大阪芸大卒業(正確には大学5年生の時から)後の
山篭りのような練習期間

前の方の頁でも述べたが・・・

私は、
“音楽美学”と“音楽社会学”の二つの科目を
人よりたくさん勉強したかったという理由で(ただ単位が取れなかっただけなのだが・・・)
大学を卒業するのに5年もかかってしまった。

選考実技のトランペットは4年で修了していたので、
5回生の時は、
この2科目(月曜の1・2限目)だけの為に大学に通っていたので、
実質的には、卒業したような(有り余る時間をもてあました)状態であった。



トランペットに関しては、
前頁で述べたとおり)
地獄のような3回生&4回生時代を過ごしていたこともあり、
大阪芸大関連で発生するいわゆるフリーランスの仕事などについては、
お声がかかるような事は一切なかった。

クラウド・ゴードンの所へ行ったために
右手人差指の故障や森下先生からの怒りをかうなどの天罰が下り、
“私(竹浦泰次朗)がトランペットを吹いている”
ということ自体、なかった事にされていた感さえあった。
(いまだにそう思っている人もいるようだが・・・)



幸いなことに、
私には僅かながらトランペットで仕事を得る機会があった。

毎週火曜の17時から21時は、
大阪心斎橋のミヤコ・ミュージック・スクールのトランペット講師(これは大学2年の頃からやっていた)。

土曜・日曜・祝日は、
京都・大阪・神戸のシティ・ホテルの宴会場における企業などのパーティーでの演奏。
キーボード(シンセサイザー)伴奏によるソロがほとんどだった。

そしてたまに
大阪の某レコード会社のスタジオのレコーディングやサンプリングの仕事
を貰ったりしてしていた。

大阪芸大関連の多くの人たちの予想に反して、
ささやかでもトランペットでなんとか食いつなげる程度の収入を得ることができていたのだ。


とはいえ・・・
“演奏しているのをなかった事”にされていたほどなのだから、
当然のごとく
私の喇叭の技量は大したことがなかったのは
誰に言われるまでもない。
(だから絶対に上手くならなければならなかったのだ。)

まして、
一般社会人の方々と比べて、明らかに真逆な生活をしていたので、
特に実家のご近所さんから見れば
今でいうところのニートのような感じに映っていたに違いない。



なのでこの時期、
平日のあり余った時間を
“練習することこそ喇叭吹きの仕事である!”
と心に言い聞かせながら
山篭りのごとく
練習に打ち込む日々を過ごしていたのだった。


そんな生活が、
少なくとも3年ほどは続いていたように記憶している。

 1日の日課をざっと書き上げると・・・現在の私からでは想像もつかないかもしれないが・・・朝5時半頃、起床(当時は、本当に朝早くに起きることができていたのだ)。車で大阪城公園まで移動し6時から8時まで練習。8時半頃、自宅に戻り朝食を食べ9時から12時まで自宅で練習。12時から13時まで昼食&昼休憩。13時から17時まで自宅で練習。17時から18時まで、おやつ&テレビ休憩(当時の実家の稼業の従業員の方達に便乗して)。18時から19時半頃まで自宅で練習。19時半から20時まで夕食。20時から21時まで自宅で練習。車で弁天町(大阪市内)に移動(約30分)し、弁天町のスタジオで深夜2時頃まで練習。自宅に戻り、就寝。仕事のない日は、ほとんど毎日こんな感じだった。実に1日約16時間程度練習していたことになる。

 大学に入るまでに集めたもの、大学に入ってからアメリカに行って集めたもの、あらゆるマスコミの媒体を通して得た情報から集めたもの等、練習するための“おかず(教則本)ネタ”だけは、やり切る事が出来ない位に豊富にあった。まぁ、問題は・・・これらの“おかず”をどのように消化・吸収するのかが肝心な部分なのだが・・・とりあえずは、やってみるしか方法がなかったのだ。

まず初めに取り組んだのは、
大学時代に故障した右手人差し指をなんとか使える状態にまで
回復させることであった。

前頁で述べたとおり、
大学4年の卒試の時までに多少は普通の楽器で使えるようになっていたが、
まだまだ回復というには程遠く、
長時間に亘っての右手での演奏(練習)には非常に辛く困難なものがあった。
(人差し指が引き攣ったり、前腕に筋肉痛に近い張りを感じたりしていた)



私は、
クラウド・ゴードンからキャンプの時、

“普通に右手で演奏している人であっても、左手で右手でやっているのと同じくらいになるように
練習するのは、脳科学的にも有効である”


と教わっていたことを思い出し、
また同時に、
もしかすると右手人差し指を回復させるのにも有効なのではないかという考えに至り、

まずは“レフトハンデッド・スタディ”から

やってみることにした。


中途半端にこの“レフトハンデッド・スタディ”をやっても意味がないということは百も承知しており、
この際だから徹底的にやってみることにしたのだ。

つまり、
唯一、仕事の本番の時には普通のトランペットを使うが、
練習等それ以外の時はすべて、
ゴードンが私のために特別に発注してくれたレフトハンデッド・トランペットだけ
を使うというふうに決めたのだ。

そして
アーバンの教本とクラークのテクニカル・スタディを中心に練習を進めていくことにした。

      

 初めのうちは、苦労の連続であった。ただでさえアーバンとクラークは、普通の(右手用)トランペットで練習しても大変な代物なのに、いきなりレフトハンデッド(左手用)トランペットでやろうとするのだから上手く出来るはずもない。

 そこで私は、最初の練習目標のハードルを下げることにした。いっぺんに“出来る(或いは、出来た)”という状態を目指すのではなく、まずは“やってみた(或いは、やってみようとしたことがある)”という状態を目指すことから始めた。アーバンとクラークを隅から隅まで全部“やってみた”ことがあるという状態にすること、そこから何回転も反復練習を繰り返すことにより、最終的には“出来る”といえる状態にまでもっていくことができるのではないかという考え方だ。一度やってみようとしたことがある練習曲を二度とやってはならないという規則があるわけではないのだから、何回、何十回、何百回など無数に繰り返し練習してもいいわけで、回を重ねるにつれ、おのずと出来るようになってくるはずなのだ。また、隅から隅までやってみようとした結果、各練習曲の特徴(何のための練習か?等)を見極め、また自分自身の中の難易度(得手・不得手等)や好き嫌い等、あらゆる要素に分類できるようになる。ある程度は全ての練習曲を繰り返しさらう必要はあるが、必ずしも全ての練習曲を完全に均等に同じ回数繰り返さなければならない必要はない。他の課題よりも反復をより多くやらなければならない練習曲とそうでもない練習曲等にも分類したりすることもできる。そのようにして2回転目以降、回を増すごとに練習プランを自分自身の上達に合わせて変化・発展させていくことができるようになっていくのだ。

 これは当時、自分なりに必死で考え抜いた末に導き出した練習プランであったが、・・・もしかすると私が1984年のキャンプでクラウド・ゴードンから教わった時のあの言葉に通じているのではないかとふと気が付いたのは、この山篭り生活から何年かしてからであった。以下に私が賜ったクラウド・ゴードンの言葉を記す(前貢もご参照ください)。

                     ***************************

 “左手で練習するのも右手で練習するのも、基本的には全く何も変わらない。要は、いつ、何をどのようにすれば上達する事ができるのかを見極める思慮分別が必要となる。それが見極められるようになりさえすれば、別に私に習わなくても上達することが出来る!頑張りたまえ!”(クラウド・ゴードン)

しかしながら、よくよく考えてみると・・・
私は、大学時代までに
アーバンとクラークについては、代表的な部分を適当にかいつまんでやっていたことはあるものの、
隅から隅まで全部など普通のトランペットですらやったことがなかったのだ。

実際問題、
“レフトハンデッド・スタディ”によるこの練習プランを実行するのはかなり大変であった・・・

しかし、
私にはあり余るほど多くの時間があり、
また、
これ以外他に何もすることがなかったのが幸いしたのかもしれない。

 アーバンをただ最初から順にやって仕上げていくというそんな単純なものではないことは、誰にでもご理解いただけると思う。とりあえず、それまでの経験からある程度はすぐに出来るであろうと思われる課題から取り組むしかなかった。しかし、出来ると思ってやってはみたが、すぐに出来なかったりするものも意外と多く、普通に右手のトランペットでやっていた頃に比べて左手でやるのは想像以上に難しく感じた。なんとか攻略するために、それぞれの課題を噛砕くようにして非常に細かく分解し、あらゆるアタック、アーティキュレーションを組み合わせたり、またリズムやダイナミクスを変化させたり等しながらゆっくりとさらい、徐々に繋ぎ合わせてゆき最終的には一つの課題が出来あがるように進めていった。そのようにして一つずつやったことがあるという状態に仕上げその数を増やしていった。最初のうちは気の遠くなってしまうような感じだったが、徐々に要領も良くなっていったせいか、仕上がりの速度も上がってくるようになっていった。私は、それまでの私の喇叭人生の中でこれほどまでに細かく分解・分析し一つ一つの練習曲を仕上げていったことがないと言えるほどに、丁寧な練習を積重ねていくという経験ができた。また、このように進めていけば、どんな初心者のような人であっても、例外なく、必ずアーバンを隅々まで攻略させることができるに違いないと確信するほどにまで至ったのだ。

 クラークの方は、1983年と1984年にゴードンのキャンプに参加したこともあり、どのように練習を進めればよいのかある程度は知っていた。各スタディをシングル・タング、Kタング、ダブル・タング、トリプル・タング、スラーをそれぞれ1週間ずつ練習して進めていくとおよそ9カ月程でとりあえず一通りのスタディを仕上げることができるというものなのだが・・・・右手で普通にやっていた頃は、このようにすれば比較的容易に仕上げることができるのではないかと感じていたのだが、いざ左手でやろうとすると非常に負担に感じるものがあり、やはりこのクラークも前述のアーバンと同様に独自に非常に細かく分解したところから練習し始めるしかなかった。教本の性格がメカニカルなつくりになっているせいか、アーバンよりも練習を軌道に乗せるのが早かったように記憶している。

 1年も経過する頃には、“このまま左手をメインにしてやっていこうか”と思えるほど上達していた。そして試しに右手にもどして(約1年ぶりに)アーバンとクラークを練習してみたところ、驚くほど良くなっており、もう右手にもどしても大丈夫だろうと思えるぐらいに私の右手人差し指は回復していた。また、良くなったと感じたのは右手人差し指だけではなかった。驚いたことにアンブシュアの状態も以前に比べ何となく安定したような感じで、吹くこと自体が非常に楽になっていたのだ。もしかするとレフトハンデッド・スタディには、単に指の回復だけではなく演奏そのもののクオリティをも向上させる働きがあったのかもしれない。

 こうして、およそ1年間続けた“レフトハンデッド・スタディ”を終え、普通の右手用トランペットに本格的にもどることにしたのである。それまでやっていたアーバンとクラークの練習は、もちろん右手用トランペットに引き継いだ。

レフトハンデッド・スタディをやっていた約1年間、
右手用トランペットを全く吹いていなかったわけではない。

前の方で述べたが、
仕事の本番の時だけ、右手用トランペットを吹いていた。
しかし、本番のための曲の練習は左手用トランペットでやっていた。

普通に考えると・・・
本番に悪影響が出たり、何か大きな失敗をするのではないかと思えるのだが・・・
(最初のうちは少々心配していたが・・・)

実際はそれどころか
むしろ徐々に調子が良くなっていっているのではないかと思えるほどだった。
悪影響を感じたり、大きな失敗をすることはなかった。

不思議な感じだが、やはり“レフトハンデッド・スタディ効果”のようなものがあるような気がする。


当時、私の右手人差し指はかなり回復はしていたが
完治はしていなかった。
後遺症ともいえる若干の引き攣りは残っていたため、
第1関節と第2関節の間あたりでバルブを押さなければならなかった。
この後遺症は、それから十数年間続いたが、
2002年7月頃、
ふと気が付いたら完全に治癒していた。
今現在の私は、何の不安を感じることもなく演奏することが出来るようになっている。
・・・ということを付け加えておく。




こうして無事に
普通の右手用トランペットにもどることができ、
アンブシュア等、演奏そのものの調子も少しあがっていったことで
私を取り巻く練習環境が一変したのだが・・・

これは本来の意味における
これから始まる暗くて長い果てしのない山篭り生活のスタート地点にすぎなかったのだ。

 右手に切り替えてからは、豊富に取り揃え準備していた教則本にようやく取り組むことができるようになった。アーバンとクラークを左手である程度攻略してきたことで、ほとんどの教則本には、この応用が当てはまることが確認でき、比較的スムーズに課題を進めていくことができた。

 アーバン、クラークをはじめとして、コープラッシュ、へリング、チャールズ・コーリン、バレイ、アーネスト・ウィリアムズ、アーロン・ハリス、セイント・ジャコム、シャルリエ、マルセル・ビッチ、アイアン、ウォルター・スミス、デル・スタイガー、クラウド・ゴードン等々、まだまだ書き上げていくとキリがない。ちなみにアーバンに関しては、米国カール・フィッシャー版(日本版と同じ内容)以外にフランス版にも一通り眼を通すことで、原典(フランス)版との違いなどを比較分析することもできていた。

 次々と教則本をこなしていくうちに、自分自身の技術的状況を客観的に診ることができるようになり、各教則本に含まれる要素を分析し、技術の上達のタイミングにあわせて自分自身への適切な課題として当てはめることができるようになっていった。教則本を進めるにしたがって徐々に効率がよくなり、結果的に自分でも思ってもみなかったほど多くの数の教則本をこなしていた。ただ単に、むやみやたら数をこなせば良いというのではなく、発達段階の途上のあらゆるタイミングに沿ってより適正な課題を判断し当てはめることができるようになったのが良かったのではないかと思う。

 これこそクラウド・ゴードンが言っていた“いつ、何を、どのように練習すれば上達することができるかを見極める思慮分別”なのではないかと私は思う。また、誰かに習ったことだけを鵜呑みにし、訳のわからないまま、ただ言われた通りにだけやって、いくら多くの教則本をこなすことができたとしても、このゴードンの言葉を実感するまでには至らなかったのではないかとさえ思うのだ。そして、ラッパ吹きたるものは、この“いつ、何を、どのように”を見極めることができるようになれば、形を状況(年齢や上達度)に合わせ変化・発展させながら一生これらを実行し続けなければならないのではないかと思うのである。

いろいろな教則本を進めていくにしたがって
確かに、上達していく手応えを感じてきてはいたのだが・・・・
(上達していないよりは、はるかにマシなのだが・・・)


さらに1年半ほど経過した頃、

私は、
具体的にどう解決したらよいのか分からないような
漠然とした不満を抱え
悶々とした日々を過ごしていた。



その漠然とした不満とは、
サウンドのクォリティ”&“音域”についてであった。



音の立ち上がり、透り(投射力)、色彩感などなど
奏者の個性を決定づける音の核をいかに形成し、またそれをいかに上達させるのかという方法について
全く手がかりのない状態であったのだ。

教則本を攻略していくことで、
動作的な問題はかなり解消され、音的にもそれ相応程度の上達はしているとは思っていたけれども
劇的に音の質(クォリティ)が向上しているとは考えにくかったのだ。

私は、その手がかりを見つけるべく
日々の練習の中で、“アタック”について特に注意を払い練習していた。

モーリス・アンドレが50歳を目前にした時の来日の際、
パイパーズ誌(21号)のインタビューで、
若い人たちへのアドヴァイスとして一言、“アタックを良くすることだ”
と述べていたけれど・・・

吐き出す際にいくらか圧縮された息が音として現れる瞬間を“アタック”ととらえるならば、
タンギングが伴っていようとなかろうと
その瞬間を常に息のコントロールで均一に保たせることができるはずだ・・・
ということに注意しながら
とりあえず、“軽い立ち上がり”を目指し練習していたが、
なかなか思い通りに“軽く”はならなかった。



また音域については、
無理やり頑張ればある程度の高さの音までは鳴るのだが、
音楽で使う音として確実にモノにできているという実感は持っていなかった。

1日の練習の最後に
クラウド・ゴードンのシステマチック・アプローチという教則本を必ずやるようにはしていたけれど・・・

元々、それほどハイノートが得意だったわけではなかったし、
当時やっていたソロの仕事は、
選び抜かれたいわゆる“ハイノートのスター”が求められているような仕事ではなく
淡々と安定して数多くのポピュラーなメロディが
吹けることを求められていた。
したがって、
ハイノートに関しては、なかば諦めというか、むしろ捨てていた。
特に期待はしていないが・・・という感じだった。




このような不平不満を抱きながら
私は、毎日毎日およそ16時間かけて教則本を練習し続けていた・・・・

こんなことを続けていても意味があるのだろうか?
何歳までこのような練習(生活)を続けなければならいのだろうか?

やはり努力というものは、
特に選ばれたような優秀な人だけ報われるものであって、
私のような凡人には、いくら努力しても一生報われることなどないのではないか?

私は、喇叭吹きとして結局モノにならないのではないだろうか?


いろいろな不安が、私の頭の中をよぎっていった。



ちょうどこの山篭り生活を始めてから2年半ほど過ぎた頃のそんなある日の朝、
神様仏様のお導きではなかろうかと思える出会いがあった。

早朝の大阪城公園での出来事である。

 午前6時、いつものように大阪城公園に行き練習を始めようとすると、かなり遠くの方で既にトランペットを練習している人がいることに気が付いた。かなり離れていたにもかかわらず、その人の音は非常に“抜け”が良く、よく響いていた。遠くから聞こえる僅かな音を聞いただけでも、明らかに素人ではない、それどころかおそらく只者ではない超一流のプロフェッショナルに違いないことは確認できた。

 私が練習を始めてしばらくすると、その方は練習が一段落ついたようで楽器をケースに収め自転車に乗って私のところへ近づき話しかけてこられたのだ。お互いに自己紹介をすると、なんと私が知っている方だった!!ただし、知っているといっても、お名前だけだったのだが・・・この方は、当時、関西の有名ビッグバンドのリード・トランペットを歴任され、のちにフリーランスとして各方面でご活躍され、既に名を馳せていた存在の超大物奏者であったのだ。私は、学生時代からかねがねその噂は存じ上げていたのだが、実際にお目にかかるのはこの時が初めてであった。

 この方がおっしゃるには、前日の仕事が終わって家に帰って“Tonight Show Band with Doc Severinsen Vol.2”のレコードを聞きながら、“どうすればこのDoc Severinsenのように上手くなることが出来るのだろうか?”と考え込んでいるうちに夜が明けてしまったのだそうだ。そして気分転換に大阪城公園で吹いてみようかなと思って5時頃に来ていたらしいのだ。私は、こんなに有名で地位のある方でも、もっと上手くなりたくて考え込んでしまうようなことがあるのかと、感心するのと同時に驚きを隠すことが出来なかった。また私は、この方が具体的にどのような考え込みをされたのか、非常に興味を持った。

 私は、思い切って尋ねてみることにした。

 なんでも、Doc Severinsenのサウンドのイメージを、自分自身のサウンドの中に磨り込んでいきながら取り込むという作業を必死に模索していたのだそうだ。また必死に模索をしたとしても、そうなかなか上手くはいかないものなのだそうだ。何となくわかったようで、実はあまりよくわからないと私が言うと、楽器を取りだし、目の前で実際に吹いて見せてくれた!

 強烈なサウンドだ!!決して大袈裟な表現ではない。先のSeverinsenのレコードにも収録されている“Stardust”を、なんとレコード(Doc Severinsen本人)と聞き間違えてしまうほどに、見事にDoc Severinsenバリに吹かれたのだ!(しかし、これほどのサウンドなのに、この方にとってはまだ満足のいく状態ではないそうなのだが・・・・)そのサウンドに私は、まるでハンマーで打たれたかのような衝撃を受けた。それは、正真正銘“本物のプロフェッショナルの音”、そして“稼いでいる音(少々下衆な表現だが・・・)”であると確信した。私は、それまでにアメリカのゴードンのキャンプや日本国内でもいろいろなプレーヤーの音を真近で耳にしたことがあったが、これほどの衝撃を受けたサウンドに遭遇したことがなかった。そう、私はこの時、初めて私自身にとっての“最高のサウンドのお手本”と言えるモノを手に入れることが出来たのだ!!

この時以来、
私は、超大物奏者のあの方のサウンドにすっかりとりつかれしまっていたのだ。
寝ても覚めてもあのサウンドが頭から離れない。

ある意味で、恋煩いでもしているかのようであった。


私は、日々の練習の中にも
あのサウンドのイメージを自分自身のサウンドの中に
磨り込んでいきながら取り込むという作業を必死に模索するようになっていた。
(あの方がSeverinsenのサウンドにそうしようとしていたように・・・)

私のサウンドに不足していたのは、
お手本となるべきサウンドの目標を手に入れ、如何に取り込み、吸収し、そして発達させていくのかという
要素にほかならないということだったのだ。
(これまた、クラウド・ゴードンの教えに通じるところがあるようにもみえるが・・・)


その後、
それまで抱えていた悶々とした不平不満も徐々になくなり、
また、
喇叭の上達の手応えも
それまで以上に加速度を増して感じることが出来るようになった。


もし、あの日、
午前6時の大阪城公園であの方に出会わなかったら、
私の進歩は、間違いなく今より10年以上遅くなっていたに違いないと確信している。
直接師事することはなかったものの、
最高の心の恩人(恩師)であると思っている次第であります。
この場をお借りして御礼申し上げます。
ありがとうございました。

 私は、あの日以来、超大物奏者のあの方のトランペットに対する謙虚な姿勢、熱意、そしてあのサウンドに感銘を受け、迷うことなく練習に打ち込み日々を送る事が出来るようになっていた。世の中、上には上がいるということを知り、またそれを目指し、追いつき追い越そうとすることで自分自身を限りなく高めていかなければならないことをあらためて知らされた。また、それまで無駄に長い練習時間だけを過ごしていたかもしれず、もっともっとその内容をクォリティの高いモノにしなければならないということも痛感した(そうでもしなければ、同じ時間を共有するあの方をはじめとするお手本となる全世界のプレーヤーに追いつき追い越そうとすることが目指せなくなるからなのだ)。 

山篭り生活が
それから更に半年ほど経過したある日、
私の喇叭に急激な変化があらわれることになった。

 いつものように早朝から大阪城公園で練習を始め、(上述のスケジュールを予定通りこなし)一日の最後の練習にとりかかる大阪・弁天町のスタジオでその変化が起こった!

 日頃から不満に感じながら練習していた“アタック”について、なんとなく“軽く立ち上がる”フィーリングが掴めたような感じがしたのだ。“こんな感じかな?”と思い、確認のためにクラークのテクニカル・スタディのいくつかをシングル・タンギング吹いてみた。普段なら、もう夜の11時近くなので朝から10時間以上吹いていた後だから、かなりバテているはずで、絶対に“軽く”吹けるようなことはない。何か気のせいかと疑ってみたが、明らかに“軽いアタック”という感覚が掴めたような気がしたのだ。また、Kタングについては、シングル・タンギングと(他人からは)見分けがつかないかもしれない状態で刻むことが出来るようにもなっていた。しかし、それ以上に楽器を吹くことそのものが急激に楽になっていることに、なにより驚いたのだ!!練習していて非常に難しく感じていたエチュードの何曲かも、もの凄く簡単に感じるようになっていた。

 しかもそのうえ、驚くべきことに、なかば諦め捨てていた“高音域”が伸びていたのだ!!吹こうと思えばどこまでも上がっていけるような気分がしていたので、試しにクラウド・ゴードンのシステマチック・アプローチの中からいくつか吹いてみたが、この教則本に書かれている音符を初めて最後まで吹くことが出来た。私は、この教則本で最後の音まで到達したことがなかったので、自分自身かなりビックリした。また、メイナード・ファーガソンのモノマネをするような感じで、知っている何曲かの一部を吹いてみたりもしてみた。当時の私のそれまでのレベルでは考えられないほどに楽に吹くことが出来るようになっていた(*)。

(*)注意:たんなるモノマネが出来るようになっていたのであって、決してメイナード・ファーガソンのように吹けるようになったと言っているわけではない -- 誤解のないように願います。

 なんかキツネにつままれたような気分だったが、徐々に実感が湧いてきた。長く終わりの見えない山篭り生活の成果があらわれたのだと確信した。まさに天から光が差し込んできたかのような気分がしたのだ。

 思い起こせば・・・ゴードン・キャンプでお世話になった杉山正氏が、パイパーズ9号の“トランペット「苦行僧」杉山正の900日+α”の記事の中で、最初は辛い日々を過ごされていたが、ある日“遂に変化が起きた!!”と書かれていたが・・・、そのことと全く同じかどうかは正確には分からないが、かなり似た体験ではなかろうかと推測している。パイパーズ9号の時点で杉山氏の場合は、1日14時間の練習で“900日+α”かかったとされているし、私の場合もおよそ3年の期間が経過していた。高い目標を持ち、ある程度の成果を得るためには、地道な努力の積み重ねとある程度以上の時間が必要不可欠であるという点で共通していると言えるのではないかと思う。

およそ3年間かかった
この山篭りのような練習期間で私は、
“やっとトランペットが吹けるようになった”と思えた。

大学時代後半の
ある種のトラウマと決別し、解き放たれた今、
ようやく自分の力でトランペットが吹けるようになったのだ。
もはや、“吹いていることをなかった事”にすることなど誰にも出来まい!!



私は、これまでの喇叭人生の中で
自分自身が“トランペットが吹けるようになった(あるいは、上手くなった)”と思えることを
何度か経験したことがあるが、
このことは間違いなく、その記念すべき第1回目にあたる!
と言える。

すなわち、
私、喇叭吹奏業(トランペット奏者)竹浦泰次朗の
本当の意味におけるトランペットのキャリアは、ここから始まる!!

ということなのだ。




その後、しばらくすると
私の個人事務所のビーフラット・ミュージックが
有限会社として法人化するにあたり
大阪ミナミの大阪ジュエリービルにテナントとして入居することになり、
小さな防音室を設置し練習場所を確保することが出来たため
この山篭り生活にピリオドを打つことになった。

大阪ジュエリービルに入居後もしばらくの間、
早朝の大阪城公園での練習は続けていたように記憶している。



この山篭り生活で
私は、決して喇叭吹きとして完成したわけではないということを
念のため最後に付け加えたい。

年齢とともに絶えず形を変化させながらでも、
(若い頃と同じやりかたは出来ないかもしれないが)
喇叭吹きとして、
この“山篭り”のごとき研鑚を積み続け、
一生涯さらなる高みを目指し続けなければならないと強く思う次第である。



     

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