのではないかと思われる。(つまり、金管奏法の表面的な各要素を横並びにしたものではなく、それぞれの要素の行き着く先には必ず“気柱を上手くコントロールできるようになる”という共通の目標があるということだ。)

 本書には、一見すると一般的に奏法の本には欠かすことのできない“呼吸法”や“ブレス・コントロール”等の項目が載っていない。べつに呼吸を軽視しているわけではないのだろうが、むしろ逆に『息本来の役割は、唇で振動をつくりだすためのものであり、楽器から音を押し出すことではない』といった感じで、一般的“呼吸法”や“ブレス・コントロール”の意識し過ぎて陥りやすいオーバーブロウ傾向になることを指摘し注意と警戒を促すような捉え方を通して、“気柱をコントロール”できるよう導かれているように思われる。すなわち、“気柱をコントロールする”という概念は、“呼吸法”や“ブレス・コントロール”等などの各種の技術的な要素のすべてを含む大きな集合体であると考えることができるのである。

 “気柱をコントロールする”概念を獲得するための技術的(あるいは実験的)説明には、かなり多くの部分で“シラブル”が使われているために、簡単(お手軽)に読んだ人の中には“シラブルを肯定(あるいは推奨)している奏法”と解釈してしまっていた人も結構いたかもしれない(あくまでも推測だが・・・)。しかしながら、“気柱”を保持しコントロールするための技術としての母音の変化による舌の位置を説明するための手段として“シラブル”が使用されているにすぎず、その先に“気柱を認識しコントロールする”という大局的な目標(概念)が控えている以上、単に“シラブル”を使うべきか否かを争う事を目的としているような一般的な奏法論争(浅い認識での)等とは決して同じ次元で取り扱われるべき事柄ではないように思われるのである。

 技術的にかなり完成の域に達している奏者であっても、人それぞれサウンドに個性的な違いが生まれたり、あるいはサウンドの良し悪しの差が出たりするのは何故なのかという疑問について、この“気柱”という概念に照らし合わせて考えるとより正しい回答が得られる可能性があるのではないか(つまり、最終的にサウンドの良し悪しを決定付ける唯一の要因である)と思われるところが実に興味深い。

 一般的によく巷で紹介あるいは語られている金管奏法の多くは、唇が振動を起こし(同時に音楽的アーティキュレーションを整えながら)その振動を楽器にうまく伝えていくための能力を高めていく方法について述べられており、この“気柱”の概念から見れば、外へ向かっていく方向へのおよそ半分だけの要素についてしか述べられていないという可能性があると思われる。日頃から技術の向上を目指し、ある程度熟達(完成)の域に近付いたところでより良いサウンドの獲得を目指せるようになる頃には、残り半分の反対方向への部分も含めこの“気柱”という概念を体感できるようになっている(さらに、上手くコントロールできればもっと良いが・・・)ということは、金管プレイヤーにとって非常に有意義なことではないかと思われる。

 本書は、ある程度以上のレヴェルに達しているプレイヤーから見れば、より正しく理解でき納得のいくものとして受け入れられると思われるが、一方で楽器を吹くためのより具体的(身体的)操作に関して練習を積み重ねている(あるいは、そのような情報を求めている)段階のプレーヤーにとっては何か漠然としてよくわからないもののように映ってしまう可能性があるかもしれない(場合によっては、間違って捉えられてしまった情報が更に歪んで広がってしまう可能性もある)と思われる。 --- ひと口に金管奏法といっても、たとえ同じ情報であっても概念の捉え方やそれを受け止める奏者の状態によって様々であるという認識を決して忘れてはならないと思う次第である。

内容が“気柱”という究めて大局的な問題なだけに、
もっと突き詰めた考察をすることも可能だろうが、ここではこの位にとどめておくことにする。


非常に大雑把であるが、
当時の私が
最低限、上で述べた程度のガイドラインをもって本書を読んでいれば、
もう少し読みやすい(理解しやすい)ガイドブックとして利用し、もっと技術の向上に直接役立てる
ことができたのではなかったかと悔やまれるのである。

やはり当時の私は、奏法について
具体的(身体的)操作方法については非常に強く興味を示していたものの、
一方で“気柱”についてはそれほどの興味を持たず、したがって全く体感も理解もできていなかった
ということが今振り返るとよくわかるのである。




残念ながら現在、この『金管ハンドブック』はおそらく廃刊になっていると思う。
しかしながら、
音楽大学の図書館や公共の大きな図書館にはきっと所蔵されているはずなので
是非一度機会があれば読んでみることをお奨めする。

また本書の再版も強く願う次第である。

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