て麓まで転がしリアカーで家まで何時間もかかって運び出したものだった。(いまだに村では語り草になっている。)自作
の三線が村中の三線弾きの話題となり学生ながら多くの注文を受けるようになる。よく父親に連れられて近所に蓄音機盤
を聴きに行く。そのとき耳にしていた普久原朝喜・京子両師匠に後に運命的な出会いをするとはツユ知らずに...。
屋良常雄(やら つねお)・・地元宜野座の地謡だった父や、宜野座区の伝統芸能京太郎
(チョンダラー)復活の立役者でもあった芸能一筋の兄の影響で、幼い頃から三線に親しむ。歴
史のある上等三線があると聞けば方々尋ね歩いた彼らの恩恵で数々の名器に触れる機会に
恵まれ、本物を見極める力をつける。小学3年生の時、庭に植わっていた桑の木をナタで
倒し、ナタとガラス瓶を割って自作した道具を使い三線をつくる。学校が終わると脇目も
ふれず帰宅し、三線に限らず木で作れるものなら何でも(コマ、木製のロボット、船、車
おもちゃなど)黙々と作っていた。分厚い立派な碁盤もナタで何ヶ月もかかって作った。
その材木は、友達を引き連れガラマン岳頂上に登り直径50センチ程の樫の木を切り倒し

高校卒業後、彫刻家を夢見、自作の三線と鞄ひとつを抱え、船で大阪に渡る。仕事をしながらアパートで三線を作り、三
線の稽古は近所迷惑を考え公園でしていた。そこに通りかかったある沖縄芝居の大物役者の娘に声をかけられ、吉栄会
(きちえいかい) 普久原研究所を紹介され入門。今尚琉球音楽界に絶大な影響を与えている普久原朝喜 野村流師範に古典音楽・
舞踊曲・琉球民謡を師事、普久原京子師匠に舞踊を師事した。同門で吉栄会二代目会主の西銘春雄 野村流大家に見込まれ、
普久原師匠の同意のもと弟子入り。西銘師匠の熱心な指導にこたえ古典音楽・舞踊曲を徹底的に研究。後に吉栄会三代目
家元を襲名。音楽家として名高い西銘・普久原両師匠だが、ものづくりの才能にも大変長けており、常に音色の研究に余
念がない姿勢を間近で感じたことと、知識や加工技術などを授けられたことは、音楽家としても職人としても大きな財産
であり確かな指針となっている。六絃を発明した普久原師匠の柔軟な感性にも大きく影響を受け、伝統的な三線づくりに
加え、オリジナル三線の製作にも才能を発揮。現在生まれ故郷の宜野座村に野村流古典音楽・屋良流琉球民謡 吉栄会本部
を設置し吉栄会の卓越した歌三線の技能と歌心を有望な門下生達に教授する傍ら、自らプロの実演家として活躍、また
作詞作曲も手がける。門下生で結成されたグループ“がらまん美童”プロデューサーとしての顔ももつ。職人として、音楽
家として評判を呼び、また、柔和な人柄を慕ってプロの民謡家や古典音楽家も多くの訪れる。琉琴を製作修理できる稀な職
人でもある。
新垣睦美(あらがき むつみ)・・・幼い頃から手先が器用で、絵を描くことや、頭の中に思
い描いたものの映像から図面をおこし、湧き出てくるアイディアを加えながらひとつのものを
作り上げていくことが得意だった。職人の匠の技を取材したドキュメンタリー番組などを見る
のが大好きで、丁寧なものづくりに携わるのが密かな夢だった。 三線との出会いは、古典音楽の
師匠である祖父の家の床の間に三線が置いてあり、そのたたずまいになんとなく惹かれ、高校生
の時に数時間ではあるが、教えてもらう。もっと弾いてみたいとずっと思い続け大阪外国語大
学在学中に、吉栄会に入門、上地礼子師匠に師事、三線を習い始める。卒業間近の頃にどの道
に進むか迷っていた時、学業に忙しく遠のいていた“大好きなものづくり”をふと思い出し、
いても立ってもおられず、勉強机の引き出しを壊して材料にしカンカラ三線を作る。その時の
爽快感が忘れられず、卒業後仕事をしながら本格的な三線を独学で作る。その三線が屋良師匠
の目に留まり、職人となる。吉栄会で野村流古典音楽、屋良流沖縄民謡を屋良常雄師匠に師事。吉栄会民謡部 屋良流沖縄民
謡 師範免許取得。野村流音楽協会(古典音楽) 教師免許取得、新報社主催 古典音楽 三線の部 新人賞受賞。民謡グループ
がらまん美童(みやらび)リーダーとして活躍後、ソロに。
三線職人紹介



